デソレーション・ブルース

八壁ゆかり

一日目「意識を蝕む雨。高坂輝。侵蝕の開始。右肘から指先」

 意識を蝕む雨は二日ほど前から降り続いている。

 高坂輝が自らの中の異変に気付いたのは覚醒した瞬間だった。彼は夢を見るタイプではなく、仮に何かしら見たとしてもまぶたを開いた瞬間に全て忘れる質だった。

 ところが今朝は違った。目を開けても、鮮明な映像が脳裏に焼き付いていた。公園で、ブランコに乗っている。視界は上下に大いに揺れる。空が見え、地が見える。背中を押してくれる温かい手。そして隣のブランコにもう一人。

 なんだこれは。

 輝はベッドに寝転がって天井を見つめたまま少し考えた。自分の古い記憶だろうか。それともこれが夢というやつだろうか。だとしたら『夢見が悪い』とはよく言ったものだ、と思いながら、輝は身を起こした。そして枕の脇にある物体を見た。


 腕。右腕の、肘から指先までが、そこにあった。


 マネキンかと見紛う程、それは自然に切断されていた。血液の付着もなければ切り口も鮮やかだった。しかし幸か不幸かそれはマネキンではなかった。腕には血管が浮き細い毛が生えていたし、指にも男性らしい産毛があった。輝がそれが右腕だと気付くまで、少し時間がかかった。

 他意なく、それに触れてみる。ひんやりとしている。手首を掴むとくにゃりと曲がった。勿論鼓動など感じられない。

 輝は腕を掴んだままベッドから出て、キッチンを抜けて物置部屋の戸を開けた。物置といっても本や古い家具がある程度で、上手く片付ければシェアルームも出来る程度の広さがあった。

 空腹を感じた輝は、その右肘から先を物置の入り口に置き、ドアを閉めた。



 キッチンに向かい冷蔵庫の中を見る。 

 古くなりかけた卵とレタス、バター、ミネラルウォーター。脇には値上がり前に買いだめしたタバコのカートン数箱と食パンがあった。

 輝は八枚切りの食パンを一枚取り出してシンクの脇に置き、フライパンを取り出して目玉焼きを作った。卵が焼ける間に、上の戸棚から紅茶のパックを一つ取り出す。赤いマグカップに落としポットから熱湯を注ぐ。湯気がたつ。砂糖を少々とミルクを入れ、一口飲んでからフライパンの火を止める。横の棚からメイプルシロップを手に取る。

 食卓に簡単に配膳をし、マグカップ片手に椅子に座る。そういえば今朝はまだ新聞を取ってきていない。玄関に向かい郵便ボックスを開くが、何も入っていなかった。どういうことだろう、と思いながらもとりあえずは空腹が先立ち、輝は食卓に戻った。


 食事を終えて時計を見る。午前九時十分。今日は何の日だ?

 今日は何の日だ?

 突然、輝は気付いた。

 自分が一体どういう生活をしていたか、生活手段である仕事が分からない。

 いや、それだけか?

 輝は自問した。何かがおかしい。何か忘れていないか?

 俺は高坂輝、二十六歳、荒川区東日暮里在住、職業は……職業は?

 分からない。

 と、先ほどの映像がまた脳裏に浮かんだ。ブランコから落ちてしまう様子。膝を打った痛みに泣き喚く。

 なんだこれは。

 やはり自分の古い記憶だろうか? とも思ったが、現在の自分について思い出そうとする度に、その映像が浮かんだ。まるで邪魔をするかのように。

 何か手がかりを探そうと、輝はベッドの反対側にあるデスクに向かった。デスクの上はきれいに片付けられていて、塵一つ落ちていなかった。引き出しを上から順に開けてみると、文房具などと一緒に履歴書があった。顔写真が付いたもので、生年月日から学歴まではしっかりと記入されている。しかし、職歴欄は空白だった。

 おかしい、俺は高校時代からバイトをしていたし、大学を出た後も……大学?

 履歴書には、『東院大学第二文学部卒業』と書いてある。

 輝は記憶の糸をたぐる。

 大学、そう、俺は本が好きだった。文学が好きで、志望校の志望学部に入って、そうだ、好きだった教授のゼミナール演習に参加して卒論を書いた。友人もそれなりに居た。今も連絡を取っている者も居る。

 しかし何故、記憶がこれほどまでに曖昧になっているのか。

 そして記憶領域を迫害するように現れるこの映像は何なのか。

 そもそもあの腕は何だ? 死体? 誰の? 何故俺のベッドに?

 その時、インターホンが鳴った。



「私、間違ってないわよね?」

 桜子はいつものように唐突に言った。輝に問うているというよりは自分に言い聞かせているようでもあった。

 輝はパジャマ姿だったが、今更そんなことを気にする間柄ではない。対して桜子は今日もきれいに化粧をし、雨に濡れた茶色い巻き毛をひっきりなしに掻き上げながらソファでタバコを吸っていた。セーラム・ピアニッシモ。

「ああ、間違ってないよ」

「そうよね」

「そうさ」

 輝は食卓に座ったままタバコに火を付けた。2Kのこの部屋はキッチンとユニットバス以外は繋がっている。

「貴方、今日ちょっと変ね」

 コーヒーを啜りながら、桜子が言った。

「そうかな」

「そうよ」

 輝はタバコの煙を胸一杯に吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「実はよく分からない事が起こっててね」

「あらそう。大変なのね。可哀想に」

「……俺、何の仕事してたっけ?」

 桜子が初めて輝の眼を見た。

「そんな事私が知る訳ないでしょ」

「そうだっけ」

「そうよ」

 口紅でうっすらと赤くなったフィルターを持って、桜子がタバコの火を消す。

「私、自分の決断は正しかったと思ってるわ。満足してる。たとえこの先どうなってもね」

「それは良い事だと思うよ」

「そうよね」

「そうさ」

 桜子が立ち上がってバッグを手に取る。

「もう仕事だから行くわ。また近々来るから」

「あ、ちょっと待って」

 輝はタバコを揉み消しながら玄関に向かう桜子を追った。

「知らなかったら答えなくていいんだけど」

「何よ」

 桜子の手は既にドアノブに掛かっている。

「俺って、何者だっけ」

「高坂輝、二十六歳。私が知ってるのはそれだけ」

「そうか。ありがとう」

 桜子は無表情に出て行った。



 それからしばらく、輝はソファに座って天井を仰いだまま自分の半生について思い出そうとしていた。執拗な雨音が木造アパートに響く。

 生まれて間もない頃、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、現在。

 大体の事は覚えていた。『現在』の項目以外は。『現在』に思いを馳せようとすると、あの映像が浮かぶのだ。ブランコ、公園、樹木。

 これは一体何なんだ。

 その時、デスクに置いてあった携帯電話がバイブレーションで着信を伝えた。手に取ると、

『着信 水原謙太』

 とある。大学時代同じゼミだった友人だ。水原は現在会社員として日々忙しく過ごしているはずだ。今この状態で電話に応じる事には若干の不安を覚えたが、はたして輝は通話ボタンを押した。

『よう、輝。元気? 今日休みだろ?』

「ああ、それなんだけど」

『何だよ、なんかあったのか?』

 水原は心配げにそう言ったが、輝自身この現象をどう説明していいか分からずに居た。

「えっと、今日って平日?」

『金曜だよ。俺、急に午後空いてさ。上野まで行くから会おうぜ』

 輝はとりあえず了解して電話を切った。


 シャワーを浴びて髭を剃り、シャツとジーンズに着替えてから、バッグに何を入れるべきか考えた。

 財布、携帯電話、タバコ、ライター、他には思いつかなかったが、バッグの奥底に、読みかけていたル・クレジオの「大洪水」が入っていたのでそれも一緒に詰めて、玄関に向かった。

 ふとあの腕の事を思い出し、輝は踵を返して物置部屋に戻った。

 扉を開くと、腕は無くなっていた。

 全く、本当に訳の分からない事になっている。



 幸い雨は小雨程度になっており、折りたたみ傘で事足りた。

 水原とは上野のアメヤ横町にある店で待ち合わせた。音楽好きな水原の好みの店で、夜はライブバーになるカフェだった。

 輝が店に入ると、水原が窓際の、ドラムセットの横にある席を確保していた。客は他に居ない。輝はアイスミルクティーをオーダーしてから水原の向かいに座った。

「久々だな、会うの。いつぶりだ?」

 水原は嬉しげに笑った。大作りな顔立ちは昔から変わらない。

「いつぶり……? いや水原、ちょっと聞いて欲しい事があるんだ」

 運ばれてきたアイスティーにシロップを注ぎながら輝が小声で呟くように言った。

「さっき電話で言ってたやつか?」

 輝は頷き、何をどう説明するかしばし思慮に耽った。

「何か、トラブルか?」

「……そういう訳じゃない。ちょっと信じられないかもしれないけど、聞いてくれるか?」

 水原はニヤリと笑って背広のポケットからマイルドセブンを取り出した。

「おまえからビックリな話が飛び出すなんて珍しいな。教えろよ」

 逡巡しつつ、輝は『腕』の事は伏せて、最近の記憶が曖昧な事、妙な映像が脳裏に浮かぶ事を簡潔に語った。水原は伏し目がちにタバコを吸いながら、時折首を振って頷き、話を聞いていた。

「つまりおまえは、今自分が何をしてるのか、働いてるのかプータローなのかヒモなのか何者なのか分からないって事か」

「ああ」

「そんで、その妙な映像? そいつが思い出すのを邪魔してるってんだな?」

「そう」

 水原はコーヒーフロートをぐちゃぐちゃに掻き混ぜてから、一息に言った。

「おまえは大学を出てからずっとバイト生活だよ。どこもあんまり長くもたなくてな、長くて半年とか、短いのは三日とかでバイトして食いつないでた。俺らが最後に会ったのは二ヶ月前、その時点でおまえは派遣で事務系の仕事をしてた。それからメールですぐに辞めたって言ってきたけど。この前のメールでは求職中って書いてたな」

 輝は思わず目を見開いた。

 覚えがない。


 その後水原は急に仕事が入り、すぐ職場に戻った。

 店に残された輝はしばらくシナモントーストを食べていたが、何か、人に、群衆に、圧政を受けているような錯覚を覚え、すぐに店を出て、傘と人でいっぱいのアメ横を突っ切って駅へと向かった。日暮里駅に着き、急ぎ足でアパートに戻る。

 俺は大学を出てから四年もフリーターをしていたのか。水原は社会人として順調にその道を歩いているのに。

 木造扉の簡素な鍵を抜いてドアを開けると、輝は絶句した。

 腕、恐らくは成人男性のものと思われる右肘から指先までが、玄関先に放置されていた。

 輝は反射的にそれを掴み取り物置部屋の方へと力任せに投げた。鈍い音がして、それは落下した。

 恐い。

 記憶が無い。

 これは紛れもない恐怖だ。

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