四日目「やまない雨。高坂輝、喫茶店で思う事。左の肩から肘」

 闇だ。

 暗闇の中で一人、泣いている。

 なんで誰も来ないの? なんで誰も声をかけてくれないの?

 えらく寂しい感情に囚われて、輝は目を覚ました。

 今日は左腕の肩から肘までが、ベッド脇に放置されていた。輝は無感情にそれを掴み、物置部屋に放り込んだ。この調子だとどうせまた胴体部分と繋がりそうだが、どうなろうが知った事ではない。

 しかし、闇と、人恋しいという切実な気持ちが、輝の頭から離れなかった。輝は元々独りを好む性分だ。だからこうして一人で暮らしていて、何の不自由もなかった。だが今朝は違った。妙な不安感が輝を襲った。

 闇。

 なんで誰もメールくれないの? 電話してくれないの?

 闇の中で携帯電話を握りしめる情景は、朝食を終えても歯磨きをした後も消えなかった。こんな日に限って桜子は来ない。キャシーは輝が孤独に見えると言った。

 侵蝕だ。

 輝はちょっとした危機感を覚えた。

 自分が記憶を失う代わりに、何者かが何かを、意識を、記憶を、侵蝕している。 

これが進行すれば俺はどうなる?

 そう危惧したところでどうにか出来る問題ではなかった。

 今の自分に出来るのは、とにかく前を向きただひたすらに生活することだけだ。



 正午過ぎ、輝は雨の中傘も差さずに近所のコンビニエンスストアに赴いた。二冊の就職情報誌を購入し、そのまま隣接していた喫茶店に入る。訳もなく、あの部屋に一人で居るのは危険なような気がしたからだ。店の名前は確認しなかったが、喫茶店の割には薄暗く、客も輝の他に一組のカップルと数名の女性集団しか居なかった。中年女性がオーダーを取りに来たのでアイスミルクティーを頼み、就職情報誌をテーブルに広げる。

 この辺りは韓国人や中国人が多い。カップルの男は日本人だったが女の方は日本語が片言で、女性集団は恐らく韓国人なのだろう、片足を椅子の上に置いて何やらやかましく話し合っていた。

雑誌の表紙には、

『あなたのスタイルで働ける職場!』

『時間に縛られずに働く特集!』

『憧れの場所で働きたいあなたに!』

 といった煽り文句が踊っていた。

 輝は表紙を開く。正方形や長方形で囲まれた、様々な仕事が目に飛び込んでくる。


『私服・茶髪OK!』

『自由に選べるシフト制』

『大卒以上、WORD・EXCELの基本操作が出来る人』

『フロア経験者優遇』

『お洒落でアットホームな雰囲気の店舗です!』


 輝の眼は文字列を追っていたが、頭には入ってこなかった。奥の席から韓国人女性が「オムニ!」と叫ぶのが聞こえる。別の女性が店員に新しい灰皿を要求する。カップルはテーブルの上で手を繋ぎ、中途半端な日本語と英語で会話していた。その合間を埋めるかのように、雨音と、通りで車が水を轢く音が響いていた。

 その音像に酔っていたら、ミルクティーが既に運ばれてきている事にも気付かなかった。ピッチャーからシロップとミルクを注ぎストローで啜る。酷い味だ。


『田端駅から徒歩二分!』

『警備のお仕事です』

『週払い可! すぐに働けます!』

『初心者でも安心! 一ヶ月の研修あり』


 酷い味だ。飲めたものではない。これで金を取るのか。

 しかしここは一体どこだ? まるで外国に来たかのようだ。

 否、自分はもうここに十年近く住んでいる。これくらいの光景、毎日目にしてきたはずだ。

 輝は雑誌を閉じて袋に突っ込み、伝票を持って立ち上がった。

 レジの前に立っても店員は現れない。カウンターの方へ目を遣ると先ほどの中年女性は厨房の男性と話していた。

「すみません」

 挙手しながら輝が声をかける。女性は弾かれたように振り向き、頭を下げながらレジへやって来た。たかがアイスティー一杯の値段を打ち込むのに苦労するその顔を、輝は精察する。目尻の皺は深く、眉間と額、口角の横にも線が刻まれている。

 レシートを突き出されて我に返った輝は、それを受け取り店を出た。



 雨は相変わらず降り続いていたが、輝は傘を買わなかった。薄手のパーカのフードを被って、濡れるがままになっていた。

 日暮里舎人ライナーの下をくぐって日暮里駅前のロータリーまで歩く。あの部屋には帰りたくなかった。駅前開発は急ピッチで進んでいた。駅ビルが出来、高層マンションも隣接していたが、そちらはまだ工事中のようだ。

 ロータリーは、バスを待つ人々を除けば閑散としていた。道を行く人のほとんどが傘を差している。中には差していない者もいる。そういえばロータリーの手前にある銅像は一体誰なのだろう、と輝は思ったが、その正体を知ったところで今の自分に利益があるとは思えなかったので、そのまま歩き続けた。

 昔からあるチェーンの喫茶店に入り、アイスティーとホットドッグを注文し、受け取ってから喫煙室のある二階に向かう。時間帯の為か、会社員が多いように見受けられた。若者の姿はほとんど無い。輝は窓際のカウンターに腰を下ろした。ちょうどロータリーを見下ろす席だ。灰皿を取り、タバコに火を付ける。停留所にバスがやって来るのが見える。亀戸駅行き。杖をついた老人を先頭に、二十名ほどが順番に乗り込む。黄色いタクシーがその脇を走る。後ろの席の男が携帯電話で話し始めた。

「ええ、完了しています。来月までには見積もりを……」

 随分な大声だったが、気にならなかった。電話を終えると男は食器を片付けて出て行ったようだ。輝はホットドッグ片手に、再び就職情報誌を開いた。

 ある基準で計算され調和した文字列が、一面に踊っている。


 分からない。


 輝は視線を泳がせたまま考え込んだ。

 自分は何故正社員として働いていない? 自分にはどんな能力がある? 水原は過去自分が事務系の仕事をしていたと教えてくれたが、それ以外に自分に何がある? 確かにパソコンの基礎操作くらいは分かる。履歴書の資格欄には英語検定二級と書いてあったが、それは大した強みにはならないだろう。

 表面下でほんの少しだけ焦燥感を感じながら、輝は再びロータリーを見下ろした。北口の出口付近にはタクシーが十台以上停まっていた。色は緑、黄色、白、黒、ベージュ。白い傘を差した老女がその内の一台に乗り込む。緑のタクシーはするりとロータリーを回り、日暮里中央通りへと走って行った。ロータリーの向かいにはビルが並んでいて、やはり韓国料理や韓国エステ、中華料理の店が多く入っている。若いカップルが腕を組んで歩いて南口の方へ歩いている。靴磨きの老人がふてくされたような顔でタバコを吸いながら客を待っている。

 異臭に気付きタバコを見ると、フィルターまで火が付いていた。慌てて灰皿に押しつける。次の一本を取り出そうとした瞬間、また映像が見えた。


 工場だ。何かの工場、何かを生産する場所だった。錆びついたパイプ。上下にゆっくりと振動する機械。周りの人間は群青色のつなぎのような服を着て何やら作業をしている。視界が揺れる。視線の主は赤いランプの下の出口へ向かった。廊下ですれ違った女性が微笑みかけてくる。瞬間、とてつもない憎悪が沸く。女性は歩き去り、喫煙所で別の青年に話しかけて笑っていた。憎悪。憎悪が膿み出る。


 何だこの感情は。


 店員がカウンターを拭くのを見て輝は我に返った。口を付けていないアイスティーのグラスは沢山の水滴で輝いていた。シロップとミルクを入れてストローで混ぜてから飲む。安っぽい味だったが、先ほどの店に比べれば数倍マシだった。

 しかしこれは、この映像ないし記憶は、一体どこの誰のものだ?



 結局輝は、またしても就職情報誌を読むことなく店を出た。気が付いたら日は落ちていた。

 折角駅まで来たのだから本屋で何か読み物を買おう、そう思って本屋のあるべき場所に行くと、そこは携帯電話ショップになっていた。おかしい。ここは、このケーキ屋の隣は、間違いなく小さな二階建ての本屋だったはずだ。いつの間に変わったんだ? いや、最後にこの本屋に来たのはいつだ?

 店頭で立ち止まっているとショップのスタッフが「何かお探しでしょうか?」と近づいてきたので、輝はある種の恐怖に駆られ足早に帰路についた。


 アパートの階段を昇りながら、桜子が来ているだろうかと思ったが、吹きさらしの通路には誰も居なかった。輝がドアを開けると、やはりそこには中途半端な上半身があった。頭と左手の肘から先が無い物体。輝は靴を履いたままそれを思い切り蹴り飛ばした。それは鈍い音を立てて物置部屋の前まで飛んだ。

 何なんだこれは。

 憎悪、先ほどの映像で感じたあの感情、苛つき、人を憎む気持ち、或いは怒りが輝を支配しようとしていた。

「今の音、何?」

 驚いて振り返ると、左眉しかない桜子が立っていた。

「な、なんだよおまえ、いつから居たんだよ」

「二ブロック前から後ろを歩いてたのに、気付かなかったの?」

「声くらいかけろよ」

 脱力しながら輝は言い、靴を脱いで部屋に上がった。はっとして物置部屋の前を見遣ると、あの身体は消えていた。

「雨、やまないわね」

「そうだな」

 いつも通りソファに陣取って、桜子はセーラムを取り出した。そして彼女には不似合いな、シルバーのごつごつしたジッポで火を付ける。

「それ、どうした?」

 キッチンへ向かいながら輝が尋ねると、桜子は眉間に皺を寄せて吐き捨てるように言った。

「あの女よ。彼のものはこれしかくれないって。何様なのって感じよ。彼のこと、自分だけのものだとでも思ってるのかしら」

「愛してるんだろ」

「そうかしら」

「そうだよ」

 コーヒーを差し出すと、桜子は乱暴に受け取ってジッポを握り締めた。

「愛してるなら独占していいって法律なんてないじゃない。私だって彼を愛してるわ。そりゃもう、彼女以上によ。でも何で彼は私のものにならないの?」

「人間、誰かの所有物になるなんて事は無いよ」

「そう?」

「そうだよ」

 輝は赤いマグカップを水洗いしてからティーパックを落とした。ポットから熱湯を注ぐ。その湯気に、またあの憎悪が浮かぶような気がした。

「おまえ、その女が憎いか?」

 携帯電話をいじっていた桜子は、ふと顔を上げた。

「そうね、憎んでるわね」

「そうか」

「それがどうかした?」

「いや、何で人は人を憎むのかなと思って」

 ミルクと砂糖を加えてから、テーブルの前のクッションに腰を下ろす。やはり桜子の目元は不自然だった。せめて右眉を描けばいいのに、と輝は思った。

「でも」

 桜子がパチンと携帯電話を閉じて言った。

「彼女も私のこと憎んでるでしょうね。自分のものを盗られた訳だし。そう考えるといいざまだわ」

「そうか?」

「そうよ」

 コーヒーを一口啜って、桜子は言った。

「砂糖が入ってないじゃない。ちゃんと入れた?」

「いつもブラックだろ?」

「いつも微糖よ」

「そうだっけ?」

「そうよ」

 桜子は立ち上がると勝手にキッチンに向かい、砂糖の瓶を開けると大さじ三杯ほどコーヒーに入れ、手元のマドラーで簡単に混ぜて飲み始めた。

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