【短編】過去十年間をやり直す機会を差し上げます。〜 十年前の選択 〜
手嶋ゆっきー💐【書籍化】
十年前の選択
「あなたは、善良なる人間です。
しかし、いつか、その善良な心は壊れてしまうでしょう。
我々は、あなたの心が壊れる前に、過去十年間をやり直す
その
突然、男の前に現れた天使は、そう告げた——
******
フラフラと会社に通い、勤勉に働いている様を演じる日々。
演じる姿の裏側で、男は孤独だった。
いくら寂しくても、空虚でも。
他人を騙し、自分を騙し、元気に生きているように男は振る舞っている。
「さすがに疲れたな……」
男はそう思いながら、仕事からの帰り道を歩く。
その道中、一歩、車道側に飛び込めば全てを終わらせることができるだろう。
でも。
それは、しない。
男は自嘲気味に、口元をいびつに緩めて歩く。
「我々は、あなたの心が壊れる前に、過去十年間をやり直す
「は? 何を言っているの? お前……そんな、まるで天使のような格好をして、なぜ俺に話しかける? 十年前に戻れるだと?」
「信じられないのは分かりますが、嘘ではありません」
彼が天使に会ったのは、35歳の誕生日だった。
生活をしているというには、とても物が少ない質素な部屋。
男以外の荷物や写真は無く、彼が今孤独であることを示している。
そこに、頭の上に輝く光輪があり、白い羽が生えた少女がいた。
少女の年齢は十六、十七歳くらいに見える。
天使が放つ凜とした涼しい声。
その声には、底知れぬ説得力があった。
しぶしぶ、男は彼女の紡ぐ言葉を信じることにする。
「本当に十年前に戻れるのか?」
「はい。ただし記憶は全て失われます」
「それでは、全く同じ十年を過ごすことにならないか?」
「はい。そのため、あなたの過去に干渉し行動を変化させます。十年前に出会った、この女性のことは分かりますよね?」
天使が念じると、男の頭の中に一人の女性が現れた。
長い髪を後ろで束ねた、華奢な美しい女性だった。
「ああ。よく知っているとも」
「この女性に出会わずに過ごす機会を差し上げましょう。恐らく、あなたの十年は大きく変わるでしょう」
「そうだろうな……」
「さて、どうしますか?」
男は、天使の目を鋭く見据えた。そして声を絞り出すようにして天使に聞いた。
「なあ、そんな力があるなら……過去に戻って彼女の病気を治せないか?」
その彼女とは、男の妻だった。
出会ってから十年。
交際を通じて仲を深め、結婚をして連れ添う。
子供はいないものの、二人の生活は幸せに満ちていた。
しかし、彼女は生まれつき心臓の病を抱えていたのだ。
出会って六年後に倒れ、やがて入院。
男は働きながら入院費用を稼ぎ、それ以外の全ての時間を妻に会うことに費やしていた。
そして、彼の過酷な日々は一ヶ月前に終わったのだ。
彼女の死によって。
次第に衰弱していく妻と会う。
それは、男にとって拷問に近いこと。
病院から帰ると、男はいつも朝まで泣いていたのだ。
残り時間が確実にすり減っていく。
その事実を会うたびに、突きつけられる。
「残念ながら、病気を治すことはできません。あなたが救済の対象なので、他人であるその女性には干渉ができないのです」
「そうか……。俺に会わなかったら彼女はどうなるんだ?」
「心配はご無用です。あなたが支えた分は、女性の家族が支えてくれるでしょう」
男は目を閉じて考えた。
もし、好きになった女性がもっと体の丈夫な女性だったら、今頃幸せに満ちた生活を過ごせていただろうか?
結婚しなくても好きなことをして生活できていたら、今よりもっと良い人生を送ることができただろうか?
光を失い、音を、全てを失った妻。
彼女を抱き締め、看取った記憶。
その記憶は消えず、身を引き裂かれるような痛みが、消えることなく男の精神をすり減らし続けている。
「とても辛い思いをされたのですね。その痛みからも、開放されるでしょう!」
天使が後押しした。半ば
「では、十年をやり直します。ちなみに初めて会った時のことは覚えていますか?」
「……確か、アイツは花を買おうとしていたんだ。だけど道に迷っていた。俺は花屋への道を聞かれて、お勧めの店に案内をしたんだ。そこは俺の両親がやっている店というオチだ」
「うふふ。随分良い顔をされるのですね。では、あなたは足早にその場を去るように干渉します。そうすると彼女は別の人に道を聞くことになるでしょう」
「分かった」
「では、良き十年を」
天使が男の頭に手をかざし、記憶が消去された。
そして、十年という時間をやり直す——
時間が巻き戻った。
十年前の、男が妻となる女性に会った日。女性は花屋を探していた。
しかし、天使の操作により男は足早に立ち去り、女性は他の者に花屋の場所を聞くのだ。
これで男の運命は大きく変わるはずだった。
しかし、その後に続く光景を目にして……天使は驚きの声を上げた。
「記憶は消えているはずなのに、どうして?」
男は天使の妨害を蹴散らし、確信しているかのように女性のもとに辿り着いたのだ。
この時間軸では男は女性のことを知らないはずなのに。
いや、もし記憶が残っていたのなら男は出会いを避けているはずだ。なのに、どうして?
出会った二人は笑顔でその場を去って行った。
「これが、あなたの選択なのですね……」
周囲をまぶしい光で照らし、光輪と羽をまとう少女は、その言葉を最後に姿を消したのだった。
十年後——
「お久しぶりです。私のことは、覚えていませんよね?」
「は? 何を言っているの? お前……そんな、まるで天使のような格好をして、なぜ俺に話しかける?」
男の前に、再び天使が現れて言った。
「あなたは、この十年をやり直したのです」
「やり直した?」
「はい。不思議なこともあるもので、私も驚いています。記憶は確実に消されていたようなので、安心しましたが……」
男は一ヶ月前、妻を看取っていた。
生まれつき心臓が弱かった妻を。
やり直したのだ、前回と同じ十年を。
全く同じ人生を。
「私の力では、あなたの運命を変えられなかった。こんなことは初めてです」
でも、それにしては男の様子が随分違う。顔つきは穏やかになり、覇気すら感じられる。
部屋も以前のように荒れていない。何より、生前であろう妻の写真が美しく飾られている。
何枚も何枚も。男は妻を失った今でさえも、孤独ではないことが窺える。
「あなたは……幸せだったのですね?」
男は顔を上げ、天使を見つめた。
かすかに蘇る繰り返しの記憶。
魂に刻まれた記憶。
あの出会いの日から十年、男を突き動かしていた記憶のかけら。
やがて全てを理解した男の両頬を涙が伝う。
男は確信したのだ。
「ああ。辛かったけど、それ以上に幸せだった。他の人生なんて、考えられない」
******
「知らない? そうですか。分かりました。ありがとうございます。……困ったなあ」
「ちょっと待った! 急にごめん……話を聞いていたのだけど、花屋を探しているのかな? よかったら案内するけど?」
「えっ? じゃあ……お願いしてもいいですか?」
「好きだ。付き合ってもらえたら」
「はい。私からも……お願いします」
「私が花屋さんを探していたとき、どうして急に話しかけてくれたんですか? ちょっと強引でびっくりしましたよ?」
「不思議なことに体が勝手に、そうするのが当然のように動いたんだ。それに君も迷わずついてくるなんて、不用心じゃないか?」
「私も、そうするのが当然のように感じました」
「じゃあ、お互い様だな!」
「ふふっ。そうですね」
「はい、誓います」
「はい、誓います」
「今日も来てくれてありがとう! 嬉しい。でも、少し疲れていませんか?」
「ううん、君の顔を見ると、疲れなんて吹き飛ぶよ。調子はどう?」
「ごめんね……こんなになって」
「謝る必要はないよ。俺は、ずっと側にいる」
「あなた……どこにいるの?」
「ほら、ここにいるよ。これから……ずっと、ずーっと一緒にいるよ」
「さようなら。またいつか会おうな。
たとえ……何度、人生をやり直したとしても……
君を見つけ……
君を選ぶだろう——」
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【後書き】
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