050 手紙

 春三月はるさんがつの最後の地の曜日、ぼくはけん引役として最後の奥の森に来てた。二度と来られなくなるわけじゃないけど、見習いに出たらどうなるかわからない。いままでよりも来やすくなるかもしれないし、ほとんど来られなくなるかもしれなかった。


「さあ、このあたりではじめよう」


 春の山菜はもうほとんど採れない。いまは火おこし用の細い薪とか、この時期に増えるきのこなんかを採る。みんなが採りはじめるのを見てたら、テオドーアが話しかけてきた。


「ミルコは結局、奥の森に一年も来なかったね」

「……そうだね」


 ぼくがはじめて奥の森に来たのは、前の夏三月なつさんがつだった。そのころはまだ体が弱くて、森に来れたり来られなかったりしてたんだ。森に行く日の朝は、体調が大丈夫かどうか屋根裏のテオドーアと合図を送り合って確認してたくらいだ。そのころから一年も経ってなかった。


「はじめはヴィーゼも一緒だったね」

「うん。テオドーアは毎回一緒に来てくれたよね」


 ぼくが産まれるときに手伝ってくれてから、テオドーアはずっとぼくを気にかけてくれてた。そういえば、住み込みになったらテオドーアとも離れちゃうんだ。家族とアルマたち以外だと、テオドーアと一番長く一緒にいた。


「今日は少し離れてても大丈夫だよ」


 テオドーアが頭の毛をつんつんと揺らしながらそう言った。けん引役はもうほとんど引き継いだ。今日はついてきてるだけだった。新しいけん引役の子が病気になるかもしれなかったから、アーシャと会う約束はしてなかった。でも行ってみたら会えるかもしれない。


「……うん。ぼく、ちょっと行ってくるね」

「一刻くらいで戻ってきてね」


 テオドーアに見送られて、ぼくは森の離宮に向かって駆け出した。




 湖畔にアーシャがいないのはわかってた。籠り明けくらいから、奥の森まで来ると木霊石こだまいしを通してじゃなくて直接アーシャの気配を感じるようになってたから。だから蔦の壁をくぐったところで、湖畔にはアーシャがいないってことがわかったんだ。そういえばアーシャも、ぼくが蔦の壁をくぐったときから来るのがわかってた、って言ってたことがあった。


 いまからでも来てくれるかな。


 ここまで来る途中で、ぼくは木霊石を使って合図を送ってみた。でもいまはまだ返事がない。木霊石越しに気配は感じてたんだ。でもぼくの合図になんの返事も返してくれなかった。


 忙しいのかな?


 返事を待って湖畔の小川の脇に腰を下ろす。しばらくそうして湖から流れてくる風を感じて座ってたら、ふと竹林の中が気になった。はじめて会ったときに、アーシャがぼくから隠れて入り込んでたあたりだ。


 なんだろう?


 なんだか不思議な感じだ。一度気になると、もうそこから目が離せなくなって、ぼくは立ち上がって近づいていった。竹林の中に入って、気になったを探す。そしたら竹の葉の一本にぶら下がるみたいに、ちょうどアーシャの目の高さくらいの場所にそれはあった。


「……『笹舟ささぶね』?」


 それは『笹舟』の形に折られた紙だった。なん回か折り曲げて細長くした紙を、『笹舟』の形にしてあるんだ。ぼくは当たり前みたいな感じで、これがアーシャからぼくに贈られたものだっていうことがわかった。細かくおられた紙を、破らないようにていねいに広げてみる。


 こんなに綺麗な紙、見たことないや。


 広げた紙には文字が書いてあった。本当なら、ぼくは字が読めない。読めたとしても、市場で見にする数字と少しの文字くらいしかわからない。なのにその紙に書かれた文字を読むと、不思議となにが書いてあるかがわかった。文字じゃなくて、アーシャの声が聞こえるみたいだった。


〜〜〜〜〜


ミルコへ


 ミルコにだけ届くようにと想いを込めて、この手紙を書いています。そうしないと結界をくぐって来られないと思うから。そしてミルコがこの手紙を受け取ったなら、次からはもう結界をくぐれないかもしれません。もしそうなっても、無理して入ろうとしないでね。


 私はミルコにいろいろなことを教えてもらいました。ミルコに会うまでは自分の将来が全く見えなくて、とても不安だった。でもいまは、ミルコのおかげで自分の進む道を見つけられるかもしれないと思っています。


 本当はもっとミルコからいろんなことを教わりたかったし、私にとってそれはとても重要なことだってわかってる。だけど、どうしてもここにいられなくなってしまいました。だからもう、しばらくは会えなくなるでしょう。


 短い間だけど一緒にいてくれてとても楽しかった。ありがとう。


 心をこめて。 アーシャ


〜〜〜〜〜


 それはとても不思議な手紙だった。なんで読めるのかっていうことも不思議だったけど、それよりも書いてあることはまるで逆だ。ぼくのほうがたくさんのいろいろなことをアーシャから教わってたのに、アーシャはぼくから教わったって言ってる。ぼくの法こそ、まだまだいっぱい教えてほしいのに。アーシャに聞きたいことがいっぱいあるのに。もっといろんな話をして、もっと一緒に笑って、一緒に手を繋いで……。


「アーシャ……」


 手紙の言葉を読み直す。


『どうしてもここにいられなくなってしまいました。だからもう、しばらくは会えなくなるでしょう』


 アーシャがもう、ここにいない。ぼくはこのときはじめて、アーシャのことが本当に大好きなんだって気づいた。父さんや母さんのことを好きなのとは違って、女の子として大好きなんだ。エルマや従姉のアルマをたまに意識しちゃうのも、アーシャと比べてアーシャのことを思い出すからだ。どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。


 そんなこと、いまごろ気付いてもな……


 もしいまアーシャに会えても、恥ずかしくてこんな気持ちは伝えられなかったと思う。でも、このことに気づいてるぼくとして、アーシャに会いたかった。会っていろんなことを話したかった。なのに、この手紙が本当ならもう、アーシャは森の離宮にはいない。


「アーシャ……」


 でもひょっとしたら……。この手紙は置いたのかもしれない。


「アーシャ!」


 そうだよ。木霊石はずっとつながってたじゃないか。アーシャは近くにいる。きっとすぐそこにいる。


「アーシャ! アーシャ!」


 ぼくはすぐそこにアーシャが隠れてる気がして、大声で名前を呼びながら湖の左手に向かって走ってく。そっちは森の離宮に近づくほうで、いままで一度も行ったことがなかった。


「アーシャ! アーシャ! ……あっ」


 どんっ、と突然なにかにぶつかって、ぼくは尻餅をついた。ものすごく硬い壁みたいななにかだ。でも目の前にはなにもなかった。


「誰だ! そこでなにしてる!」


 離宮の方から大きな声がして、槍を持った男の人が2人走ってきた。2人ともすこし茶色っぽい肌に黒い髭で、あまり見たことない感じだった。ぼくは尻餅をついたまま動けずに、2人が近づいて来るのを見てた。


「なんだ、子どもじゃないか」

「なんでこんなところにいる?」

「あ……あの、迷子になっちゃって……」


 ぼくはアーシャのことを話しちゃいけないって思って、とっさに嘘をつく。


「迷子か……どうやって入ったんだ?」


 2人のうちの1人が肩の力を抜いてやさしくそう言った。でも、もう1人は槍を構えたままだ。


「……誰かの名前を呼んでただろう?」

「あ……」


 しまった! アーシャの名前を大声で呼んでたんだ。どうしよう……。


「あの……あ、とはぐれちゃって……」

「アイシャ? ……それは誰だ?」

「ぼくの、い、従姉……」


 槍を構えた男の人は少しだけぼくの目を見てたけど、すぐに力を抜いて槍を引いた。


「どうする?」

「どうするって、追い返すしかないだろう」


 先にやさしく話しかけてくれた男の人が、心配そうに聞いてくる。


「ぼうず、どうやってここまで来たか覚えてるか?」

「あの……あっちの小川をたどって」


 振り返って後ろを指差す。


「そうか。自分で戻れるか? 迷子だったんだろう?」

「おい、そこまで面倒見られんぞ」


 もう1人が突き放すみたいに言った。


「大丈夫、……戻れると思う」


 ぼくはそれ以上なにか言われないうちに、立ち上がって急いで小川まで戻った。槍を持った2人は、ぼくがぶつかった見えない壁の向こうに立ってて、それを越えてまでは追って来なかった。


 アーシャは、もういないんだ……。


 湖畔の小川まで戻ってくるうちに、ぼくにはそれがわかった。さっき蔦をの壁をくぐってきたときに湖畔にアーシャがいないのがわかったみたいに、いま湖畔を歩いてるぼくには森の離宮にアーシャがいないのがわかったんだ。立ち止まって顔を上げる。いつもアーシャと見てた湖がそこにあった。


 ……アーシャと一緒に見たかったな。


 いつもの湖畔から見る湖の風景は、同じようでいて夏のときとも秋のときとも違ってた。春の若葉の明るい緑色が湖に写って、まるで木霊石みたいにきらめいてた。

 振り返ると竹林の向こうから、さっきの2人がぼくのことを見てる。ぼくは名残惜しい気持ちを振り切って、小川に沿って歩きはじめた。

 小さな滝のところで振り返っても、手を振ってくれるアーシャはいない。それがなんだか変な感じだった。


 ずっとここにいると思ってたのに。


 自分のまわりのだれかと会えなくなるっていうことが、ぼくにははじめてのことだった。見習いになって新しい生活がはじまっても、アーシャには会いに来られると思ってた。これから起こるいろんなことを、アーシャに話したりしたかった。

 ぼくはゆっくりと滝をくだって、奥の森に戻っていく。


「あっ……」


 蔦の壁をくぐって抜けると、ふっとなにかが途切れた気がした。目の前には見慣れた森が、いつもと変わらない感じでそこにあった。振り返ってみると、蔦の壁にはもう隙間はない。試しに蔦をなん本かかき分けても、蔦はずっと奥までみっしりと生えてて向こうが見えなくなってる。

 そのときぼくには、もうあの湖畔には近づけないっていうことが、間違いようもなくはっきりとわかった。



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湖畔の誓い 菱潟 八千穂 @hishigatayachiho

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