043 悪夢

 雪合戦が楽しいと言っても、数日に一度の晴れ間のときしかできなかった。だから冬籠りのほとんどの時間は、家の中でひまを持て余してた。去年までは冬は体調を崩しがちだったから大人しくしてるしかなかったけど、体が丈夫になってから過ごす冬籠りはとても退屈だった。


「さあミルコ、僕ももう寝るから一緒に寝よう」

「……うん」


 ブルーノに連れられて、暗く冷えた寝室に入る。この冬何度目かのダニロとの小さな喧嘩をして、一日の終わりにぼくは不機嫌でいた。居間からダニロが叱られてる声が聞こえてくる。いい気味だ。ささくれだった気持ちを少しでもなんとかしたくてさっさと寝台に潜り込むと、木霊石こだまいしを握りしめてアーシャと気配を送り合って過ごすことにした。


 こつこつ……。


 木霊石の入った魔石匣の端を、爪で静かに叩く。はじめの頃は、だれにも話さない気持ちの内側を送るのは恥ずかしいような気がしてた。会って話すときみたいに細かいことが伝えられないから、そのときの気持ちがほとんどそのまま伝わっちゃうんだ。だけど、なんだかもう慣れてきちゃった。


 喧嘩した不機嫌な気持ちを送ったら迷惑だろうな。


 そう思ったけど、気持ちを送り合うときはどうしてもそのときの気持ちのままに送っちゃう。アーシャがどんなふうに感じるか心配だったけど、なだめるような、慰めるような気持ちが返ってきた。そのちょっとあったかい気持ちにくるまって、その夜はそのまま眠った。




 ぼくは自分が怒ってるのに気がついて目を覚ました。寝る前よりずっと機嫌が悪い。すごく腹が立って悔しくて、でもすごく怖い。感じたことのない感情だった。


「……いや! 酷いことしないで!」


 いま叫んだのは……アーシャ?


 まるで自分が叫んだみたいに感じたのに、声はアーシャだった。目が覚めてるのに、まわりがはっきり見えない。目の前はなにもなくて、ただぼんやりと明るい。でもなぜだか夢とも思えなかった。


 これは……アーシャの気配だ。


 冬になってから毎日っていうくらいにお互いの気持ちを送り合ってたからわかる。これは、離れた場所にいるアーシャのいまの様子だ。


「それは君の態度次第だな」


 だれかがそう言った。顔も姿も見えないけど、声だけはよくわかる。それにどんな人なのかも。大きくて嫌な感じの男の人だ。そう、すごく嫌な感じ。ぼくはだれかのことをこんなにも嫌だって思ったことがなかった。


 よっぽどこの大きな男の人が嫌いなんだ。


 嫌だっていう気持ちと一緒に、なんだかすごく焦った気持ちが膨れ上がる。なにかが壊されちゃうような、大切なものが盗られちゃうような、そんな焦りが気持ちを埋め尽くす。


「どうしてわざわざ追いかけてきてまで関わろうとするの?」


 男の人は答えない。


「あなたの望むようにはもうできないわ。もう私は関係ないもの」

「そう考えてるのは君だけだ。その体に流れる血はそんなに軽いものじゃないんだよ」


 顔に触れようと近づいてくるのがわかる。怖い気持ちがぶわっと身体中を巡る。肌がぞわっと逆立ち、大声で叫び出したくなる。近づく何かを思い切り弾き飛ばしてしまいたい。


「!」


 ふっ、とその男の人が遠ざかった。飛び退いた感じだ。


 男の人も、……怖がってる?


 なにが起こってるのかわからないのが、すごくもどかしかった。


「……ふん。神の子などと持て囃されているようだが……なるほど、なるほど」


 さらにもうちょっと遠ざかったところから、男の人が不機嫌な感情をぶつけてくる。


「君を傷つけられないとでも思っているのか? 私にそれができないとでも? ……ふん。そうして意地を張っている代償がどんなものになるのか、考えるにはまだまだ幼いのだろうな」


 すごく嫌な感じで鼻で笑いながら、ぼくにはよくわからない話を続ける。ぼくはただ、それを聞いてることしかできなかった。急に静かになって、すこしの間だれもなにも言わない。そして突然急に、嫌な予感が膨れ上がった。


 だめだ、それだけはだめだ。


 なにが起こってるかわからないのに、その気持ちで体の中が埋め尽くされる。


「やめて……お願い、やめて」


 アーシャが弱々しく呟く。さっきまでもこれ以上ないくらい嫌な感じだった男の人の気配が、もっとずっと嫌な感じに変わってく。なにか大切なものが、失くしちゃいけないものが奪われる。


「いやあぁぁっ!」




「うわあぁあっ!」


 アーシャの叫び声と自分の叫び声が重なって、気付いたら真っ暗な部屋の中で寝台に寝転がったまま毛布を跳ね飛ばしていた。胸の中が、全速力で走ったあとみたいにどきどきしてる。手足がどうしようもなくふるえてる。


「誰!?……ミルコ?」


 居間から母さんが駆け寄ってきてぼくの頬を包んだ。


「大丈夫よ。怖かったのね、大丈夫。みんなここにいるよ」


 母さんがぼくの頭を胸に抱き寄せてくれる。着替えていたのか、少しはだけた胸元の柔らかい谷間がぼくの震える頬を包んだ。ぼくは荒く息をしながらいつの間にか母さんにしっかりしがみついてた。


「ミルコか……怖い夢でも見たか?」


 上着を羽織りながら父さんも顔を出す。


 夢……夢だったの?


 少しだけ震えのおさまった手で、それでも怖くて母さんにしがみついたままぼくは考える。今のは間違いなくアーシャだ。アーシャの様子が見えたんだ。毎晩木霊石でつながっていたからわかる。あれは夢なんかじゃなくて、いままさにアーシャが感じてることをぼくも感じてたんだ。だとしたら、いまごろアーシャは……。


「ミルコ……大丈夫よ、ミルコ」


 アーシャのことが心配でぐっと体に力が入ったぼくの様子に、母さんがまた声をかけてくれる。でも全然大丈夫じゃない。きっとひどいことが起こってる。なんとかしたい、助けに行きたい。


 ……こんな夜中に? なんて言えば?


 アーシャのことも、木霊石のことも、魔素のことも、ぼくはなに一つ父さんにも母さんにも話してない。いまいきなり全部話したってきっとわかってもらえない。そもそもきちんと説明できる気がしない。でもこうしてる間にもアーシャは……。


「うぅ……ううぅ」

「ミルコ……」


 いつまでも気持ちのおさまらないぼくを心配して、母さんが体を離してぼくの顔を覗き込む。ぼくはその母さんじゃなくて、父さんのほうを見ていった。


「どうしよう。どうしよう……父さん、どうしよう」


 父さんと母さんは顔を見合わせた。


「少し落ち着こうか。待ってろ、なにか温かいものでも飲むといい」


 父さんがそう言って何かを取りに居間に戻っていく。母さんはまたぼくを胸に抱き寄せた。ぼくはそのあったかくて柔らかい胸に頬を乗せて、父さんが飲み物を運んでくるのを震えて待った。




 気がつくと朝だった。目の前の壁に、窓枠の隙間から光がさしてる様子が見える。


「……あ」


 ぼくは、がばっと起きあがった。いつもぼくより早く起きるダニロが、まだ寝てる。ダニロが寝てるのを気遣いもせずに、ぼくは寝台から飛び降りて居間の扉を勢いよく開けた。


「おはようミルコ」


 母さんがかまどの前に立って、お粥を温めてる。父さんとブルーノはつくえで白湯を飲んで話をしてた。窓の縁から朝の光が漏れてて、蝋燭の明かりがすきま風に揺れてる。居間にあるのは、いつもと変わらない朝の様子だった。扉を開けてじっと固まってるぼくに、母さんが首を傾げる。


「どうしたの?」

「……ぼく、夜に起きたよね?」


 父さんと母さんが顔を見合わせる。


「少し寝言を言ってたけど、朝までずっと寝てたわよ?」


 そんなはずないよ、と言おうとして、頭にがつんと痛みが走った。ちょっとふらふらする。


「悪い夢でも見て少し寝不足なんじゃないか。今日は晴れて外に出られる。起こしてやるからもう少し寝てなさい」


 父さんがそう言うと、ブルーノがぼくを寝室に戻す。ちょうど昨日の夜にブルーノに連れられて寝台に入ったのと同じ感じで、そのまま寝台に寝かされた。


 そんなはずないよ……。


 ぼくはブルーノに背を向けて横になると、目を開けたままじっと考える。昨日、たしかにアーシャの様子を見たはずだった。枕元にはいつもの場所に木霊石と権威石がある。そういえば慌てて起き出して4つの石をそのままにしてた。ぼくは木霊石を握ると、自分の気持ちを送るんじゃなくて、アーシャの気持ちを探してみた。いままで一度もそんなことをしたことなかったけど、なんとなくできるって思ったんだ。


 ……いた。


 思ったよりずっと簡単に、アーシャの気持ちが見つかった。すごく沈んだ感じだ。


 ……なんだろう。これは……後悔? ……すごく後悔してる。


 何度もお互いに気持ちを送り合ってたけど、こんな気持ちのアーシャをこれまで知らなかった。絶対昨日の夜何かあったんだ。


「痛っ! ……頭が」


 詳しく考えようとすると、またがつんと頭が痛んだ。痛くてふらふらして、それ以上考えられそうになかった。ぼくは諦めて目を瞑る。何がどうなってるのかわからないまま、ただ慰めるような宥めるような気持ちがアーシャに伝わるように、それだけを思って木霊石を握りしめた。



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