036 冬支度

 朝、いつものようにうがいをして夜の気配を水の神様に清めてもらう。背の低いぼくは水を張った木桶に届かないから、朝の洗顔とうがいのときは踏み台に登る。いつも見上げる窓の外には空が見えてるだけだけど、朝のこのときだけは街の様子が見える。3階にある家の窓から街を見下ろすと、さっき出て行ったばかりの父さんの後ろ姿が見えた。道にはいつもはあまり見かけないクァトロのおばさんたちが忙しそうに動き回ってる。近ごろ街は、冬支度ふゆじたくに忙しい。


「う〜、さぶい! あ〜、仕事場に行くのいやだなぁ」


 朝のお粥に香草を振りかけながらダニロが言う。


「前は冬でも外に出たいって言ってたじゃん」

「遊びに行くのと仕事するのとじゃ違うんだよ。いいなぁ、ミルコはずっと部屋にいられて」


 冬二月ふゆにがつ冬三月ふゆさんがつはほとんど雪に閉ざされちゃって、晴れ間のときしか子どもたちは外に出ない。いつも元気なダニロは、去年までは冬になるといつも外に出たい外に出たいって愚痴をこぼしては母さんに叱られてた。でも仕事で出るのは嫌みたいだ。


「ぼくだって冬支度してるよ」

「そうよ、今年はミルコも大活躍なんだから」


 母さんがぼくの分のお粥を注ぎながらそう言った。去年までと違って丈夫になったぼくは、毎年ダニロがやってた冬支度の手伝いをこなせるようになってた。


「今日はなにするの?」

「アルマとお漬物つくるのよ。夕方には材料を取りに新城塞まで行ってくるからね」


 月を跨いでひと月ほどの間は広場に雪が積もりっぱなしになっちゃうから市も立たず、母親たちも家の中で仕事をして過ごす。母さんはいつもの仕事がかご作りだから、それをそのまま家に持ち帰ってこられる。もちろん、簡単に家に持ち帰れない仕事をしてる人もいるから、そういう人は冬用の仕事を探して家でしてる。


「じゃあぼくは留守番?」

「昼過ぎにはダニロが帰ってくるでしょ?」

「うん、今日も遅くはならないよ」


 ダニロが答える。まだ見習いになって間もないダニロはわりと早く帰ってくるんだ。


「今日はぼくも早めに帰ってくるよ」


 荷物を肩に掛けながらブルーノがそう言った。


「あら、そう? じゃあブルーノが帰ってきてからにしようかな」

「いや、そこまで早くないから気にしないで行ってきてよ」


 父さんの鉱石加工場は冬の間は仕事が止まる。雪で鉱山からの石が運べなくなるからだ。冬の間は工場が休みになることもぼくたちが街に住んでられる理由だ、って前にブルーノが言ってた。もし冬にも仕事があるなら、工場街に住んでないと街からはとても通えないから。


「石を運ぶからあんまり急ぎたくないんだ」


 じゃあね、と言ってブルーノが出かけて行った。父さんとブルーノは、工場が休みの間はバシリーおじさんみたいに家の中でできる仕事を持って帰ってきてやってる。今日から少しずつ家に持ち帰ってくるのかもしれない。


「今年はミルコが手伝ってくれるからずっと楽よ」


 お粥を食べるぼくの頭を撫でながら母さんがそう言うと、ダニロが不機嫌そうに口を挟んだ。


「ぼくだってずっと手伝ってたじゃないか」

「もちろん、ダニロもとっても役立ってたわ」


 母さんがダニロの頭も撫でようとする。でもダニロはひょいとその手をけた。見習いに出るようになってから、ダニロは母さんに触られるのを恥ずかしがるようになった。ダニロがそうしてるのを見てると、何も言わず母さんに撫でられてる自分のことがなんだか小さな子どもみたいに思えて、ぼくはちょっと居心地が悪かった。


「ミルコが寝込まないで動いてくれてるだけで、ずっと楽なのよ」


 母さんはダニロに避けられたことを何とも思ってないみたいな感じでそう言うと、また炊事をしに戻ってった。ダニロは窓のほうを不機嫌そうに見てる。


「あ〜あ。……冬の匂い苦手なんだよね」


 空いた窓から吹き込む冬の風に向かってダニロが呟いた。


「夏のほうが臭いじゃん」

蝋燭ろうそくが嫌いなんだってば」


 冬籠りが始まると寒すぎて窓は開けられない。窓を閉めた部屋の中で灯す明かりは、家畜を解体して出る油脂から自分たちで作った蝋燭だ。市場で買ってきた蝋燭もあるけど、高くて冬の間ずっと使うわけにはいかない。確かに臭うけど、家でじっとしてることが多かったぼくにとっては安全な場所にいるっていう気になる匂いだった。元気なダニロにとっては外に出られないっていうことを思い知らされる匂いなのかもしれない。


「夏の神よ」


 竃に薪をくべる母さんの小さな祈りが聞こえた。




 冬支度は二つのことをする。ひとつは家の寒さ対策をすること。もうひとつは食べ物を溜めておくことだ。去年までは冬が近づくと体調を崩しがちだったぼくは、家の寒さ対策を少し手伝うくらいしかできなかった。でもいまは丈夫になったから、外へ出てほかにもいろいろと手伝える。野菜や水を運んだり、家畜の解体を手伝ったり。


「おはようミルコ」

「おはようアルマ」


 家の前でアルマと合流する。アルマの家には男手がないから、冬支度も一緒にできることはできるだけうちと一緒にやってた。井戸端へ降りると、違う街区に住んでるはずのワレリーさんがいた。


「ドリス、エラ、おはよう」

「おはよう」

「おはようマーレ」


 母さんが近所のおばさんたちと話し出す。井戸端には子どもたちも居て、いつもより賑やかだった。ぼくはワレリーさんに近づいてった。


「おはようございます、ワレリーさん」

「ああ、おはようミルコ」

「なにしてるんですか?」


 ワレリーさんは井戸の脇で何か作業をしてた。母親たちはワレリーさんの作業を待ってるみたいだった。


「井戸のへりを直してんだ」

「井戸も石工の仕事なの?」

「そうだ。桶や綱は違うがな、下の石積みは石工のもんだ」


 ワレリーさんと話してたら、横から声を出してきた人がいた。


「なかなか直してくれないから冬支度と重なっちまったよ」


 ぷっくりと太った赤毛のおばさんが、ワレリーさんに不満を言う。ほかの母親たちとちょっと雰囲気が違うのは、立ち飲み屋のおかみさんだからだ。店は別の街区だけど、たまにぼくたちの街区でも見かけることがあった。


「仕方ねえだろ、自分とこの近所だからって優先できねぇんだよ」


 そう言って話してる間も、ワレリーさんは作業を続ける。


「まあそりゃそうか」


 おばさんはそう言ってあっさり引き下がった。別にワレリーさんに怒って文句を言ったわけじゃないみたいだ。そしてちょっと困ったような顔をして、新城塞のほうを見た。


「早くこの東街区にも水道が来てくれないかね」


 新城砦の内側には水道が通ってて、街のあちこちに泉ができてるんだって母さんが話してくれたことがある。井戸から水を汲み上げなくてもいいから早く水道が来てほしい、って母さんもよく言ってた。


「ああ、そのうち来るだろうさ。上流のほうの工事が要るってんでちょっと延びちまってるらしいがな」

「こんなに建物があるのに、どうやって水道を通すの?」


 ぼくはふと不思議に思って聞いてみた。水道がどういうものか知らないけど、水を流すならそのための場所がなきゃいけないことくらいはわかる。なのにこの東街区にそんな隙間があるとは思えなかった。


「道を掘ってその下を通すらしいな」

「道の下を通すの? それでどうやって泉になるの?」

「さあな。詳しいことはわかんねぇな。そういうのは建築家の仕事だ」


 ワレリーさんは、さっぱりわからないという顔をしながらそう言った。


「建築家?」

「ああ。道とか建物とか、城壁とかの造り方を考えるお偉い人のことだ。石工っていっても好き勝手にいろいろ造ってるわけじゃねえ。たいていは建築家の指示の通りに造るんだよ」


 ワレリーさんが言うには、形を考えるのはすごく賢くないといけなくて、そういう勉強は貴族とかの偉い人じゃないとやってないみたい。


「その人が水道の通し方も考えるんだね」

「そうだな。ドワーフの知恵も借りるってぇ話だがな」

「ドワーフ? ドワーフってそんなに賢いの?」


 採石場で平民のクィンクを手伝って石を掘るドワーフが、貴族を手伝ってるっていうことが、ぼくにはなんだか不思議な感じがした。


「賢いっていうのとは違うんじゃねぇかな。あいつらはなんでか、土だけじゃなくて水にも詳しいんだ」

「ふーん。……じゃあ、採石場以外でもドワーフと一緒に仕事したりするんだね」

「どうだろうな。そういうこともあるかもしれねぇな」


 そう言うとワレリーさんは手を止めて、ぼくのほうを見て続けた。


「必要となったら石工がいなくてもあいつらは色々できるからな。ほら、森番小屋の脇の井戸があんだろう。あれはドワーフが造ったらしいしな」

「そうなんだ! 井戸と水道は同じなのかな?」

「ああ、いや、それは知らん。ただ、あいつらは水に詳しいっていうこった」

「いつも地面の下で生活してるって言ってたけど、水となにか関係あるのかな」

「さあな。詳しいことはちょっとわかんねぇな」


 それからもう少しの間だけワレリーさんは作業を続けた。そして、どうせそのうち水道が来て作りなおすからって言って応急処置だけしていなくなった。それでも崩れて隙間ができてた井戸の縁がきちんと塞がれて、これで子どもたちが落ちたりしないと母親たちは喜んだ。このあたりの井戸はそんなに深くないけど、子どもが落ちたら一人ではとても上がって来られないくらいには深かった。


「ミルコ、水汲んでちょうだい」

「うん」


 母さんに頼まれて、水桶を受け取る。直したばかりの縁に触らないようにというワレリーさんの言いつけを守って、ぼくはその反対側から井戸の中に水桶を投げ入れた。




 家に戻って葉野菜を漬ける。先週漬けた瓜の漬物は酢の中に香草と一緒に漬け込んだけど、今日のは酢は使わないみたいだ。


「昨日ようやく辛子の実が手に入ったからね」


 洗って水を切った葉野菜を、母さんが桶の中に手際良く並べていく。ぼくはその間に塩をまぶしていく。


「いっぱい使うんだね」


 去年までは野菜を漬ける作業も、手が冷えちゃうからって言ってぼくは手伝わなかった。だからこんなに詳しく作業を見るのははじめてだった。


「アルマと、それにダニロが見習いに出るようになったから、塩がたくさん買えるようになってよかったわ」

「前はもっと少なくしてたの?」

「そもそも野菜をこんなに使わなかったのよ。ダニロもミルコも大きくなって、たくさん食べるようになったから、塩が足りなくなりそうだったの」


 手を休めず動かしたまま母さんが言う。


「じゃあ、ぼくも見習いに出ればもっとたくさん塩が買えるね」

「ふふふっ。そんなにたくさん漬けても食べ切れないわよ」


 そう言って母さんは笑った。



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