024 進化論

「これでミルコも治癒魔法が使えるね」

「……すごい! 本当にすぐに治っちゃった!」


 あんなにいっぱいあった傷が、もうどこにもなかった。これを自分でやったなんて信じられない。でも確かにぼくが魔法で治したんだ。それが本当のことだって実感できる。


 ぼく、治癒魔法が使えるんだ!


「とってもきれいにが流れてたよ。きちんと練習してるんだね。っていうか、お祈りしてるのかな?」

「うん、練習もお祈りもしてる」


 アーシャに言われてからずっと、夜寝る前にを流す練習をしてるし、ほこらを見かけるたびにお祈りしてを流してた。


「ぼくが元気になったのも、いま魔法が使えたのも、やっぱりそのせいなのかな?」

「ぜったい関係あるよ。これからも練習して、あとお祈りとかをきちんとするといいよ」

「お祈りとはちがうの?」


 そういえば、母さんもお祈りじゃなくてっていう言い方をするときもある。どう違うんだろう?


「そんなに違わないけど……」


 アーシャが首をかしげる。ふと、そのかわいいがぼくにわかりやすい言葉を探してるときのなんだっていうことに気がついた。


「食事のときなんかにお祈りするのがお祈り。礼拝堂とかほこらまで出かけていってお礼を言うのが。ミルコは何かのお礼を言うために、目的の神様がいるほこらまでわざわざ行ったりする?」

「ううん、そういうのはしたことないかな」

「そう。でもミルコのお母さまは敬虔な人みたいだから、そういうふうにわざわざしてるかもね」

「うん、そうかも」


 母さんはいつもちゃんとお祈りしてる。だからきっともしてるんじゃないかなと思った。


も、できるときはきちんとするといいと思うよ」

「うん、わかった」


 ぼくの返事を聞いて、アーシャはまた大人の女の人みたいに優しく笑った。ぼくもその笑顔を見て一緒に笑った。これは本当にすごいことだ。治癒魔法ができるなら、ぼくのまわりのいろんなことがすごく変わってくる。ぼくがいろんなことを変えられるんだ。

 でもすこしだけそうして笑い合ったあとで、アーシャがふと真顔になった。


「……ミルコ、一つ約束して」

「なあに?」


 アーシャは真顔のまま話しはじめた。


「治癒魔法は魔法の中では簡単なもののはずなんだけど、でもそれを知ってる人はほとんどいないの。ミルコはいますぐにできちゃったけど、それはたぶんほかの人にとってはとても珍しいことのはずだわ。だからミルコが治癒魔法ができるってわかると、とっても困ることになると思う。お父さまやお母さまにも心配をかけることになっちゃうと思うの」


 だからね、とちょっと言葉を切ってからアーシャが続けた。


「治癒魔法は誰にも見られてないときに自分に使うか、ほんとに困ったときだけ使うようにしてほしいの」


 アーシャはとっても真剣な顔でそう言った。その顔が本当にぼくを心配してる感じで、これはきっと絶対に守らなきゃいけないことなんだろうな、って思った。でもぼくは、すぐに返事ができなかった。


「……」

「ミルコ?」

「……一回だけ。一人だけ、使ってみたいと思ってたんだけど」

「……おじさまのこと?」

「うん、そう」


 さっきまで話してたぼくの家族の話の中に、バシリーおじさんのこともあったんだ。だからアーシャはぼくが何を言いたいかすぐにわかってくれた。治癒魔法が自分でできるならバシリーおじさんを治せるって、ぼくはそう考えたんだ。父さんも母さんも、アルマたちも、バシリーおじさんが治ったらきっとみんなすごく喜ぶと思う。


「おじさまは何年もきちんと動けないくらいの怪我だったのよね」

「うん。腰と足をひどく怪我して、家が3階だから外にもほとんど出られないんだ」


 ぼくがそう言うと、アーシャは背筋を伸ばしてぼくをまっすぐ見ていった。


「ミルコ。残念だけど、いまのミルコの治癒魔法ではおじさまは治らないと思う」

「えっ、そうなの? なんで?」

「さっき言ったみたいに、魔法を使うにはっていう物の理もののことわりを知っていることが重要なの。そしてそれをちょっと強くしたり、ちょっと弱くしたり、そんな感じに使うのが魔法なの」


 うん、それはさっき聞いた。


「ミルコは自分の足の中がどうなってるか知ってる? 自分の腰の中に何があって、どうやって動いてるか分かる?」

「……わかんない」

「そうだよね。ふつうは知らないし、分からないよね。……治癒魔法はお医者さんの治療とは違って薬なんかを使わなくてもずっと早く怪我や病気を治せるわ。でもそれはお医者さんの知識がなくてもいいっていうことじゃないの。人の体のことや病気や怪我のことを、お医者さんのようにきちんと知ってる方が、治癒魔法はよく効くの。だってそうじゃないと、何をどう治してほしいのかにお願いできないでしょ?」


 アーシャの言ったことはとってもわかりやすくて、ぼくにもよくわかった。確かにいまのぼくはそんなこと知らないし、わからない。だから、どんなことをいお願いしていいかもわからない。さっき教えてもらった『治れ』っていうお祈りも、きっとたぶんバシリーおじさんを治すには足りないんだ。


「じゃあ、それをアーシャに教えてもらうっていうのは? アーシャは知ってるんでしょ?」


 そうだ。アーシャなら知ってる。だってそうじゃなきゃこんな風にぼくに教えられないはずだ。


「だめ……無理よ。私がミルコに教えるのは時間がかかりすぎるわ。教材もないし、基礎知識も足りない。それに何年も動かせなかった体でしょう? 治すとしたら魔法以外に外科的処置もいるだろうし、それこそ造血細胞とか合併症の知識とかの専門知識もいるし。そもそも私の知ってる人体構造とこの世界のそれが同じとは限らないんだから、進化論みたいな周辺知識もほしいわ……」


 ぼくにわかりやすく話すのを忘れちゃったのか、アーシャの話してることが全然わからなくなっちゃった。さっきまであんなにわかりやすかったのに、全然知らない言葉ばかり出てきてちんぷんかんぷんだ。


「……がっぺい?……しんかろん?」


 聞き取れた言葉をぼくが繰り返すと、あちこちに視線を泳がせてたアーシャが思い出したようにぼくを見た。


「そう、進化論。……これが大問題なのよ」


 アーシャはそう言うと、ぼくを見つめたままちょっと首をかしげた。


「たとえば、私とミルコみたいな人間クィンクは、ネズミから進化したはずなの」

「ネズミ?」

「そう。うんと大昔にネズミだったのが、何かのきっかけで大型化して、そのあとたぶん『猿』みたいな動物になって、それから人間クィンクになったはずなの」

「クィンクはネズミから形が変わってった、っていうこと?」

「たぶんね。『哺乳類』だから、間違ってないと思う」


 ぼくたちネズミだったの? せっかく首をかしげて考えてくれたのに、全然わかりやすくなかった。でもアーシャが間違ったことを言ってるなんて思えなかった。ぼくの中ではもう、アーシャは父さんや母さんよりもずっと物知りな、貴族の賢いお姫さまだったから。きっと本当のことを言ってるはずだった。


「でもね……クァトロがいるじゃない? クァトロはたぶん鳥から進化してるのよね」

「鳥? クァトロは鳥だったの?」

「たぶん……」


 クィンクとクァトロは見た目はほとんど一緒だ。指の数とか、頭の毛とか、そのくらいしか違わない。なのに大昔はネズミと鳥だったの? 全然違うじゃん!


「でもみんなおんなじ街に一緒に住んでるよ。テオはぼくの家の上に住んでるし」

「そう、ほとんど変わらない生活してるのよね。でもたぶん祖先は別々よ。その証拠に人間クィンクとクァトロは交配できないじゃない?」

「こうはい?」

「あっ……」


 ぼくが聞き返すと、アーシャはそう声を出したまま固まっちゃった。そしてみるみる顔が真っ赤になってく。


「アーシャ?」

「なんでもない。えー……っとね……」


 アーシャは真っ赤な顔をしたままぐるぐると目を泳がせてから、そのまま話を進めた。


「ク、クァトロが私たちのように生活してるってことは、鳥から進化しても『ヒト』のようになれるっていうことでしょ? だから人間クィンクが何から進化してるかはっきり分からないし、私の知ってる人体構造と同じかどうかもわからないの」


 一気にそう言うと、申し訳なさそうに顔を伏せぎみにして、ちょっとだけ上目遣いでぼくを見た。


「だから、おじさまを治すお手伝いは私には無理なの」


 アーシャは残念そうにそう言った。どうやらぼくは、バシリーおじさんを治せないみたいだ。治癒魔法を使えるようになったのは嬉しいんだけど、でもちょっとがっかりしちゃって、さっきまで膨らんでた気分がしぼんだ感じになっちゃった。


「……ミルコ、もう行かなきゃね」

「あ、そうだ。ちょっと遅くなっちゃったかも」


 そろそろ1刻経った頃だ。


「ミルコに持っていってもらいたいものがあるの」


 帰ろうとしたぼくにアーシャがポケットから取り出した何かをくれた。


「はい、私からの贈りもの」


 そういって渡されたのは、小指の爪くらいの大きさの楕円形をした、緑色の魔石だった。ぼくは実用レベルの魔石をはじめて見た。それはきらきらと光を反射して、でも透きとおってて、まるで森の緑をそのまま閉じ込めたみたいな深い澄みきった緑色の石だった。

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