015 水の橋
「え……? えぇっ!?」
傷がなくなった自分の白い手足を見て、ぼくは思わず声をあげた。手足についた傷は一部は血がにじんでたくらいだったのに。傷を探してさすってるうちに、その小さな血の塊もとれて本当に何もなくなった。
「……なにこれ?」
ぼくは目の前の女の子に視線を戻して聞いた。そしたら女の子はなんでもないみたいに言った。
「治してあげたの、傷はもうなくなってるわ」
「なおしたって……どうやって?」
ぼくはもう答えが思いついてたけど、なぜだか自分で口に出せなくて女の子に聞いた。
「んー、魔法? っていう事でいいんじゃないかな」
女の子はちょっと首を傾げながら、さっきみたいに本当になんでもないみたいに言った。
「魔法……」
ぼくはそこだけおうむ返しに口にして、そのまま何も言えなくなった。魔法は物語の中だけでしか聞いたことない、不思議な力のことだ。火をおこしたり光をともしたり、いまみたいに傷をなおしたりできるって聞いたことある。魔法が使える人、魔法使いは特別な人たちで、貴族とか偉い人たちの中にたまにいるくらいって聞いてた。っていうことは……
「やっぱり貴族なんだ……」
ぼくがちょっと怖くなってそう言うと、女の子が口をゆがめて、片方の頬をちょっとつり上げてうなった。
「うーん。それ、ほとんど関係ないみたいなんだけどね」
柔らかそうな草の上に両足で膝立ちしてた女の子は、そのままストンと自分のかかとにお尻を下ろすとその姿勢のまま話し始めた。
「魔法は潜在的に誰でも使えるものよ。なんか一部の人しか使えないようなことになってるみたいなんだけど、詳しく使えるようになってみると自然とそういうものだっていうことがわかるの。でも確かに貴族たちの方がうまく使えてるのよね。でも貴族専門のものってわけでもないんだよ? そもそも……」
そうして話してる女の子は
話してる内容はぜんぜんふつうじゃないけど。
ぼくは貴族と話してる怖さがだんだん薄れてきて、代わりに魔法についての興味がだんだん湧き上がってきた。だって目の前の女の子は魔法が
女の子の言葉が途切れたところで、ぼくは思い切って聞いてみた。
「じゃあさ、ちょっと教えてくれる?」
「うん? なあに?」
優しくそう言ってくれた女の子に話そうとして口を開いたときに、ふと別のことが気になってしまった。
「……あれ? そういえばさっきのって、治癒魔法っていうのだよね?」
「うん、そうだね」
「……えええっ!! 治癒魔法かけてもらっちゃたの!?」
そのときぼくは思い出しちゃったんだ。治癒魔法ってすっごく高いんだ。だからバシリーおじさんが怪我したときも治癒魔法は使えなかった。お金がなかったし、そもそも治癒魔法なんてふつうの平民にはかけてもらえない。だからバシリーおじさんも炭鉱街の治療院で少し診てもらったあとは、ずっと薬湯で直すしかできなかったって聞いてた。バシリーおじさんとニーナおばさんの家族を養ってる父さんと母さんは、平民では稼ぎがいいほうなんだ。それでも治癒魔法なんて絶対無理だって、そういう話だった。
驚いて大きな声をあげてしまったぼくの膝を、女の子が慌てたようにぽんぽんと叩いた。
「しーっ! 静かに! あんまり大きな声を出さないで、ね?」
女の子は右手の人差し指を立てて自分の口元によせて「しーっ」っとくり返した。その仕草が不思議だったのと、大きな声を出さないでという言葉で、ぼくは自然と声を落としてた。
「ち、治癒魔法ってすごく難しいんでしょ?」
女の子は人差し指を口元にあてたまま「うーん?」と少し考える。ぼくを見つめたまま口に指を当てて首をかしげる様子はとってもかわいい。
「そうでもないよ?」
さっきから女の子と話してると、魔法がまるでなんでもないことみたいに聞こえてくる。でもぼくの周りで魔法を使える人なんて、領主さまの森番をしてるレオンくらいだ。それに使ってるところなんて見たことない。
「でも……すごく高いんでしょ?」
ぼくがそう言うのを聞いた途端、なぜか女の子はパッと横を向いて肩を震わせ始めた。口元は人差し指の代わりに手のひら全体で覆ってる。
……笑ってる?
ぼくが真剣に心配して聞いてるのに、女の子は笑ってるみたいだ。しかも目に涙を浮かべるほど、顔はどんどん赤くなってる。少しの間そうして肩を震わせてたかと思うと、ふぅっと息を一つついて女の子はぼくに視線を戻した。顔は真っ赤なままだ。そして声を震わせながらこう言った。
「い、い、いまならなんと、『笹舟』ひとつポッキリよ」
「ええっ、たったそれだけでいいの!?」
ぼくが思わずそう言うと、女の子はこんどは両手で顔を覆って、そのままぼくの足元にうずくまっちゃった。ときどき「くっ、くっ」と声を漏らしながら背中を震わせてる。
絶対笑ってるよねこれ……からかわれてるのかな?
ぼくは小さくうずくまった女の子の背中の上で揺れる濃い色の髪を見ながら、地面に尻餅をついた格好のまま顔を上げてくれるのを待った。
「はぁっ、ごめんごめん。……ふぅっ、ごめんね。もう大丈夫」
やっと顔を上げてくれたと思ったら謝られちゃった。なんだったんだろう。小さい子の遊びはよくわからない。貴族のお姫さまの変な遊びに巻き込まれるなんて、どうしたらいいか全然わかんないよ。
「ふぅ。……あー、ほんとに『笹舟』くれるだけでいいよ。っていうか何もなくてもいいんだけどね。でもよかったら、あなたの作った『笹舟』くれるかな?」
そう言って女の子は両手の平を上に向けてぼくのほうに差し出した。ぼくは尻餅をついたまままわりを見渡す。さっきまで作ってた『笹舟』は、せんぶ流すか手で押しつぶすかしちゃってて、きれいなものは残ってなかった。
「ちょっと待ってて」
ぼくは立ち上がって竹林まで戻ると、葉っぱをちぎって、さっき覚えた『笹舟』を作った。なんと言っても治癒魔法のお礼だ。きれいな葉っぱを選んで、ていねいに『笹舟』を作った。覚えた通りにきちんとできたと思う。
「はいこれ」
小川のそばで座ったまま待ってた女の子の脇にしゃがんで、作った『笹舟』をあげる。女の子はおとなしく両手の平を上に向けたまま待ってたから、そこに乗せてあげた。
「ありがとう」
嬉しそうに笑ってそう言った女の子を見て、ぼくはほっとした。本当にこんなのでいいのかな、と思いながら、でも笑ってくれたから大丈夫だと思う。うん。
しばらく手の上の『笹舟』を見てた女の子が、ふと顔を上げてぼくを見た。
「教えてほしかったことって、治癒魔法の値段でよかったの?」
「あ……」
そうだった。教えてほしいことがあったんだった。
「えっと、教えてほしいことは別にあるんだけど」
「うん、いいよ。なんでも聞いて」
ぼくはしゃがんでた姿勢から、またさっきみたいにお尻を草の上に下ろして座った。
「魔法ってだれでも使えるの?」
「うん、たぶん誰でも使えるよ」
そう、ぼくが聞きたかったのはそのことだ。
「でもぼくはいままで一度も使えたことないよ?」
「それは、使おうとしたことがなければ使えなかったと思うよ」
女の子はそう言った。でも、ぼくは魔法使いのまねごとをしたことくらいはあった。
「物語の魔法騎士とか、そういうのの真似をしたことはあるよ。でもできなかった」
物語の中の魔法騎士は、火の玉を投げつけたり、雷を落としたり、大きな鳥に乗って空を飛んだりと不思議なことがいろいろできた。魔法騎士を含む騎士団の物語は、昔あった本当の話が元になってるって聞いてる。物語の中には
「えっとね……、まず、いきなりそんな大きな魔法は使えないと思うよ。それに、少しは魔法のことがわかってる必要があると思う」
「魔法のこと?」
「そう。魔法のこと。どうして魔法が使えるかっていうこと」
「どうして魔法が使えるか……」
ぼくはちょっと新鮮な気持ちになってその言葉をくり返した。魔法はただ「魔法使いが使う」んだとしか思ってなかったから、どうして魔法が使えるかなんて考えたこともなかった。
「どうして魔法が使えるの? 祝詞を正しく覚えるとか?」
祝詞はつまりお祈りだ。正しい神様に正しいお祈りをしないと魔法は使えない。これは騎士団の物語を知っていればみんな知ってることだった。
「それは魔法を使うときの手順の話ね。私が言ってるのは魔法が使える理由のこと」
そう言って女の子は、そばの小川のほうに片手をかざした。
「祝詞は魔法を使うときのきっかけみたいなものなの。でも魔法が使える理由がきちんとわかっていれば、祝詞に頼る必要もないのよ」
そうやって話してるうちに、かざした手の先でそれは起きた。
「え……」
ぼくは思わず声を漏らした。今日はなんだかずっと驚いてばかりいる気がするけど、いまが一番驚いてる。だってぼくが見てる目の前で、小川の流れが別れたんだ。
ちょうど、小川の中に岩があるときにその流れが岩を挟んで二つに分かれるみたいな感じで、小川の流れから一筋の小さな流れが別れ出た。しかもその別れ方がふつうじゃなかった。流れに向かって右と左に分かれるんじゃなくて、上と下に別れたんだ。つまりぼくの見てる前で小川の中に小さな水の橋がかかったみたいになってた。女の子の腕くらいのその細い橋は、もちろん小川を渡るようにかかってるんじゃなくて、小川の中から始まってぼくの胸の高さくらいまでのきれいな半円を描くように空中を流れた先で、また小川の中に戻ってた。
「ね、祝詞がなくてもこんなふうに、川の流れを変えたりできるの」
「すげー……」
「見てて」
女の子はそう言って、ぼくがあげた『笹舟』を水の橋のてっぺんの、少しだけ上流にちょこんと乗せた。そしたら『笹舟』は、そこから水の橋を滑り降りそうで、でも流れに押されて降りきらずに、ずっとそこに止まって揺れてた。
きれいだ……
小さな水の橋は陽の光を反射してきらきら輝いてた。「どう?」っていうかんじでぼくを見る女の子のほっぺにその光があたって、それがとてもきれいで、女の子がとてもかわいくて、本当の本当は妖精なんじゃないかと思いながら、ぼくは草の上に腰を下ろしたまましばらくその光景にみとれてた。
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