013 湖
しばらくしたら、ようやく熱が冷めたようになって落ち着いてきた。上を見ると木々の間からきれいな青い空が見える。空と森の木々の様子を見て、朝からあまり時間が経ってないことに気がつく。あんなに大変な思いをして歩いてきたのに。
お昼過ぎまでか……。何してようかな……。
帰りのことも考えると待ってる間に動き回るのもどうかと思う。せっかくここに残って休んでたのに、帰りにヴィーゼに乗せられて帰るなんて恥ずかしくて嫌だった。
「おまえも喋れたらいいのにな」
そうヴィーゼに話しかけると、ちょっと目を細めてにらみつけてきた。そんなこと言われても喋れないものは喋れない、って言ってるみたいだ。
そのとき、ふと何かの気配を感じて小川のほうを見た。ここに来てずっと聞こえてるせせらぎは、その小川が鳴らしてる。小さくてきれいな川だ。
……なんだろう?
何かが見えたわけでもないのに、なぜか小川が気になった。でもとくに何も起こらない。そうやってしばらく小川を見てると、川の水は冷たいだろうな、という考えが浮かんだ。
……そういえば水が飲みたかったんだった。
そう思ってぼくは腰をあげ、小川のそばまで歩いていく。きれいな流れの脇にしゃがみ込んで手を浸すと、水は思った通りに冷たくて、まるで気持ちをすっきりさせてくれるみたいな気がした。
「ああぁ、きもちいいぃ……」
思わず声を漏らしたぼくは、しばらくのあいだ水の冷たさを手と喉で味わった。そしたらそのとき、視界の端で水面に何かが揺れるのが見えた。視線を上げるとそこには、何かの葉っぱでできた小さな船が小川を流れてくるところだった。細長い葉っぱで作った、明るい透き通るような黄緑色の船だった。ぼくは何気なくその船を拾い上げた。
「……!!」
ぼくは思わず声をあげそうになった。拾い上げた途端に、ぼくの顔にその船から風が吹いたんだ。いや、吹いたような気がした。髪が揺れなかったから気のせいだってわかる。でも確かに何かを感じたんだ。
……なんだろう。……それにまだ、いまも感じる。……なんだろう。
ぼくはちらっとヴィーゼを振り返る。ヴィーゼは無言でぼくをじっと見てる。しばらくヴィーゼと見つめあうと、ぼくはまた手に持った小さな船に視線を落とした。
……どうしようかな。
葉っぱでできた船はどう見ても自然にできたものじゃなくて、だれかが作ったものだった。でもみんなが歩いて行ったほうと、小川が流れてくるほうはぜんぜん違った。ぼくはだれがその船を作ったのかすごく興味が湧いた。そのだれかに、どうしても会ってみたい気持ちになってた。
……どうせ昼過ぎまで暇だしな。……どうしようかな。
もう一度ヴィーゼを振り返る。ヴィーゼは相変わらずぼくをじっと見てる。
「ヴィーゼ……、あのさ、ぼく、ちょっと行ってくるね」
冷たい川の水に癒されて回復した体にぐっと力を入れて立ち上がる。そのときぼくは、ここが奥の森の中だとか、ヴィーゼから離れると危ないんだとか、そういうことをなぜだかすっかり忘れちゃってた。小さな葉っぱの船を手にして顔を上げると、ぼくはヴィーゼをその場に残したまま、そろりと小川の上流に向かって歩き出した。
小川の流れは、森の中心を通る街道から少しずつ離れてくほうから来てた。エルマやテオドーアたちは街道と平行に森の先へ向かったから、このまま小川を辿っていってもみんなに会うことはないと思う。
エルマたちのだれかが流したんじゃないよな。
ぼくは自分に確認するように頭の中でそう思った。そもそもはじめに風みたいな何かを感じたときにわかってた。この葉っぱの船を流したのは知らないだれかだ。
「えいっ……、よっ。ほっ」
小さな流れはぼくがぎりぎり飛び越えられないくらいの幅で、流れの中にはところどころで石が顔を出してる。ぼくは岸辺が狭くなってくるたびに、石を跳んで伝って反対側に行ったり、また戻ったりしながら小川を辿ってく。岸辺には背の低い草木が茂ってるところもあって、夏用の服のゆるい裾から細かい枝葉が入り込んで肌をちくちく刺した。
……あ、行き止まりだ。
四半刻ほど登ってきたところでぼくは立ち止まった。小川の上に垂れ込めた蔦や枝が複雑に絡まりあってて、それ以上は辿れなさそうだったんだ。まわりを見ると、小川の上だけじゃなくてその両側もずっと、まるで壁みたいに蔦や枝が生い茂ってた。見たことのない、とても不思議な茂り方だ。
ここまでか……。
行き止まっちゃったけど、ちょっとした探検としては十分だった。垂れ込めた蔦の壁がなくても、これ以上歩いていくのはちょっと自信がない。それに四半刻ほどとはいえ、ところどころ跳びはねながらここまで休まずに来た自分に、ぼくはちょっと満足してた。
少し休憩したらヴィーゼのところに戻ろう。
ぼくは近くの石に腰をかけて、ふうっ、と深く息を吐きだした。奥の森まで来るのにあれだけ息を乱したあとなのに、こうして歩き回れてる。そう思って、くさくさしてた気持ちが少し晴れてるのを感じた。
さっきは動けなくなっちゃったけど、それでもぼくは前よりずっと強くなってるんだ。
川面が木漏れ日を跳ね返してまわりの木の葉を照らしてる。ぼくは石に腰掛けたままその様子をしばらく眺めて過ごした。そうしてると、ふとさっきの感じが蘇ってきた。顔に風を感じるほどじゃないけど、同じような
……なんだろう。……そういえば、この感じを確かめたかったんだった。
ぼくはいつも目標をきめてこつこつとやりきってきた。みんなのようにできないから、そのときに自分にできることを無理しないように、でもできるだけ頑張って少しずつ前に進んできた。だからこんなときにもその癖が出てきちゃうんだと思う。
……もうちょっと行ってみようかな。
そう思って立ち上がると、ぼくはきらきらと川面からの光を受ける蔦の壁を見ながら、どこか通り抜けられないかと蔦の薄いところを探し始めた。そしたらさっきは気づかなかったのに、すぐ目の前の蔦の壁に通り抜けられる隙間があるのを見つけた。
なんだ、ここ通れるじゃん。
ぼく一人がちょうど通り抜けられるくらいの隙間を見つけて、もう少しだけ辿ってみることにした。あの不思議な感じがなんなのか、どうしても気になってたんだ。
蔦の壁を抜けて少しだけ行ったところで、小川は小さな滝になってた。滝を見るのは生まれて初めてだ。ぼくの背よりも高くて、たぶんテオドーアの背くらいある。すこしなだらかに4、5段くらいで流れ落ちる滝だ。ぼくはその右側の脇を、岩に手をかけながら登ってく。苔むして滑りやすくなった岩を、転ばないように慎重に進む。足元を気にして下を向いたまま最頂部の岩に登り切ると、ふっと滝の音が後ろに遠のいた。ぼくは前が開けたのを感じて顔を上げる。
「……わぁ!」
目に入った景色のきれいさに、ぼくは思わず声をあげた。そこは大きな湖だった。まわりを濃い緑の山に囲まれた、深い青色の湖だ。まるで鏡みたいに静かな湖面には、まわりの山がきれいに写り込んでる。優しい風がたまにそよいで、湖面に小さなさざ波を起こしてる。手前には柔らかそうな黄緑色の草が生い茂った岸辺があって、ところどころ湿地みたいになってて透き通った水が草の根元に光ってる。岸辺はぼくの住んでる街区くらいの広さがあって、かけっこができそうな感じだ。
ほんとに走り出したら服がびしょ濡れになっちゃうかな。
足元の草で地面が見えないから、どこまで水に浸かってるか近づかないとわからないんだ。右を見ると、湖の右側の端はどこまで続いてるか見えない。でも左側と向こうの岸は見えてて、向こう側の岸までは手前の岸辺の5つ分か、それより遠いくらいだ。左側はもう少し遠くまで広がってる。そしてなによりぼくの目を引いたのは、向こう岸にある大きな建物だ。湖の岸辺に静かに建ってるその建物は、白く輝くような壁にしっとり濡れた木の皮みたいな茶色の屋根で、とてもきれいだった。そのきれいな建物が、山に囲まれた姿のまま湖に鏡写しになってる。その様子はちょうど空に浮かんでるみたいに見えて、まるで間違って夢の世界へ迷い込んだみたいな気がして、ぼくはしばらくその建物を眺めてた。
そういえば、あの建物から流れてきたのかな……。
ぼくは小川を辿ってきた理由を思い出して、その建物のほうへ歩いて行こうとした。少しかかとを濡らしながら小川を跳んでまたいで、左側の岸辺を歩き始める。左側には少し先から竹林が続いてた。
その竹林に差し掛かったところで、不意に竹林の中から小さな声がした。
「誰?」
「ぅわっ!」
突然声をかけられたことで、ぼくはびっくりして一歩右側に飛び退いた。そしてとっさに、何か悪いことをしてしまったんじゃないかという気持ちが膨れ上がってきた。
どうしよう! あの蔦の壁をくぐり抜けてきちゃダメだったんじゃないかな?
ドキドキする胸を押さえながら、ぼくは声がしたほうを見た。そしたらそこには小さな、ぼくよりも小さな女の子が一人、竹林の中からぼくを見つめてた。
……妖精?
ぼくは思わずそう思った。その目は吸い込まれそうなほど真っ黒く澄んでる。少しだけ茶色っぽい黒髪はまっすぐ肩の後ろに垂れてて、きっと触るとさらさらと流れるみたいに柔らかいんじゃないかと思った。まるで光が透き通ってるみたいに白い肌には、木漏れ日が差してほっぺたのうぶ毛がうっすら光ってる。着てるのは白と青が組み合わさった見たことのない形の服だ。すこしだけ首を傾げてぼくを見つめるその表情は、まるで大人の女の人みたいにぼくの考えてることを見透かしてるみたいだ。なのに背の高さは明らかにぼくより小さくて、5歳くらいにしか見えない。
「あ……」
何か言わなきゃって思ったけど、思いつかない。女の子はただそこにちょこんと立ってるだけなのに、まるで物語の中の妖精みたいにきれいで、ぼくはその様子をずっと見てたい気持ちになってた。
「あ、あの……えっと……」
「あなたは誰?」
その子がじっとぼくの目を見て聞いてくる。なんて答えたらいいか考えようとして、でも考えられなくて、ぼくはただじっとその目を見つめてた。
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