012 切り株

「よい一日であらんことを」

「おたがいに」


 あいさつを交わしたレオンに見送られて街道を歩き始める。この街道の先には鉱山とその周辺の集落しかない。それでも鉱山との間で重い荷物を毎日のように運ばなくちゃならないから、ぬかるんだりしないようにきちんと整備されてる……らしい。ぼくはここ以外の街道を知らないから、父さんにそう聞いただけだ。でも整備されてるって言っても石が敷いてあるだけだし、かなりでこぼこしてるから荷車は使えないみたい。


「おはよう、よい一日であらんことを」

「おたがいに」


 歩き始めて少しすると、荷物を載せたロバを連れた人たちとすれ違った。朝一番に工場街から街に向かってく人たちだ。いつもはもっと手前で森に入るから、ぼくが朝のロバとすれ違ったのは初めてだった。森は東にずっと伸びてて、街道はその真ん中あたりを通ってる。だから右にも左にも森があって、どちらも森の向こう側に明るい農地が見えてる。川と川に挟まれた細長い森だからだ。その森の幅も、いままでぼくが見たことないくらいに広くなってきた。もうだいぶ歩いてきたから、川と川の間も広くなってきてるんだ。


「まだ…森に…入らないの?」


 少し疲れてきたぼくはエルマに聞いた。


「うん、まだもうちょっとかな。いつも行く切り株のところがあるの」


 エルマが元気よく答える。


「街道のほうが歩きやすいから、このままもう少し行かないと奥の森に着くのが遅くなっちゃうよ。森に入ればいつもと同じように少しひらけた場所で一旦休憩だから、そこで休めるよ」


 そう言って歩くエルマはまだまだ平気そうだ。ぼくは息を切らしながら、すぐ後ろをのっしのっしといてくるヴィーゼを振り返って見上げた。さっきまで前を行くテオドーアの横にいたのに、ぼくが息を切らし始めたら後ろに来て、たまに顔を覗いてくるんだ。


 弱ってるから食べようとしてるんじゃないよね……


 息が切れてくると、なんだかわけもなく弱気になってくる。そうこうしてるうちに、みんなに従いてくのがやっとになってきた。もうエルマにも話しかけられないし、ヴィーゼを振り返る元気もない。でも途中で立ち止まりたくなかった。とにかくちゃんと、奥の森まで行かなきゃ。


「みんなー。ここから入るよー」


 ようやく前のほうでテオドーアがみんなにそう告げた。ぼくはもうとっくに疲れてて、立ち止まりたくないってことだけしか考えられなくなってた。だからテオドーアの言葉に、なんだかふっと体の力が抜けるような気がした。


 よし、なんとか遅れずに従いてこられた……。あとちょっとだ……。


 そう思ったのがよくなかったんだ。幅の広くなった奥の森は、街道から切り株のあるところまで思ってたよりずっと距離があった。それにいつもの森よりずっとでこぼこしてて歩きにくい。一旦気が抜けちゃったぼくは、そこから先はみんなに従いてけなくなって、すっかり遅れて離されちゃった。みんなから一人離されて歩くのは、すごく情けない気分だ。ヴィーゼと、クァトロのうちの1人がぼくの後ろをゆっくり従いてきてくれるのが、なんだか余計に悔しかった。




「ミルコ、大丈夫?」


 ずいぶん遅れて、やっと切り株のところのみんなに追いついたぼくに、エルマが心配そうに声をかけてくれた。でも息が切れて返事ができない。すぐ近くにちょうど座れるくらいの切り株があるけど、そこまで動くこともつらい。辺りに響いてる小川のせせらぎに気づいて、水を飲みたいと思っても、その場に膝をついてじっとしてることしかできなかった。


「やったね、やったよね」

「うん、すごいよ」

「すごいよ、それに思ったより遅れなかったよね」

「遅れなかった、ミルコすごいよ」

「すごいよ、頑張ったよね」


 テオドーアたちが口々にそう言って慰めてくれる。いや、慰めじゃなくて本気でそう思ってるのかもしれないけど。でもいまは、いつも通りのクァトロたちのやりとりがなんだか腹立たしく感じちゃう。そんな風に心の中がもやもやとささくれ立ってるぼくに対して、テオドーアがあっけらかんと言った。


「じゃあ、ミルコはここで休んでてね」

「えっ!?」


 声を出したのはエルマだった。他の子どもたちも驚いた顔をしてる。ぼくも驚いたてテオドーアを見上げようとした。だけど疲れてて、子どもたちの顔よりも上を見られない。息が切れてまだ顔があげられないんだ。驚いて、悔しくて、なんだか腹が立ってきて、声をあげて抗議したいのに声が出なかった。


「どうして? ダメよ!」

「大丈夫だよ、ここは安全な森だしね」

「いくら安全な森でも一人じゃ危ないじゃない!」


 エルマがぼくの代わりに抗議の声を上げる。その抗議の声を聞いて、悔しさと腹立たしさでいっぱいだったぼくの心の中に、一気に怖い気持ちが膨らみ始めた。


 そうだよ、奥の森に一人って危ないんじゃないか? なんにも出ない? 狼は? 狼が出たらどうしよう!


 怖い気持ちで覆われはじめたぼくの代わりに、エルマがテオドーアに食い下がる。ぼくが回復するまで待とうと言うエルマの言葉をふんふんと聞いてから、再びあっけらかんとテオドーアが口を開いた。


「大丈夫だよ。そのためにヴィーゼを借りてきたから」

「そうそう、ヴィーゼがいるから大丈夫」

「ヴィーゼがいればこの森にいる動物たちは悪いことはできないよ」

「うん、できないね。野犬も寄ってこない」

「何かあったら知らせてくれるしね」

「そうそう、大きな声で鳴いて知らせてくれる」


 クァトロたちの言葉に、エルマはぽかんと口を開けたまま止まっちゃってた。ぼくもそうだ。


 レオンがストロジオを貸してくれたのは、ヴィーゼがいるのはそのため? ぼくを一人で置いておくためなの? 森の中で一人で?


「初めからそのつもりだったの?」


 止まっちゃったエルマの代わりに別の子が聞いてくれる。それに対するテオドーアの答えはさらにみんなを驚かせた。


「ううん、違うよ。本当は途中でミルコを乗せて返すためだったんだよ」


 テオドーアはまるで、素晴らしいことを教えてあげるよ、みたいな調子で話し始めた。


「大人たちみんなで相談してね、本当は夏が過ぎて涼しくなるまでミルコを奥まで連れてくるのはよそうって言ってたんだ。でもぼくとレオンで、もっとミルコに挑戦させないとって言ったんだ。それでレオンが途中で戻ってこられるようにヴィーゼを貸してくれることになったんだ」


 テオドーアが話してると、他のクァトロたちも話し始める。


「大人たちは、途中で動けなくなると思ってたからね」

「そうそう、でもミルコはたどり着けるってテオが言ってさ」

「うん、テオはそう言ってねた」

「そうそう、レオンがヴィーゼがいれば森で待ってられるって」

「うん、レオンもそう言ってたね」

「でも大人たちは途中で動けなくなると思ってたからね」

「大人たちはそう言ってたよね」


 ようやく息が整ってきたぼくが顔を上げると、テオドーアがキラキラした目でぼくを見てた。


「やったね、やったよね」

「うん、すごいよ」

「すごいよ、それに思ったより遅れなかったよね」

「遅れなかった、ミルコすごいよ」

「すごいよ、頑張ったよね」


 そうか、とぼくは思った。奥の森に行けるっていうのは、奥の森で動き回れるっていうことだと思ってた。でもそうじゃなかったんだ。みんなと違ってぼくが奥の森までっていうのは、奥の森までっていうことだったんだ。


「………」


 ふと、じっとぼくを見てるエルマと目が合った。ぼくは慌てて瞬きをして、さっきはたどり着けなかった切り株のところへ行って、背筋を伸ばしてそこに座った。そしてできるだけだれにも目を合わせないようにして、もう一度テオドーアを見上げた。


「テオ、ありがとう。ぼくここで待ってるよ」


 奥の森に来ることが、7歳になったぼくの目標だった。奥の森での出来事を、いつもダニロが楽しそうに教えてくれた。


「ミルコ、一人で大丈夫?」

「大丈夫だよエルマ。ここで待ってる」


 いつもよりたくさんのいろんな種類の木の実を取りたかった。みんなで手をつながないと囲えない、太い大きな木の幹も見てみたかった。


「ヴィーゼは喋れないけど、話すことはかなりわかるんだって」

「ありがとうテオ。そうなんだ、安心だね。ヴィーゼと一緒に待ってるよ」


 いつもの森にはいない動物も、ダニロはここなら見られるって言ってた。いつも羨ましかった。やっと来られたんだ。


「昼過ぎに戻ってくるから、ここで一緒に木の実を食べような」

「うんそうだね。たくさん採ってきてね、待ってるよ」


 もういいよ。早く行って。


「じゃあね、ゆっくり休んでね」

「うん、ありがとうエルマ。楽しんできてね」


 振り返らなくていいってば。


「………」


 ぼくは意地でも下を見ないように必死に顔を上げて、何度も振り返るエルマが見えなくなるまで切り株に座ったまま見送った。その間ずっと、すぐそばでヴィーゼが小さく羽をはばたかせてぼくの体を冷ましてくれてた。


「ありがとうヴィーゼ」


 だれも見えなくなってから、ぼくはヴィーゼにお礼を言った。ヴィーゼはゆっくりと瞬きをしてから、まるでぼくを見守るようにその場に座り込んだ。ぼくは両手で膝を握りしめて、声をあげないようにぐっと奥歯を噛み締めた。鼻先から垂れた雫が足元の落ち葉にあたる音が、せせらぎの合間に聞こえた。

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