010 少年の朝

 優しく体を揺らす振動に、僕は重い瞼をなんとか持ち上げる。


「……ミルコ、ミルコ。朝よ、起きなさい」


 母さんの声がして朝だと気づく。でもまだ眠くて毛布の中に居たかった。


「……ん、起きた……。起きたよ」


 いつまでも揺らされるとうっとうしい気分になるから、早く止めてほしくてなんとか目が覚めたことを告げる。隣では同じように起こされた下の兄さんのダニロが伸びをしてるの気配がした。

 ここ1年ほど僕と一緒に森に行ってくれてたダニロは、今はもう見習いとして毎日仕事に出てる。さすがに8歳になってまで僕の面倒を見ていられないから、心細かったけど仕方ない。


 そういえば、僕ももう7歳になったんだった。


 そんなことをぼんやりと思いながら微睡まどろんでると、ダニロが肩を揺すってきた。


「おい、起きろよミルコ。今日はまで行くんだろ?」


 おくのもり……奥の森……


「そうだ! 今日は奥の森まで行くんだ!」


 一気に目が覚めた。そうだ、今日はようやくまで行けるんだった。

ガバッと起き上がった僕の頭を、クシャクシャとかき乱しながらダニロが寝台から降りてく。


「早く起きて支度しろよ」

「うん!」


 毛布を跳ね除けて寝台から降りると、部屋着を脱いで外着に着替える。ダニロとはひとつしか歳が違わないけど、僕の体が小さくてダニロは大きいから、僕はダニロのお下がりを使ってた。夏の外着は二着持ってるけど、今日のはお気に入りの草色のほうだ。脱いだ部屋着で寝汗を拭って膝丈のズボンを履く。腰紐を結んでると、天井から音が聞こててきた。


 トントントン、トントントン。


 屋根裏に住んでるクァトロのテオドーアが、僕が出掛けられるかどうかを聞いてきてるんだ。僕は壁に立てかけてある木の棒を掴むと、寝台に上って天井を叩いた。


 トントントン、トントントン。


 三回続けて叩き、また三回続けて叩く。出掛けられることを知らせる合図だ。

 屋根裏が少し騒がしくなったのがわかる。テオドーアが喜んではしゃいでるんだろう。テオドーアは僕が森に行くときはできるだけ一緒に来てくれる。陽気なお兄さんみたいでもあって、親友みたいでもあった。

 着替えをして居間へ移動したら家族がみんないた。あたりまえだ、寝室にだれもいないならウチにはもう居間しかいるところないから。


「おはよう父さん」

「おはようミルコ」


 狭い居間には家族がみんな揃ってた。父さん、上の兄さんのブルーノ、そしてダニロ。3人とも体が大きいから、食卓がとても小さく見えた。手前の竃の前では、母さんがなにやら家事をしてる。小さな居間だったが、僕はこうして窮屈なところに家族みんなで一緒にいるのが大好きだった。


「おはよう、ミルコ。すぐに起きられたのね」


 母さんがそう言って手ぬぐいを渡してくれる。


「さあ。顔を洗って、口もゆすいでね」

「うん」


 朝の洗顔とうがいは一日の始まりの儀式だ。夜の気配を水の神さまに清めてもらう。


「いやに元気だな、ミルコ」


 父さんが声をかけてくる。


「うん、今日はね、奥の森まで行くんだ。初めてなんだよ」


 奥の森は、大人が何人かついてきてくれる時にだけ行ける。でもあまり小さな子は連れて行ってもらえない。僕は体が弱かったから、いままで連れて行ってもらえてなかった。


「ああ、初めてなのか。そりゃ楽しみだな」


 そう言ってくれる父さんに続いて、ダニロがニヤニヤ笑いながら口を挟んできた。


「いいなぁ、ミルコ。僕も久しぶりに狼が見たいなぁ」

「え……?」


 ダニロの一言に、楽しみで膨らんでた僕の気持ちは急にしぼんでくる。


「オオカミ? 狼が出るの?」


 狼が出てくる話はどれも怖い話ばかりだ。昔話だけじゃなく、いまでも遠くに働きに行く大人たちが狼に襲われる話を聞く。でもそれは北の畑のほうの話だったはずだ。


 奥の森へは木ノ実を採りに行くだけじゃないの? 狼が出るなんて聞いてないよ。どうしよう……そんなのどうすればいいのか知らない……。


 目の前が少し暗くなった気がするくらい、怖い気持ちが膨れ上がってきてた。気づかないうちに手が震えちゃったのか、持ってたコップが小さくカチンと鳴った。そしたらそこへブルーノが慌てて割って入ってくる。


「やめろよダニロ、あの森で狼なんて見たことないだろう。ミルコ、大丈夫。大丈夫だよ」


 ブルーノが優しい声でそういいながら僕の背中を撫でてくれる。母さんも少し慌てて、でも優しく宥めてくれた。


「大丈夫よミルコ。レオンがきちんと管理してるから、この季節にあの森に狼なんか出ないわ」


 それを聞いた僕はホッとして、不意に体が軽くなった気がしたくらい安心した。同時に怖がってた自分が急に恥ずかしくなった。ダニロはニヤニヤ笑ったままだ。


「なんだよダニロ! ふざけないでよ!」

「なに言ってんだよ。きちんと心構えしてる方がいいだろ? 僕はミルコのことを思って言ってるんだよ」


 口の達者なダニロはいつも僕をからかうけど、いつもは優しいからまんまと騙されちゃう。母さんとブルーノがなだめてくれるのが余計に悔しくて恥ずかしかった。いっそ父さんみたいに笑ってくれてるほうが気が楽だ。父さんは僕が何かに怖がっておどおどし始めると、決まって笑い始める。まるでそうすることで僕の怖がる気持ちを吹き飛ばそうとしてるみたいに、豪快に笑い飛ばす。そしてあんまり父さんが笑い続けるから、なんだか結局どうでもよくなってくんだ。そんな感じで、今日もいつもの賑やかな朝だった。


「いってきます」


 父さんが母さんに頬を寄せてから、ブルーノとダニロを連れて3人で出かけてく。3人とも父さんの勤め先の鉱石加工場かその付近で働いてる。班長をしてる父さんに合わせて早い時間に出てくんだ。


「いってらっしゃい」


 父さんたちを見送ると、ぼくは水を汲みにいく。少し前までダニロの役目だったけど、ダニロが見習いに出るようになってからはぼくがその役目を引き継いだ。ぼくはダニロみたいに一度にたくさん運べないから、何往復もしないといけない。それでも体の弱かったぼくが水汲みをできるようになっただけで父さんは大喜びしてたし、最初に役目をこなした日には母さんが泣いてた。


「ミルコはいつも一つずつとできるようになっていくよね」


 そう言って母さんはよくぼくを褒めてくれてた。ぼくが何をするにも人より時間がかかるのを、そうやって励ましてくれるんだ。だからぼくはこれまで、たとえすぐにはできなくても、できるようになるまで「こつこつ」と頑張れた。ぼくはみんなに心配をかけながら育ってきた、といつも感じながら暮らしてる。

 何度も階段を上り下りして水を汲み終わった頃、テオドーアが顔を出した。


「おはようミルコ。もう行ける?」


 行けない。いま水汲みしたばっかりだから。


 と答えたくても息が切れてて返事もできなかった。体が強くなったと言っても、水汲みするだけでこんな調子だ。なかなかダニロみたいにはいかない。


「おはようテオ」


 母さんが代わりに答えてくれる。


「おはようマーレ」

「少し休んだら出掛けられるわ。井戸端で待ってて」

「うん、わかったよ。じゃあミルコ、下で待ってるね」


 そう言ってテオドーアはトタトタと軽やかに階段を降りていった。クァトロたちは背が高いのにとても軽快に動く。すぐに息が切れちゃうぼくには、それがとても羨ましかった。

 少し休憩してから、母さんと一緒に自宅を出る。そのまま向かいの扉を叩いた。すぐにニーナおばさんが顔を出す。


「おはようニーナおばさん」

「おはようミルコ」


 ニーナおばさんは父さんの妹だ。バシリーおじさんとぼくの従姉いとこのアルマと、親子3人で一緒に住んでる。バシリーおじさんは体が悪くていつも家で内職をしてる。アルマはダニロより歳が上で、母さんが働いてる籠づくりの工房で見習いをしてる。


「おはようニーナ。留守をお願いね」

「おはようマーレ。アルマをお願いね」


 母さんとニーナおばさんのいつものやりとりを眺めてると、アルマが出てきた。


「おはようミルコ」


 アルマはぼくにとって母さん以外では一番身近な女の人だ。優しくて柔らかくて、母さんと同じ作りたての新しい籠の匂いがする。森に出られるようになる前は、いつもアルマに遊んでもらってた気がする。そのアルマが優しい笑顔であいさつしてくれると、ぼくはそれだけで嬉しい気持ちになってアルマにあいさつを返した。


「おはようアルマ」


 ニーナと出掛けのあいさつを済ましたアルマは、ぼくと手を繋いで一緒に階段を降りてくれる。朝、こうしてアルマと一緒に階段を降りてく時間も、ぼくの大好きなもののひとつだった。

 外へ出ると、街区の脇の井戸端にはテオドーアと何人かの子どもたちがもう集まってた。


「じゃあね、ミルコ」


 アルマが手を離してぼくを送り出す。


「気をつけてね。あとで奥の森のことを教えてね」


 そう言った母さんと、アルマが並んで手を振ってくれる。その後ろの街区には夏の日が射し始めてた。今日はきっと、森の木陰は風が吹いて気持がちいいだろうな。


「うん、いってきます」


 そう言ってぼくはテオドーアのところへ駆けてく。


 さあ、今日はいよいよ初めての奥の森だ!

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