006 マーレの愛情 後

 市場から頑張って歩いて帰ってきたミルコは家に着くなり眠ってしまった。


「(家まで頑張ってくれたね。いい子だったねー)」


 マーレはそう小声で褒めると、寝室にミルコを寝かせてやる。居間に戻って、暖炉も兼ねたかまどに小さな熾火おきびをつくる。竈は寝室の壁側にあって、多少は寝室も温めてくれるのだ。

 疲れて重くなった腕をさすりながら手早く炊事の支度をすると、水桶を持って井戸端へ降りていった。


「こんにちは」


 マーレが井戸端へ顔を出すと、女たちが集まっていた。井戸端ではだいたい朝と午後に女たちが集まる。朝は前日の夕食の食器洗いと洗濯。午後は朝食と昼食の食器洗いと、夕食の準備だ。


「こんにちは」

「こんにちは、マーレ」


 顔見知りの女たちがあいさつを返してくれる。

 街中には2〜3街区に一つずつ井戸があるほか、およそ10街区ごとに沐浴できる水場があった。マーレの住んでる街区はちょうど井戸のすぐ脇だった。


「今週は森の曜日にお休みできたんだね」


 年配のドリスが話しかけてくれる。マーレと街区の住人だ。姉御肌なところがあり、みんなに慕われていた。


「そうなの、今週は森の曜日の市に行きたかったから、助かったわ」


 マーレは籠職人として働いている。腕が良く、内職ではなく一つ内側の城壁の中まで働きに出ているのだ。もしオリバーが日雇い人夫のままだったなら、おそらくマーレのほうが稼ぎが良かったくらいだろう。そういった家庭状況も、平民の街では隠しようのない共有の情報だ。


「ミルコも外出できたからふたりで行ってきたわ」

「あらー、よかったじゃない。ミルコ降りてこないの?」

「さっき寝ちゃったの」


 話しながら水桶に水を汲む。

 マーレの住む街区は、都市の中でも川の上流側にあたる。井戸水も綺麗で清潔を保ちやすい。それがマーレにとって嬉しかった。


「よいしょっと」


 あいさつもせずに立ち上がると、水桶を持って家に戻る。作業の初めに水を汲むのが普通の段取りだった。みんなの話に加わるのはそのあとだ。洗顔や体を拭く水はブルーノが汲んでくれる。でも汚れて帰ってくるだろう次男のダニロのために、多めに水を汲んでおきたかった。


 最近は泥んこになって帰ってくるからな。


 自宅まで3回水を汲み上げてから、水桶と小さな盥、それに食材を持ってまた井戸端に戻ってくる。盥に水を汲むと、女たちの輪の中に入る。


「ここいいかなー」

「いいよー」

「どうぞー」


 ドリスと、若いエラの間に入れてもらって、今日使う分の食材を洗いはじめた。

 エムスラントでは平民の住戸にも排水がある。だから住戸で食材を洗うこともできる。それでも排水管が詰まってしまわないように土汚れは井戸端で洗ってしまうのだ。ついでに多少の下ごしらえもする。

 竹で編んだざるの上にいくつかの根菜と、青菜が載っている。根菜は土色の球形もの、橙色の錐形のもの、黒に近い細長い棒状のものなど。

 根菜の土を落としていくついでに、細かいひげ状の根をむしり取っていく。棒状のものは土を落としたあとは水に浸けておく。水桶の中に入るように、自宅であらかじめ切ってあった。

 根菜の処理を終えると青菜を一枚ずつ剥がしながら洗っていく。根元に少しぬめりがあるのを、しっかりと落としていく。

 マーレの手際を横目で見ながら、ドリスが訊いてきた。


「いい買い物だったかい?」


 市場に行けばいつも欲しいものがあるとは限らない。マーレのように働きに出ている女は、買いものの運不運は切実な問題だった。


「ええ。今日はキノコが買えたからねー」

「オリバーが好きなやつだね」

「ええー、いいなぁ。今日買い物行かなかったのよー」


 エラが嘆いて声を上げる。ここでは毎日買い物に行くわけではないのだ。


「あんたは大きな市の時はいつも行かないからね」

「だって混み合ってて嫌なんだもん」


 マーレはいろんな食材を買って家族に食べさせたいので、できるだけ大きな市に行きたがった。一方で、内職などをしていつも家にいる女は買い物に行く日も選びやすい。混み合っている曜日は避けて、空いている曜日に買い物に行くことも多かった。とくにエラは妊娠中で人混みは避けたいのだ。


「行ってこようかなぁ」

「今からかい? もう遅いよ」

「細々としたものも欲しいのよね。この冬は買い物に出られないし」


 エラはこの冬の半ばには臨月を迎える。産後の子どもの世話もあるので、この冬は外出できない。冬の買い物は近所の女たちが代わりにやってくれる。


「店が閉まっちゃうよ。今日はもう諦めな」

「明日でも大丈夫よ、エラ。けっこう量があったからきっと残ってるって」

「そっか。じゃあ明日でいいや」


 お腹をさすりながらエラが言う。その様子をマーレがぼんやりと見つめる。

 そんなマーレをみながら、ドリスが言った。


「マーレ、次はどうするの?」


 子どものことだ。


「……再来年かなぁ。ダニロが見習いに出ないとね。いま私が働けなくなったら困るもの」


 平民は出来るだけ多く子どもを産む。早ければ16歳から、体が丈夫なら6〜7人の兄弟姉妹というのが普通だった。

 ところが、マーレは27歳になってまだ男の子3人を産んだだけだった。平民の常識からするともう少し産みたいところだ。


「そう……でも早めにしないと心配ね」

「それはそうなんだけどねー……」


 長男のブルーノを産んでからもう9年だ。あと2年もすれば産むのは30歳になってしまう。それ以降は安全に出産できないと考えられていた。何年か前には隣の街区で、33歳で出産した母親が産後の肥立ちが悪く亡くなっていた。


「ま、つくるとなったらマーレは大丈夫でしょう」

「ね。いいなぁ、オリバー」


 オリバーがマーレを溺愛していることは近所では有名だった。


「ちょっと! やめてよ、お腹おっきくした人がなに言ってるの」


 顔を赤らめてマーレがエラに言い返すと、少しの間、互いの夫婦の話で盛り上がる。かしましい女たちの笑い声が井戸端を満たした。


「よし、私はこれでおしまい」


 井戸端の作業を終えたドリスが立ち上がる。


「じゃあね。よい午後であらんことを」

「よい午後であらんことを」

「ええ、おたがいに」


 ドリスは食材と水桶を持って自宅へ戻っていった。




 しばらくエラとふたりで世間話をしながら作業をしていると、ふとエラが顔を上げて言った。


「やあ、ニーナ」


 オリバーの妹のニーナが降りてきたところだった。


「こんにちは、ニーナ」

「こんにちはマーレ。おかげで今日はゆっくり買い物ができたわ」


 マーレが働きに出ている間、ニーナにはいつもミルコを見てもらっているのだ。


「なに言ってるのよ。いつも助かってるのはこっちよ」

「それこそ、助けてもらってるのはこっちよ。楽させてもらってるわ」


 ニーナは度々こうしてマーレに感謝の言葉を口にした。

 実はオリバーとマーレなら、本来はもう一段良い暮らしもできるはずだった。それが城壁間際の上階暮らしで留まっているのは、ニーナとその家族を支えるためだ。


「バシリーが、今週の分はもう終わったって」


 ニーナの夫のバシリーは、魔石を選別する内職をしている。オリバーの工場の仕事だ。貴重な魔石を内職に出せるのはオリバーとバシリーが信頼されているからでもある。


「もう? 調子いいみたいね」

「そうなの。実は先月くらいから少しよく動けるようになったみたい」


 鉱夫だったニーナの夫のバシリーは、落盤事故に巻き込まれて外へ出て働くことができなくなってしまった。何人も亡くなった大きな事故だったが、バシリーは死ななかった。


「へぇ、よかったじゃない。そんなこともあるのね」


 エラが驚いて話に入ってくる。仕事に支障をきたすほどの体の不具合が改善するということは、通常は考えられなかった。医療技術はそこまで発達していないのだ。


「ええ。家の中の雰囲気まで以前より明るい気がするわ。オリバーのおかげよ」


 ニーナがマーレに言う。普通ならマーレのおかげと言いたいところだったが、オリバーのおかげと言った方がマーレが喜ぶ。ニーナはそれを知っていた。


「ニーナ。きっともっと良くなるわ」

「そうね。そう思う」


 マーレがニーナの手をとって励ます言葉に、ニーナが答えて言った。


 よかった。オリバーのおかげね。


 マーレはオリバーの努力を思って少し胸が熱くなった。

 もしバシリーが亡くなっていたなら、ニーナは他に夫を得てもっと楽に暮らしただろう。ニーナが薄情なわけではない。平民の暮らしは残酷で、夫が死んでしまったら残された家族はとても生きていけない。未亡人のまま子どもを育てるなど、とてもできることではないのだ。だから生活のために、普通はすぐに新しい伴侶を得る。

 ところがバシリーは生き残った。。その結果、夫は一人前の働きができず、子どもはまだ幼く、妻は働きに出られない、という状況になってしまった。平民なら誰しも、死ぬより辛い一家の将来を連想するところだ。バシリーの実家が支えられれば良かったのだろうが、残念ながらそんな余裕はなかった。そしてそのことを誰も責められない。それくらい平民の生活は苦しい。

 誰もが不憫に思いながらも、誰も手を差し伸べられない。そんなニーナの一家をオリバーが引き取った。二つ並びで空いている家を見つけて、自分の家族も一緒に隣に引っ越して生活を始めた。マーレも不平一つ言わずこの生活を支えた。このことが、オリバーが近所で頼られ、尊敬されている最大の理由だ。同じ理由で、マーレも近所でとても愛されていた。


「じゃあ、次のネタを持って来させないとね」

「ええ、伝えておいて」


 内職のための魔石はオリバーが運んできていたが、最近はブルーノの役目だ。


「バシリーがね、ブルーノがたまに話し相手になってくれて楽しそうにしてるのよ」

「見習いももうすぐ3年になるからねー。仕事のこともだいぶ分かってきたのかな」


 頼もしくなり始めた息子の話題に、目を細めてマーレが答える。


「ブルーノ、かっこよくなりそうだよねぇ。うちの上の娘もらってくれないかなぁ。ちょっと歳が離れすぎかなぁ」


 エラがブルーノの話題に乗ってくる。


「オリバーが工場で出世するかもしれないからねー。工場街で探すんじゃないかな」

「えー、なにここで夫自慢追加してくるの?」

「ねえ! ブルーノ工場街から娶るの? 通いのままでいいじゃない」


 少し離れたところからも声が掛かる。そこから井戸端は子どもたちの将来の話でひとしきり盛り上がった。




 自宅に戻るとまだミルコは寝ていた。起こさないようにそっとおでこに手を当てる。


 ちょっとだけ熱いかな? でも息も静かだし、丈夫になったねー。


 そっと扉を閉めて居間に戻る。炊事を始める前に竃の脇の祠に小さく祈りを捧げる。


「夏の神よ」


 まずぬるま湯をつくってキノコを入れ、土汚れを取りやすいようにしばらく浸けておく。このキノコはこの作業があるので井戸端では処理できないのだ。


 せっかくのキノコだからね。美味しく作らないとねー。


 2種類の豆を別々に煮ながら、根菜と青菜を切っていく。白豆はあとで潰して根菜の一部と和え物にする。赤豆を一緒に和えるのがマーレ流だが、まだ赤豆が苦手なダニロとミルコのために、赤豆を会えるのは最後だ。


 ダニロがまだお子ちゃまだからね。もたもたしてるとミルコに抜かされるよー。


 頭の中で子どもたちを揶揄いながら炊事を続けていく。

 暖房がわりに竃を焚いているので、お湯は常に使える。でも必要がない限り水は冷たいまま使う。その方が食材も美味しく仕上がるのだ。徐々に寒さが厳しくなってきているけど、今年はまだ両手とも赤切れしてない。


 ミルコが起きる前に麦茶をつくっておかなきゃね。


 ブルーノが美味しい麦茶のコツを教えてくれてから、ダニロもミルコもよくお茶を飲むようになった。森番のレオンのおかげだ。

 そうこうしているうちに、そろそろダニロが森から戻って来る時間になる。


 お湯を沸かしてあげないと、きっと手も足もかじかんでるよね。


 ミルコもそろそろ起きるだろう。寝室の気配に耳をそばだてながら、マーレは家族の帰りを迎える支度を続けた。

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