005 マーレの愛情 前
食卓の前に座った幼いミルコのおでこと首筋を何度も触る。触って、熱が出ていないか確認するのは、朝からもう三度目だ。ミルコが心配そうな顔で、マーレをじっと見つめている。
「だいじょうぶ?」
「……ええ、大丈夫そうね」
「おかいもの?」
「ええ、一緒に行こうね」
「うん!」
弾けるような笑顔を見て、マーレも嬉しくなる。
よかった。いつもお家の中じゃつまんないよね。
生まれた直後から、日中は義妹のニーナに預けっぱなしになっていたミルコを、マーレは
「さあ、出かけるんだから朝ごはんもしっかり食べてね」
「うん」
木の器に入った麦の粥を前に、ミルコが手を合わせる。すでに朝食を済ませているマーレも、一緒に手を合わせた。
「いただきます」
声をあわせて短く祈る。合わせた両手を肩の幅まで開きながら手のひらを上に向ける。そのまま顔の高さまで戴きあげるところまでが祈りのやり方だ。
ミルコが木のスプーンで、少しこぼしながら粥を食べ始める。マーレは時々手を添えて助けながら、ミルコの食事を見守った。
「天、地、夏、冬、森、人、安」
「天、地、夏、冬、森、人、安」
ミルコの手を引きながら、一緒に曜日の呼び方を声に出して歩く。
「きょうはなに?」
「今日は森の曜日よ」
森の曜日には、いつもより少し大きめの
買い物の前に、いま向かっているのは街区の教会だ。ミルコを連れてお参りする。
一般に教会へのお参りは季節ごとにする。それ以外は気が向いた時に各々が行うのがこの地域の習慣だった。マーレは買い物に出るたびに必ずお参りするようにしていた。家族の健康と安全を願うのだ。
「はい、一緒にお手てを合わせてね」
「うん」
ミルコが少しだけ真剣な顔で手を合わせる。その可愛らしい様子に頬を緩めながら、マーレはミルコにも聞こえるようにお祈りをする。
「世界に遍く満ち満ちたる 力の源である神々よ 我の願いを聞こし召さらば 我が家に平安を与え給え」
祈りが終わるのに合わせて、両手をひろげて戴きあげる。ミルコも同じように手を上げて「できたよ」といった表情でマーレを見上げた。
お参りが終わると、マーレはミルコの手を引いて教会の中を歩きだす。壁に飾られた絵を一緒に見ながらゆっくりと巡る。壁の絵の一つひとつを質問していくのがミルコのお気に入りの時間だった。
「これは?」
ミルコが、黄色が基調になった男神の絵を指差す。
「これは天空の神さま。お空と光を司る神さまよ」
その隣の、青が基調になった女神の絵を指差す。
「これは?」
「大地の神さま。大地と風を司る神さまよ」
教会の中を歩きながら、天空の神、大地の神、夏の神、冬の神、森林の神、人々の神の六柱の大神の絵を見ていく。教会の絵とそれにまつわる物語は、エムスラントでは絵本がわりのようなものだった。どこの家庭でも小さな子どものためにこうして話して聞かせる。平民にとっては、教育と呼べる数少ない機会だと言える。
「さあ、そろそろいきましょう」
「うん」
教会の中をふた巡りしたところで切り上げる。
ミルコは素直で助かるわ。お母さん想いだね。
素直に聞き分けたミルコを連れ、教会を出て市場に向かった。
教会から市場までの道中は抱っこしてあげる。荷物が増える帰り道はミルコに歩いてもらわないといけない。疲れて寝てしまわないためにここは体力を温存させてあげる。
「白は?」
「なつのかみさま!」
「黒は?」
「ふゆのかみさま!」
市場に向かう道すがら、神々や神話について問答をする。職業ごとに常識の違う平民たちにとって、教養といえば神々や神話、祈りのことだった。各家庭で本を持てるわけでもなく、こうして教会に通って、親から子へ口で伝えていくのだ。
「緑は?」
「しんりんのかみさま!」
「赤は?」
「ひとびとのかみさま!」
ミルコは六柱の大神についてはもうほぼ覚えていた。近ごろマーレが新たに教えているのは、暦についてだ。
「じゃあ、今の季節は?」
「あき!」
「秋を司る神さまは?」
「……てんくうのかみさま?」
「そう! すごいねぇ。もう覚えたね」
子どもたちが森に出たりするだけでも暦の知識は必要だ。休みの日、市の立つ日、年越し、お祭りなど、暦の常識は街で暮らすのに欠かせない。
「一週間は何日?」
「なのかー」
「一月は何週間?」
「よんしゅうかんといちにちー」
「一季節は何ヶ月?」
「さんかげつー」
ミルコは元気に答えているが、まだよく解っていないだろう。子どもたちは繰り返し音で暦を覚えていく。
「一年は何季節?」
「よんきせつといちにちー」
「一年は全部で何日?」
「さんびゃくよんじゅうはちにちー」
まだ大きな数は数えられないミルコだが、一年が「さんびゃくよんじゅうはちにち」であるという音だけはもう覚えている。しばらくすれば、それが「348日」であると気付くだろう。
マーレは暦を教える以外にも、いくつも神々にまつわる物語を話して聞かせた。昔話や寝物語はだいたい神々に絡んだものだ。
ミルコのお気に入りは魔法騎士が活躍する騎士団の物語と、聖女の伝説。ミルコに限らず、子どもたちにとって人気の、定番の昔話だった。騎士団が魔物を倒したり、聖女が現れて世界が平和になる
市場前の広場に着いたところで、マーレは抱っこしていたミルコを下ろす。広場から南東の方向に緩い坂を下っていくかたちで市場通りが伸びていてる。
マーレはしゃがんでミルコの目を見つめる。
「離れちゃダメよ」
「うん」
「荷物が増えたらお母さんの服を持っているのよ」
「うん」
しっかり言い聞かせると、立ち上がってミルコの手を引き、緩い坂を下り始めた。
平民の買い物は通常、市場で行う。各街区ごとに市場があって、住民の日々の糧を提供している。この地区の市場はそれほど大きくないが、日々に必要なものは揃っている。マーレも日常の買い物はいつもここで済ませていた。
「お買い物ー」
「おかいものー」
ふたりでつないだ手を揺らしながら市場通りを下っていく。
天気が良くて、あったかくて。今日はきもちいいなー。
マーレはミルコとふたりで買い物ができることがうれしく、少しふざけながら神に感謝する。
「大地のー、神よー」
「だいちのー、かみよー」
道ゆく大人たちが優しくふたりを見守っている。
焼けた生成り色の天幕の下には色鮮やかな様々な商品が並ぶ。中心の通りでは、野菜や果物、香辛料、籠や箱などの日用品、調理器具などが売られている。肉や魚などにおいの強い食材は、枝分かれした先の路地や、裏通りなどで売られていた。
「こんにちは」
「いらっしゃい。いつもと一緒でいいかい?」
年配の女性の店に声を掛ける。よく買う品はいつも同じ店を使うことが多かった。そうすることで、お祭りの前などまとめ買いをするときにツケ払いで買えるのだ。
「今日は青菜はいらないわ」
「あいよ。……1オード半でいいよ」
「ありがとう」
数を数えられるようになってきたミルコにお金を見せてあげながら買い物をする。といっても銀貨のレブリスは持っていないので銅貨のオード、銭貨のエンスだけしか見せてあげられない。
マーレは両手に硬貨を乗せて、必要な分をミルコに取ってもらう。
「オードを1枚取ってね」
「これと……これ」
「そう。あと半分は?」
「これを……じゅう?」
「12枚よ」
「……きゅう、じゅう、じゅういち、じゅうに!」
店の女性も笑顔で待っていてくれる。平民の子どもは街全体で育てるのだ。子どもがもたついたからといって嫌そうにする平民など、この街にはいなかった。
そんな感じでのんびりと店を回っていく。山菜を売っている店では、香りのするキノコを買うことができた。
今年もキノコが買えてよかった。
マーレはさらに少し良い気分になっていた。夫のオリバーは秋の収穫期に獲れるこのキノコが好きなのだ。豊富に獲れた年は、貴族に納品できない形の悪いものが平民の市場にも出回る。年に一度は食べさせてあげたいと思っているから、買えたことが嬉しかった。
「脇道に入りまーす」
「はいりまーす」
通りの中程で、肉屋の路地に入っていっく。育ち盛りのブルーノとダニロのために鳥肉を買って帰ってあげたかったのだ。
んー。もうちょっと安いと思ったけどなー。買えないなー。
北から渡り鳥がやってくる季節だったが、鳥肉はまだあまり出回っていなかった。マーレには高くて手が出ない。
んー。香草あったし、白豆を買って香草を効かせた和え物をつくってあげようかな。
鳥肉はあきらめて、豆屋に戻って買い足すことにした。
「通りに戻りまーす」
「もどりまーす」
ミルコが飽きないように、声を掛けながら歩く。
「大地のー、神よー」
「だいちのー、かみよー」
いくつも店を回り、ミルコと一緒にお金を数えながら買い物をしていく。一通り市場を巡ったときには、両手は荷物でいっぱいだった。
ミルコはマーレの服を掴んでついてきている。
「ミルコ。月の市にも行くからね」
「うん」
「離れないでついてきてね」
「うん」
毎月一度、「月の市」と呼ばれる大きな市の立つ広場がある。その広場には別に正式な名前があるのだが、平民の間で「月の市」と言えばその広場そのものを意味した。普段、月の市が立たない日でも、行商人などがまばらに店を広げている。
「おお、ずいぶん大きくなったねぇ」
広場に出てすぐのところで、不意に声をかけられた。振り向くと、帽子をかぶった白髪の行商人がいる。
「アードリアン。こんにちは」
「ああ、こんにちは」
長く行商人をしているアードリアンは、国中の様々な珍しい品を扱っていた。中には何に役立つかよくわからない、不思議なものもあった。
「ほら、少し遊んでいきなされ」
指し示した腰掛けにマーレが腰を下ろすと、ミルコが品物に駆け寄った。
「少しだけだからね」
「うん!」
こうして子どもたちに売り物を触らせてくれるのがアードリアンのやり方だった。触っているうちにたまに壊れてしまうことがあっても、買取を迫られたという話は聞かない。子どもを連れた買い物客にとって、アードリアンの店は休憩所のような扱いだった。
ああ……ありがたいわ。今日は本当にいい一日ね。
マーレが体を休めながらミルコを見守っていると、アードリアンが話しかけてきた。
「先日、上の子とお茶を飲んだよ」
「……ブルーノですか?」
「おお、そうじゃった。ブルーノといったかの」
「森番小屋ですね」
「ああ、そうじゃ」
ブルーノがたまに森番のレオンとお茶を飲んでいるのは聞いている。小さい頃はあまりお茶を飲まなかったのに、近ごろは家でもオリバーやマーレと一緒にお茶を飲むようになっていた。
城内から工場街まで通っている見習いは少ない。アードリアンにも、オリバーやブルーノとその家族として覚えられていたのだろう。
「あの子は幾つになるかの?」
「9つです。春には10になります」
「なんと、まだ9つか。それにしては立派な体格をしておるの」
ブルーノはオリバーに似て体格が良かった。
「この子は幾つになるかの?」
「この夏に4つになりました」
「なんと、そりゃまた、ちと小さいのお」
ミルコは逆に体が小さかった。小さいだけでなく、虚弱でよく病気をした。
「小さいが、いい目をしておる。聡い子になるじゃろうの」
「……ありがとうございます」
お世辞とも本気ともつかないが、褒められてマーレは嬉しく思った。
「どれ、これはどうだ。きれいだろう?」
アードリアンは、透明の綺麗な石が嵌め込まれた小さな真四角の木の置物を手にすると、ミルコに手渡した。
「わぁ……」
ミルコは手渡された置物を、空に向かって透かしたり回したりして、石を透過する光を見て声をあげた。
「どうじゃ、綺麗じゃろう」
「うん。きらきらしてる!」
アードリアンはしばらくじっとミルコの様子を見ていたが、つと視線を逸らすと、また別の親子に声をかけた。
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