003 ブルーノの怒り 前

 しんしんと冷え込んだ空気が朝の寝室を満たしていた。優しく体を揺らす振動に、ブルーノは重い瞼をなんとか持ち上げる。


「ブルーノ、朝よ。起きなさい」


 まだ小さな2人の弟を起こさないように、静かに母のマーレが起こしてくれる。


「……ん、……ん、起きた。起きたよ」


 7歳になったばかりのブルーノは、誰かに起こしてもらわないとまだ自分では早い時間に起きられない。もぞもぞと毛布の中でまどろんでいるとマーレは居間に戻ってしまった。


 ああ、起きなきゃ。寒いなぁ……毛布から出て居間まで行くのが寒いんだよね……


 暦の上では春になっていたが、今朝はことさら冷え込んでいた。少し時間をかけてようやく目を覚ましたブルーノは、毛布を飛び出してぶるんと大きく身震いすると既に温っている居間に急いで移動した。


「……おはよう父さん」

「おはようブルーノ」


 マーレも父のオリバーも、ずっと起きていたかのようにシャキッとして朝の支度をしていた。


「さあ。顔を洗って、口もゆすいでね」

「……はい」


 マーレが手ぬぐいを渡しながら、まだ眠そうにしているブルーノを水瓶の方へ押しやる。手洗い用の水瓶の水は、氷のように冷えきっていた。


「うひゃー! つめたい!」

「はっはっは! 毎日叫んでるな」

「だって冷たいんだもん」


 朝の洗顔とうがいは一日の始まりの儀式だ。3階まで水を汲み上げるのも一苦労なので、夏ならば井戸端まで降りて行って近所のみんなとも顔を合わせながら顔を洗う。だが今はまだ寒いので、毎日井戸から汲み上げて手洗い用の水瓶をいっぱいにしてあった。この水の汲み上げもこの冬からブルーノの役割になったものの一つだ。


「さあ、朝ごはんの前に着替えてしまいなさい」

「うう……また寒い部屋に戻るのやだなぁ」

「だから起きてすぐに着替えればいいのに」

「まぁ、そうなんだけどさ……」


 ほとんど恒例となったやりとりの後で、朝食をとる。朝食といっても重湯に近い粥に、わずかに山菜の入ったものだ。水分補給と、冬は体を温めることを目的にしたもので腹がふくれるような量ではない。


「じゃあ、先に行ってるぞ」


 オリバーが立ち上がってマーレに頬を寄せながら言った。

 オリバーの職場、鉱石加工場は大人の足で半刻ほど歩いた工場街にある。やや遠いことと班長であることもあって、オリバーは夜明けすぎには出かけなければならない。


「いってらっしゃい、オリバー」

「いってらっしゃい! またあとでね」


 ブルーノはオリバーの作業場で見習いをしているので、後でまた顔をあわせるのだ。

 オリバーは見送りの言葉に笑顔で答えると、温まった居間の空気をできるだけ逃さないようにするりと扉を抜けて出掛けていった。




 ブルーノにとって父のオリバーは憧れであり、尊敬の対象だった。

 体が大きく体力があるオリバーは、子どもの目から見て単純に頼れる強い父親像そのものだった。身近な親類や近所の人たちから頼られて、何かと相談をうけたり意見を聞かれたりしている様子もよく目にした。

 また仕事の面でも責任感が強く実直な性格で、雇い主の信頼を得て鉱石加工場の班長になっていた。日雇い人夫が班長にまで取り上げられることはなかなかない。まだ見習いのブルーノは、その価値を正しく理解しているわけではなかったが、なにより周りの大人たちに信頼されている様子を感じて父のことを誇らしく思っていた。


「さあ、おしめと手ぬぐいを持ってね」


 オリバーが出かけて半刻ちかく経っている。支度を済ませたマーレがブルーノに声をかけた。


「うん、大丈夫。ほら、ダニロは自分で歩いてよ」

「……ん」


 遅れて起きてきた弟のダニロはまだ眠気まなこだ。

 火の始末をするマーレを待って、2人の弟と共に4人で一緒に家を出る。まずはすぐ真向かいの扉が目的地だ。そこにはオリバーの妹、ニーナの一家が住んでいた。


「おはようニーナ。今日もよろしくね」

「おはようマーレ。もちろんよ、安心して預けてちょうだいね」


 マーレが下の弟のミルコをニーナに渡す。体の弱いミルコは、1歳をとっくに過ぎているのにまだ歩くことができなかった。

 ブルーノはおしめと手ぬぐいを抱えて、上の弟のダニロをつれて一旦ニーナの家の中へ入っていった。


「ブルーノ!」


 まだ荷物を抱えているブルーノに従妹のアルマが抱きついてきた。


「ブルーノ、今日はあそぶの?」


 期待に目をキラキラさせながらアルマが問いかけてくる。隣でダニロも「ほんと? あそぶの?」といった感じの表情で振り返る。


「ううん、今日も仕事だよ」

「ええー、つまんなーい! あそびたい!」

「ええー、あそびたい!」


 アルマにつられて眠さで大人しくしていたダニロも駄々をこね始めてしまった。


「ダメだよ、もうぼく見習いなんだって言ったじゃん。頑張って働いて母さんを少しでも休ませないといけないんだよ」


 うん、僕はもう見習いだからね!


 ブルーノは大人ぶって、いつもオリバーに言われている台詞で2人を諭す。本人はいたって真面目なのだがマーレやニーナからは可愛いおままごとのように見えて微笑ましい。真面目で大人しいブルーノが恥ずかしがりながら母を気遣う様子は、母親たちにとって朝の清涼剤のようなものだった。


「さあアルマ、ブルーノを困らせちゃダメよ。ダニロも」


 ブルーノの荷物を受け取りながらニーナが窘めるが、アルマは口を尖らせてそれでも離れない。ブルーノはぎゅっとアルマを抱きしめると、ちょっとだけ抱き上げてぶらんぶらんと揺する。しばらくそうしてから手を離すと、ようやくアルマは手を離し、代わりにダニロに抱きついた。


「まったくもう……。さ、じゃあいってらっしゃい」

「いってきます、お願いね」

「じゃあねみんな、いってきます」


 マーレと一緒に部屋を出て階段を降りる。建物の外に出ると晴れてキンと冷えた空を見上げる。白い息をほうほうと吐いて遊びながら、ブルーノはマーレに手を引かれて歩きだした。

 母のマーレも籠職人として働いている。腕が良く、内職ではなく一つ内側の城壁内まで働きに出ているのだ。もしオリバーが日雇い人夫のままだったなら、おそらくマーレのほうが稼ぎが良かったくらいだろう。


「雪、積もっちゃったね」

「うん。でも積もるとかえって寒くないよね」


 立春を過ぎて寒さが緩む頃なのだが、昨夜の冷え込みで冬の名残の雪が城塞内にも積もっていた。


「足元、大丈夫かな。工場街まで」

「大丈夫だよ、この冬ずっと通ってたんだから」

「そっか。そうだね」


 見習いに出始めてしばらく経っているのに、マーレは毎日心配そうにしていた。マーレは少しだけ遠回りして外側の城壁の旧い東門まで一緒に歩くと「じゃあね、気をつけて」と言ってブルーノを見送る。


「いってきます」


 門で手を振るのって恥ずかしいんだよな……。


 ブルーノは少し恥ずかしそうに手を振ると、門を出て門外の坂を下っていった。




 旧い東門を出てすぐの「東城下」と呼ばれる地区は、鉱業と林業の街だ。東城下自体はそれほど広くないが、その先の森と山々を広く含んで「城東しろひがし」などと総称したりする場合は、かなり広い地区を指すことになる。

 ブルーノの住む地区とその外側の東城下は、城壁を挟んではいるが実質ひとつの街のようなものだった。エムスラントでは概ね6歳までの子どもたちは、外に出歩けるようになったときから家の手伝いをする。そしてこのあたりの子どもたちは大抵、森の浅いところに入っていって木の実や着火用の細い薪を採ってくる。森は危険もあるので連れ立って行動するようにきつく言い聞かせられていた。だからこの地区を通り抜ける間は顔見知りに会うことも多い。


 誰かいるかな……


 見知った顔がないかと少しキョロキョロしながら坂を降りて行く。


「ブルーノ!」


 意外にも後ろから掛けられた声に振り返ると、屋根裏に住んでいるクァトロのテオドーアだった。


「おはよう!」

「おはよう、テオ。今日は付き添い?」

「うん、そう。付き添い」


 子どもたちが森に入るとき、可能な場合は手の空いた大人が付き添う。とは言っても「手の空いた大人」などそうそう居るものではない。そこで頻繁に呼ばれるのがクァトロたちだ。彼らは普段、街の清掃などの日雇い人夫をしている者が多い。欲の少ない彼らは低賃金の仕事でも不平なく請け負った。

 そんな彼らだから、わずかな駄賃でも喜んで子どもたちの付き添いを引き受けてくれるのだ。


「ブルーノが抜けたから、いつもの子たちの中に6歳のクィンクの子がいなくてね。最近はよく付いていってるんだよ」

「へぇ、知らなかった。そっか、いまはエルナがいるだけだもんね」


 子どもたちは通常、親同士が親戚だったり友達だったりする何人かの集団で行動する。ブルーノが居た集団には今、ブルーノと同じ5本指のクィンクでは5歳の女の子が最年長だった。


「じゃあ、気をつけてね。いってらっしゃい」

「うん、いってきます」


 挨拶を交わすと、テオドーアは街道から外れて路地の奥の方へ入っていった。

 門から伸びる街道沿いはブルーノが住んでいる地区と同じような2〜3階建ての木造の建物が並んでいる。街道から入ったいくつかの路地も同じような感じだ。だがそれ以外、街道から見えない裏側はぎっしりと平屋のあばら家が建ち並んでいる。ブルーノもつい最近までこの辺りのあばら家の間を縫うようにして駆け回って遊んでいた。


 いいな。暖かくなったらまた森に行きたいな。


 ほんのひと月半ほど前の自分の境遇を懐かしく思いながら、また街道を歩き始めた。

 ほどなく東城下を抜けて冬の名残の雪が積もった街道に出た。ここからオリバーの働く鉱石加工場までは大人の足で半刻ほど。ブルーノの足ならさらにもう四半刻ほどかかる道のりだ。街からすぐのところに森の端があり、街道はそこからずっと森の中を行くことになる。


「おはよう、ブルーノ」

「おはよう、レオン」


 森番の小屋を通り過ぎるときに、行商人と朝のお茶を楽しんでいる森番のレオンに声をかけられた。日雇い人夫などに混じって毎日工場街まで通うまだ幼いブルーノを、レオンは何かと気にかけてくれている。


 いい香りだな。


 ブルーノも家でマーレが淹れるお茶を飲むことがあるが、とくに美味しいと思ったことはない。でも森番小屋から漂ってくるお茶の香りはいつもとても美味しそうに思えた。


「おお、小さいのにここから工場街まで通いで見習いか?」


 行商人のおじいさんが驚いた顔で聞いてくる。レオンと一緒にお茶を飲んでる様子を何度も見かけたことがある。森に入る子どもたちにとっては見知った顔だ。


「はい」

「おお、いい返事じゃ。精進なされよ」


 オリバーは生真面目なマーレの影響もあって、この辺りの平民の子としては言葉遣いが丁寧な方だった。レオンが手を振って送り出してくれる。


「足元に気をつけるんだよ」

「はい」

「よい一日であらんことを」

「はい、おたがいに」


 こうして挨拶してくれる大人がいるというだけで、道中の心細さがぐっと減る。ブルーノは雪で滑らないように気をつけながら工場街へと向かっていった。

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