002 オリバーの決断 後

 夕飯のあと、オリバーは近所の行きつけの立ち飲み屋に向かった。夏は日が長いので夕暮れに少し時間の余裕がある日がある。そんな時は一度帰ったあとに軽く飲みに出るのが平民の男たちの楽しみだ。


「こんばんは、おかみさん」

「いらっしゃい、オリバー。なに飲む?」

「麦酒を。赤いほうね」


 恰幅の良い中年の女主人は客からおかみさんと呼ばれて親しまれている。燃えるような赤毛に白い肌と豊満な身体、おまけに明るい性格で若い頃は大層な人気だった。

 一般的に平民向けの店は全て払いだ。毎回やりとりするような量の硬貨は世間に流通していない。片や客は、店に勘定を任せているので信頼できない店には行かない。一方の店は、確実にツケを回収するために知らない客は迎えない。

 かつてはこの店の客だというだけで羨ましがられたものだったが……


 見る影もないな……


「なんか言ったかい?」


 麦酒を注ぎながらくいっと片眉を上げて睨まれる。


「んあっ……いや、何も言ってねえよ」

「……ふん。はいよ一杯」

「ありがとよ」


 おお、怖い怖い。


 カウンターで木の盃を受け取ると見知った顔を探して合流した。

 面倒見がよく兄貴肌のオリバーは普段なら話題の中心にいるのだが、最近はどこかそわそわしていて立ち飲み屋の仲間たちに揶揄からかわれたりしていた。つくえがわりの大きな樽を囲んで数人でとりとめのない話題を交わしていると、不意に頬をペシペシと叩かれたりする。


「ほーら、またオリバーの笑顔が引きつってるぜ。生まれるのはまだ三月みつきも先だろうがよ」

「うるさいな、引きつっちゃいないだろうが。そうやって揶揄いたいだけだろう」


 実のところ、オリバーは自分でも近ごろ落ち着きがないのを自覚していた。次男のダニロの前に二度流産を経験しているマーレの出産を控え、少し神経質になっているのかもしれない。

 カウンター内のおかみさんも気軽に割り込んでくる。


「もう! やめてやりなよ、あんたたち」

「いや、おかみさん。こいつ普通に話を振ってもぼうっとして聞いてないんだよ」

「そのまま放っておけばいいじゃないの」

「いやいや、それかえって可哀想だって」


 店内に笑い声が起きる。客の間ではこのやりとりも肴の一つになっているんだろう。正直、オリバーにとっても気分転換になっているのだから文句があるわけでもない。顔をしかめるオリバーに、また横から声が掛かかった。


「去年きちんと産んだばかりでしょ? 次も大丈夫だって」

「ああ、まあ、うん。そうなんだけどなぁ」


 もともと多産で子どもの生死にやや無頓着なクァトロが、あまり気遣いもせず気安く励ましてくる。少し繊細さに欠けるが周りの者もそれをとくに咎めたりしない。

 実際のところ、仲間たちはマーレの体が元々あまり強くないことも、以前に流産を繰り返したこともよく解っている。解っていてあえて軽く扱っているのだ。平民の気のおけない仲間同士だからこそ成り立つ励ましだった。


「心配したってしょうがないじゃん、大丈夫だいじょうぶ。どんどん産めばいいんだからさ、ウチみたいに」

「クァトロと一緒にすんなよ! そんなに産めねえっての」

「そう? イケるんじゃない? 10人くらい」


 すると、すかさずおかみさんが割り込んでくる。


「やめとくれよ! 聞くだけで足の間がスースーするよ!」

「うえええ! やめろよおかみさん! 酒がまずくなるじゃねえか!」

「なんだって? 出入り禁止にするよ?」


 賑やかな時間が心を軽くしてくれる。城下の街のこうした濃密な人間関係が、オリバーは好きだった。

 ほどほどに帰ってマーレを労ってやらないといけないな、とオリバーが考えているときだった。別の樽を囲んでいる壮年のクァトロが、縁起でもない話題を持ち出した。


「ワレリーんとこはしたみたいだね」


 悪気もなく無邪気に投げ込まれた言葉に、ふっ、と店の中の喧騒が小さくなる。


「……ワレリーって、裏の街区のか?」

「そうそう、石工の人」

「……そうか。返しちまったか……」

「うん、明後日が名付けの日だしね」


 その場にやや重い空気が流れる中、話題についていけない別の若いクァトロが不思議そうに壮年のクァトロに質問をした。


「返すってなにを?」

「魂だよ」

「誰に?」

「大地の神さま」

「ふーん……名付けの日になると何があるの?」

「えーとね……ん? なんでだっけ?」


 頭頂部の髪がツンツンと立ってるクァトロが2人揃って首を傾げてる様子は普段ならほのぼのとしているのだが、話題が重すぎていまはただ間抜けな印象しかない。見兼ねた世話好きな中年が質問の続きを引き受けて答えはじめた。


「子どもが生まれるとその月の最後の日に名付けをするだろう。名付けをすることで子どもの魂がこの世界に記録されると謂われてるんだよ」

「うん、それは知ってる」

「ああ、それでな。一旦記録された魂はな、死んでも親兄弟が生きている間は転生しないんだそうだ」


 そう。輪廻転生は世界の理の基本だ。生きものは皆、死んだら別の生に移る。満ちては欠ける月のように転生して生を繰り返す。


「ええっ? 転生できないの?」

「親兄弟が生きている間はな。もっと後でしか転生できん。だからいくら死んだ恋人に会いたくっても、親孝行できなかったことを悔やんでも、自分が生きているうちはもう会えないっていうことだな。でもな……」


 世話好きな中年は麦酒を一口飲んでから続けた。


「名付けの前に大地の神に魂をお返しすると、すぐに転生するらしい」


 ひょっ、といった感じで若いクァトロは目を見開いた。


「もちろん、何処にだかはわからない。誰なのかもわからない。でも、すぐに転生する。つまりな……」

「会えるかもしれない?」

「……ああ、そういうことだ」

「そうそう、そんな話だった」


 相槌を打つクァトロの明るい声がかえって、その場にいる者に石工のワレリーの悲痛な想いを感じさせていた。


「近所に住んでるかも知れねえ。その辺を飛んでる鳥かも知れねえ。すれ違うやつみんな、クァトロもドワーフもみんな我が子の転生かも知れねえ。そうやって出会うやつらみんなを大切にする代わりに、したことは神様が許してくれるんだそうだ」


 残念ながら多くの平民にとって、どんな子どもでも大歓迎というわけにはいかない。食い扶持の稼げないものは養っていくにも限界があるのだ。五体満足で生まれてくれればよし。でももしそうでなければ、名付けの日までに大地の神に魂をお返しすることでまた会えるかも知れない。

 それが、神様が貧しい平民に与えてくれた許しの一つなのだ。


「……おかみさん、もう一杯」

「おれも」

「おれにもくれ」


 カウンター越しに酒を受け取った男たちが、手に手に盃を持って掲げた。


「月の神よ……」


 口々にばらばらと短い祈りの声が店内に溢れる。しばらくすると店はまたいつもの喧騒に包まれた。




 一月半ひとつきはんほどたった晩夏の昼下がり。オリバーが作業場で工員の作業を見守っていると、突然背後から「ドタン」という大きな音が響いた。作業場の全員が音に振り返る。見るとオリバーの家の屋根裏に住んでいるテオドーアが、窓枠に手をかけてオリバーを見ていた。


 なんでテオがここにいる?


 テオドーアのただならぬ様子を目にした途端、背中にざわっと鳥肌が立つような気がした。


「オリバー! マーレが!」


 テオドーアを見ていた工員たちが一斉にオリバーを見た。それを視界の端に感じながらも、オリバーは一瞬動けずに固まっている。


「班長!」


 補佐のデニスの声にはっとして、デニスを見る。デニスが頷くのを見た直後、オリバーは作業着のまま駆け出していた。

 作業場を飛び出して全力で走るオリバーの隣を、テオドーアが並走してくる。城下からここまで走ってきたはずだが、それでも平気でオリバーと並んで走っている。クァトロは俊足で持久力もあるのだ。

 走りながらテオドーアが話しかけてくる。


「マーレがね、ニーナにダニロを預けて買い物に行ってたみたいでね」


 おいおい、そろそろ臨月も近いのに、なに無理してるんだ……


「帰ってきたときに階段を上がれなくてうずくまってて」


 いやいやいやいや、まずいだろうそれ……


「僕がたまたま家に戻ってきたら見つけてさ、ニーナを呼びにいって」


 よくやったテオドーア……!


「ニーナが声かけたら、なんか生まれそうな感じなんだって」


 なんだそれ、早すぎる!……まだ二月ふたつき近く先のはずだ……


「怖くて動かせないからって階段にうずくまったままでね」


 …………


「いまニーナが産婆さんを呼びにいってる」


 そんな……そんな……


「オリバー、オリバーって言ってるから呼びにきたんだ」


 マーレ……今朝はいつも通りだったのに……


「……ねぇ……オリバー大丈夫? 走るの速すぎない? 絶対街までもたないよ?」


 全く大丈夫じゃなかった。心臓が破れそうだ。喉がちぎれそうだ。暑さで頭が朦朧とする。指先の感覚がなくなってきた。


「……オリバー。僕、レオン呼んでくるね」


 テオドーアがぐんと加速して先へ進んでいった。見る間に離れていくと、森の木立に紛れて見えなくなってしまう。オリバーはクァトロの足の速さが妬ましかった。


 なぜ俺の足は遅いんだ! もっと速く動け! 速く、速く、速く! もっと速く! マーレ! マーレ……!


 晩夏のうだるような暑さの中、どれほど時間が経ったかわからないくらい無我夢中で走った。朦朧としながら必死に足を動かしていると、前から黒い大きな影のように森番のレオンが近づいてきた。レオンはオリバーの前に立ちふさがると包み込むようにオリバーを抱きとめてしまう。


 レオン、お願いだ、おれは帰らないと! ……マーレが!


「運んでやる、掴まってろ」


 レオンはオリバーを背負うと、グッと一度体を沈めた。わずかの間、何やら祈りをつぶやくとオリバーに声をかける。


「行くぞ!」


 走り出したレオンはオリバーを背負っているにも関わらずぐんぐんと加速し、その速度はテオドーアよりも速かった。オリバーはレオンの背中にしがみついて森の中を風のように走り抜けながら、心の中でマーレの名前を呼び続けた。




「飲んでていいのかい?」


 2杯目の麦酒をカウンターにおきながら、おかみさんが訊いてくる。樽を囲まずにカウンターで飲んでいるオリバーに、他の客はあまり声をかけない。


「ああ。……ちょっと気持ちの整理をしないとね」


 マーレは無事だった。結果的にマーレにとっては普通の出産と同じようなものだったのだ。もちろんそれも十分に大変なことなのだが。

 問題は生まれた子の方だ。生まれた子は男の子だった。だが早く生まれすぎた赤ん坊はあまりにも小さく、泣き声も弱く、駆けつけたオリバーは抱かせてももらえなかった。

 いま、オリバーの耳には産婆の声がこびりついて離れない。


『お返しするならあと3日しかないからね』


 そう、名付けは生まれた月の最後の安息日に行う。そして今はもう月末に近かった。お返しするなら猶予は3日間しかない。

 平民が虚弱児を育てるのは大変な覚悟がいる。長男ならともかく三男に虚弱児が生まれて育て上げられるだろうか。途中で死んでしまったら転生はずっと先になってしまい、同じ時代を生きられなくなる。

 仮に育て上げられたとしても、その間は子育てにかかる負担が増して次の子を産むことが難しくなるだろう。平民にとって子どもは家族でもあるが働き手でもある。まともに働ける子が2人では足りないのだ。


 迷うようなことじゃないよなぁ。虚弱な三男なんて聞いたことねえよ……


 麦酒を2杯で切り上げたオリバーは、何かを断ち切るようにぐっと一つ頷いてからカウンターを離れる。


「じゃあな、おかみさん。……よい夜であらんことを」

「ああ、おたがいに」


 店を出ると、ほんの二街区ふたがいく分の道のりを重い足取りで帰って行く。とぼとぼと足元を見ながら歩いていて、ふとオリバーは自分の影に目を留めた。

 くっきりと地面に描かれる影は、今日が満月であることを教えてくれている。少しだけ逡巡したのち、振り返って空を見上げる。そこには銀色に光り輝く満月が街を見下ろしていた。落ちてきそうなほどの大きな満月だ。


「月の神よ……」


 オリバーは思わず祈りの言葉を漏らした。




 安息日。寝台で休むマーレの褐色の髪に指を通しながら、オリバーは優しく語りかける。


「ごめんよマーレ」

「オリバー……あなたが謝ることじゃないわ」


 オリバーを見つめ返す濃い灰色の瞳には、どこかホッとした気配が現れていた。


「私は平気。ブルーノもそうよ。きっとあなたの決断を誇りに思うわ」

「ああ、そうだな。……言い直すよ」


 オリバーは髪を撫でるてを下ろし、マーレの手を握って言った。


「ありがとうマーレ」


 マーレは目を潤ませながら微笑んでくれる。オリバーはマーレの笑顔から視線をずらすと、少し首を伸ばすようにして寝台に乗せられた籠の中を覗き込んだ。マーレが編んだ籠だ。

 オリバーはマーレの手をしっかり握ったまま、自分の決断の正しさを確信するように籠の中に向かって祝福の言葉を告げた。


「ようこそミルコ。よい生であらんことを」


 このときミルコの魂は世界に記録された。ミルコの物語が始まる。

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