第五十三話 走れ走れ

 ――走っていた。

 静まり返った夜の街に足音を響かせ、俺は病衣姿の夜霧の手を引き走っていた。


 文化系高校生にはきつすぎるミニマラソン。青春の爽やかさなんてどこにもなく、心臓が今にも爆発しそうなほどに暴れ体温は急上昇し汗が額から垂れ落ちる。さっきから血の味が口に広がって息がしづらい。

 しかしここで止まるわけにはいかない。

 例え血反吐を吐いても俺は走り続けなければならない。夜霧を送り届けなければならないのだ。

 そのために皆は力を貸してくれた。そして俺がここにいる。


「はぁ――はぁ――っ! さっき目が赤かったろ! 泣いてたのか?」


 ここで、息も絶え絶えに台詞候補その五を実践。これは夜霧が泣いていた場合の茶化し。効用は彼女の調子を整えるもの。


「そ――そうよ! 悪い?」


 夜風に短髪を揺らしながら夜霧は吹っ切れたように開き直る。どうやら効果は十分なようで、嫌味な口調とは裏腹に楽し気に口角が上がっていた。


「いいや! 泣いてるお前を見たかったなって思っただけだ!」


「泣かせたのはあなたなのに他人事なんてクズ男ね!」


「それはごめん! どうしても準備が必要だったんだ!」


「だから私を振ったっていうの!?」


「青春は挫折だってよく言うだろう!」


 足音が一つ鳴るたび、それはすぐに後ろへ飛んで行く。

 俺らは疾駆している。あの桜の木に向かって。


「何が挫折よ! おかげで死にそうだったじゃないの!」


 病院から連れ出された余命いくばくかの病人は叫ぶ。


「全部あなたのせい。自分の欠点に気付いたのも、それで落ち込んだのも、病室でうじうじ悩んでいたのも――全部全部あなたのせいよ!」


 予想通りの彼女らしい責任転嫁リアクション。こういうところがお嬢様なんだよな、なんて思いつつ用意していた台詞を吐きだす。


「ごめんな、でもこ――」


「だから責任を取りなさい」


「――――へ?」


 予想していなかった反応に足が止まる。情けない声が出てしまう。そんな俺の戸惑いを知ってか知らずか、


「……もう、この手を離さないで」

 

 夜霧は微かに聞こえるくらいの声で呟いた。


 ぎゅっと結ばれる彼女の左手、俺の右手。ふと、母に掴まる赤子を想起した。


「え……」


「もう私を独りにしないでください。あなたがこれから何をしようとしてるのかは分からない。きっと私がもう一度絵筆を握れるようになるために何かしてくれるのでしょう。あなたが、航君がただの私ではなく、表現者である私を求めているのは分かってる。でも、私はもう独りになりたくないんです。だから、どうか――」



 ――この手を……はなさないで下さい。



 彼女は泣きそうな顔で頭を下げた。不安げに揺れる瞳、こわばる唇。それは見せたことの無い姿だった。

 だから、俺も応える。

 俺には彼女を守れるだけの強さは無いけど、でも、覚悟なら出来るはずだ。

 彼女の大きな目を見て、はっきりと。

 

「……任せとけ。お前だけ先に楽になるとか許さないから、だから、絶対に離さない。戻って来い。お前のいるべき地獄ばしょに」


 彼女の白い手を、改めて握る。二本の腕はさながら蜘蛛の糸のよう。降りたら戻れない、戻らせない一方通行の糸の道。苦難に満ちた道行だろう。

 でも、絶対に離したりしないから。


「一緒に苦しもうぜ、夜霧」


「――っ!」


 こころを決める。

 天津風夜霧。

 俺は、彼女と共にこの世界で苦しもうと。


 すると、真一文字に結ばれていた彼女の唇がゆるっと緩んで――俺の右手から彼女の温もりが、消えた。


 一瞬のうちに心臓に穴が開いたような感覚を覚える。言葉を間違えたか、彼女の精神分析を誤ったか……などとありとあらゆる思考と後悔を巡らせていると――。


「……えい……っ!」


 そんな可愛らしい声とともに全身に重みがかかった。それは地球の重力が一瞬にして倍になった――というわけではなく。


「……おい。どういうことだい夜霧さん。シリアスシーンでいきなりおんぶって的にどうかと思うんだけど」


「疲れたのよ。それにこの服動きづらいし。どうせもうこの先これ以上の幸福なんてなさそうだし、楽しませなさいよ」


 説明すると、夜霧が勢いよく俺の背中に飛び乗ってきたのだ。病院独特の薬のようなにおい、彼女の気だるげな吐息が耳にかかってくすぐったい。


「既に七キロ以上走った俺に言いますかそれを」


「何よ。童貞はおっぱいに触れれば元気百倍なんでしょう?」


「そんな不純なアンパンマンみたいなことならんわ!」


「ばいきんまんに顔を濡らされ力を失ったアンパンマン。彼は力を取り戻すべく女の乳房を――」


「話を広げるな! 今後テスト中とかに想像しちまうだろ!」


 やなせ先生に謝れ。


 というか、シリアス明けのクッションに下ネタとかチョイスが極端なんだよな。まぁいつもの調子が戻って来て安心したのはいいんだが……。

 この状況、異性をおんぶしていれば、当然男女の違いを文字通り肌で感じるわけで。

 まとまりのある綿わたのような柔らかさに、ボタンのようなこりっとした感触が二つ、背中に押し当てられている。まさかとは思うが……。


「ちなみにノーブラよ。告白させてもらうと、今までのやり取りをしているときもノーブラだったわ。なんなら普段から――」

 

「もう台無しだぁ!」


 そんな俺の叫びが未明の空に響き渡った。


 ……というか、何を言いかけたんだコイツ。

 

 


 



 

 

 

 

 




 


 



 

  

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