第五十一話 あの眩しい場所へ

 真っ暗な病室で仰向けになりながら、あの絵のことを考えていた。


 ……そもそも何故あの絵を描いたのか。


 普段は自分の絵についての考察なんてしないのだけれど、このままぼうっとしていれば「まだ死にたくない」とうずくまり、失恋のショックに打ちのめされる――なんていう見るに堪えない痴態を晒しかねない。


 もっとも、晒す相手はもういないのだけど。


 青い桜とひとりの少女。

 前者は彼に明かしたとおり青春のメタファーでありシンボル。春の象徴である桜を青く塗って”青春”だなんて私らしくもない言葉遊びである。

 正直なところ、この絵を描こうと思い立った頃にはこうなることを予感していたのかもしれない。まぁ、当時の私も自分の限界を恋愛で知るとまでは思わなかっただろうが、私はどこまでも独りで青春に手が届くことはない――そう悟っていたのだろう。

 

 私には絵しかない。

 他に何かがあって、その中から絵画を選んだわけではない。絵が上手いなんて言われて調子に乗った親が師匠を連れてきて、それから師事することになった。途中でやめなかったのは私が絵を嫌っていたわけではないからだろう。しかし、逆を言えば私の中に”好き”なんていう輝いた感情は無かったのだ。


 ただそこに筆があるから手に取った。

 空白のカンヴァスがあったから埋めた。


 それをただ盲目的に繰り返しただけ。でもその無味乾燥な日々こそが私の全てだった。

 ……そう、思いたがっていた。


 いつの日か、私は自分に欠けたものを見出してしまったのだろう。それは語り合える友人であったり、熱中できる趣味――これは決して”仕事”ではない――であったり、胸のときめく恋愛であったり。

 万人にそれらが必要なわけではないのだろうが、少なくとも私が不足していると思ってしまった時点で私の青春には必要なモノだったのだろう。なんとも欲張りな女だわ。


 ……話が大分逸れてしまったようだ。

 あの絵についての考察に戻ろう――といっても、語るべきことはあまり残されていないし、こんな悲惨な人間じぶんに対する考察を続けられるほどの精神力は残されていない。


 今にも、泣いてしまいそうなのに。


「――ふぅ」


 震える息で深呼吸をする。なんとかココロを落ち着ける。残された時間を、せめて有意義にしなければ。この二週間で得た感情を無駄にしないように。


 ……あの絵において重要なのは桜の言葉遊びではなく、である。

 だから彼に絵のバランスについて問われた時はどきりとした。彼は確かに見抜いていたのだ。私に足りないものを、描こうと思いながらも描けなかったものを。

 

 どうしても独りな少女は、どうしたって独りな私の投影なのだ。


 誰かの温もりを知れば壊れることを知っていた。だから私は頑なに一人でいることを突き通してきた。

 でも、私は耐えることが出来なかった。あの寒さに、私は屈したのだ。


 あれだけ突き放しても隣にいてくれた彼。

 それが自分の青春のためだったとしても、他にいかな目論見があったのだとしても、私の絵ではなく、私自身を見つめてくれた彼のことを、私は好きになった。好きになるしかなかった。

 ……いやまぁ、思い出せるだけの特徴的な外見をしているわけではないし、普段は少々口が回るくらいの極めて平凡な男だけど……うん、考えれば考える程冴えない男子高校生だけれど、それでも私と一緒にいてくれるだけで、私は幸せだった。彼と同じように、私も輝いているんじゃないかって思えた。

 その時の感情を思うだけで心臓の奥底が温かくなるくらいに、私は伽藍航にベタ惚れしたのだ。


 そうして私は孤独でいることによってかろうじて守ってきた表現者としての私を失った。それは同時に表現者としての私を求めていた彼との離別だった。

 どうしようもないジレンマ。

 こうして私はまた一人になった。


 この私を振るだなんて傲慢極まる彼には腹が立ってしょうがないけれど。

 だけど、だけど――。


「もう……独りはいやよ――っ」


 暗い視界が水彩画のようににじむ。毛布を被っても寒くて、思わず嗚咽が漏れる。

 私だってみんなみたいに輝きたい。こんなみじめなまま死にたくない!

 「次の授業なんだっけ」なんて訊きながら教科書を出して、先生の物まねでゲタゲタ笑い合って、放課後はコンビニで安いお菓子を買って、たまには学校サボって遊びに行って――。

 そんなありふれた生活が、私には遠くて、眩しかった。

 本当に、本当に本当にこの二週間は楽しかった。幸せだった。だからもう満足だなんて……そんな訳が無くて。

 

 私は――

 私は独りで死にたくない――!


 ……これは誰への願いだったのか。

 縋る神も頼れる親も無く、決して届くはずのないその叫びは。


 がたん。

 硬質な音が病室に響く。咄嗟に振り向いたその先、涙で揺れる視界にぼんやりと光が差して。


「――はぁっ、っはぁっ――!」


 ここまで走り抜けて来たかのような荒い息遣い。廊下の電灯を背に浮かぶシルエットは男性の骨格。瞳孔が光を取り込もうとめいっぱいに開いて、その黒い影に鮮やかな色がのっていく。

 それはまるで一瞬の絵画のようで、私は呆けたまま苦し気に咳をするを見つめていた。


 彼は紅潮した顔でせき払いを一つ。私に向き直り、芝居がかった動作で病床の私に手を伸ばす。


「――さぁ、青春をしにいこう」


 彼のその言葉せりふはまるで絵の具を吸う筆のように私の心にすっと染みわたって――

 

 私は。

 彼の温かな手を取った。



 


 

 

 


 

 


 

 

 


 

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