第五十話 出発
「行ってこい、ワタル。あとはこっちで仕上げておくから」
もはや服だけでなく髪や顔など全身を青く染めたミーハーはそう言って中庭に立つ俺の背中を押した。
「いや、でもまだ……」
腕時計を見る。夜は更けに更けて三時五十分。ここから病院との距離(徒歩で三十分ほど)を考えると確かに時間ギリギリだ。
結の車を用意してもらえば早いんだろうが、人手の問題云々の前に、このイベントに車移動はセンスがない。
とはいえ状況はまだ安心して出ていけるほど進んでいない。もう少し粘りたいところだが……。
「行きなよ、なんとかしとくからさ」
おろしたてのように白かった体操着はジャージのように真っ青だ。
「早くいけ。目的を履き違えるな」
いつにもまして棘のある声で先輩は言った。
「ほら、早く迎えに行ってあげてよ。辛いだろうからさ」
夜霧と仲が良い立はここにいない彼女をいたわるように。
俺は桜に悪戯がしたくてこんなことをしているわけじゃない。全てはアイツのためにやっていること。
ここに夜霧がいなきゃ何の意味もないのだ。
――満開の桜の木の下。
余命を抱えた出来損ないの俺たちは出会った。
他人を拒絶するやっかいなお嬢様は世界的な油絵師と、筆を折りありふれた生活を送っていた小説家。
どちらも充実した時間を過ごしていたはずなのに、やはりどこか引っかかる部分があって、俺らは青春を欠乏させた。
いつかの手紙を忘れられずにいた俺は、やっぱり書くことだけが生きがいだと気づいて、ようやく青春を取り戻せた。まぁ、こんな一文で終わるくらいのしょうもない出来事だったというわけだ。
だが彼女はどうだろう。
俺とは創作に懸けてきた熱量が違う、時間が違う――重みが、違う。
絵以外の全てを犠牲にして、人間関係さえ放って彼女は絵画に没頭していた。それは娯楽でも何でもなく、生きるために。
その努力は確かに実を結んだ。でも彼女は今こうして悩み苦しんでいる。それはきっと彼女にとって絵が近すぎたからだ。
近すぎて、焦点が合わなくなって、見失って。
いつも身近にあって、でも少し離れたらすっかりカタチが分からなくなっていて、なんとか取り戻そうと駆け寄ったらもうなんにも見えなくなって――どうしたらいいのか分からなくなるんだ。今まで積み上げてきたものが、費やしてきた時間が間違ってたんじゃないのかって不安になるんだ。
他の人が部活や勉強に勤しむなか、たった一人デスクの前で文字を書く、あるいは絵を描く。それが果たして他者を感動させ得るものなのか。そもそも見てもらえるのかすら分からない。
時間や将来の可能性を犠牲にして、どんなシナリオにしようか、あそこの表現をこうしよう、だなんて考えていて、でも答えなんてどこにもなくて、良い方向に進んでいるのかさえ分からない。
はっきり言ってどうにかしている。狂っていないと創作なんて出来るはずがない。
でもやはりいつかのタイミングで正気に戻ってしまうのだ。そして怖くなる。なにもかもを失った気になる。全てを否定されたような気分になる。
でも、そんな地獄のような道の先にしかないものがある。
たった一つの感想で、そんな終わりのない
夜霧だって、どんな創作者だって同じなはずだ。だからきっと彼女はこの最低で最高な沼に戻ってくる。
絵から離れた方が幸せなんて言わせないし、言ってはいけない。絵が描けないことに悩んでいる以上それを解決するには再び描けるようになるしかなく――彼女が人生を懸けてきたというならなおのこと――、そして俺は一度彼女を振ったのだから。
ならば俺は彼女の手を引いて、
あとは夜霧が自分で気づいてくれるはずだ。
ゆっくりと息を吸う。冷たい空気が肺を満たす。
背中には懸命に作業をしてくれている皆。
正直シナリオ通りいくか不安だけど、ここまで一緒についてきてくれた奴ら――仲間と、何より自分の努力を信じて。
「分かった。後は頼んだ――!」
覚悟を決める。疲労のたまった足腰に気合を入れ、そして走り出す。
「行ってこい!」
ミーハーの叫ぶ声を背中に受けて、俺は黒い夜の中を疾走し始める――。
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