第四十八話 現状と現実

 それからまた一時間が経った。木の最上部は枝に乗り移ったりしてなんとか塗り終えたが、まだまだ先は長い。

 ミーハーと結の二人は真剣な眼差しでやってくれてはいるが、空を見上げ疲れたように息を吐くことが多くなった。

 皆、この行為には一人の人間の命が懸かっているのだという重大さを理解している。だからこそ最大限集中してやってくれているし、だからこそ疲弊していく。

 

 皆頑張っている。そんなことは知っているし、きっと彼女も分かってくれる。

 だが、不完全じゃ駄目なんだ。

 誰かに何かを見せたいと思うのなら、創るこっちが頑張るのは当たり前で、不完全なものなんて見せてはいけない。中途半端なものでは絶対に人の心は動かない。消えかけた命の灯火を再燃させることなんて出来ない。


 一度止まった俺だから。

 夜霧を拒否した俺だからこそ、これは絶対に完成させないといけないんだ。


 しかし、そんな決意で時間が伸びるわけはなく、刻一刻と迫る期限、募る焦りと溜まる疲れ。

 夜空は黒く、筆さえ重く――


 その時、固い金属が打ち付けられたような大きな音が鼓膜を打った。

 地上を見ると、そこには倒れた脚立と苦悶の表情を浮かべ右腕を抑えたミーハーの姿があった。

 脚立が倒れてそのまま地上に落下してしまったらしい。


「ミーハー!? 大丈夫か!?」


「いってぇ……いや……まあ大丈夫大丈夫」


「んなわけあるか! ちょっと見せてみろ」


 俺は脚立を駆け下りミーハーの元へと駆け寄る。結も青い顔でやってくる。


「この高さはまずいよ。腕だって腫れてる……ごめん、私がついていながら……」


 年長者としての責任を感じているのか、結はミーハーの腕の様態を見て顔を強張らせる。


「巻き込んだのは俺だ。結が責任を感じることじゃない。どうだ、救急車呼ぶか」


「だから大丈夫だって……」


 ミーハーはそう言ってはいるが、ずっと痛みを我慢するように唇を噛んでいた。木の上から落ちたようなものだ。下が土だったからいいものの、死んでいてもおかしくない高さだ。


「大丈夫なわけあるか! 3メートル以上落ちたんだぞ! 早く病院に――」


「オレが行ったら間に合うのか?」


「……」


 黙るしかなかった。

 ここで一人作業員が減ったら確実に間に合わなくなるだろう。そうなれば――


「ワタルは天津風夜霧を死なせてもいいと思ってるのか?」


 挑戦的な口調で問われる。


「んなわけねぇだろ!」


 俺は思わず叫ぶように答えた。


「だったら決まりだ。続きをやろう。オレにかまけてる時間なんてないだろ?」


 ミーハーは俺の答えを確信しているかのように、じっと俺を見つめる。その手首は青黒く変色しパンパンに腫れている。どう見ても痛そうだし、作業を続けられるように見えない。

 しかし……。


「……やれるのか」


 確かめる。

 ここでの離脱は即ち計画の、夜霧の青春と存在の喪失を意味する。

 機密性を犠牲にしてでももっと人手を集めていればよかった。そもそももっと前から準備出来ればリスクは最小限に抑えられたはず――なんて後悔する時期はとうに過ぎた。どんなに細い可能性の光だろうと、手を伸ばすしかないのだ。


「痛いけど、ここで逃げらんねぇよ」


 ミーハーは言って、立ち上がった。


「でもその腕じゃ――」


 結は心配そうにミーハーを見る。あの鬼編集とは違って結は他人に優しい。

 まあこの手を見れば優しいとかそういうのに関係なく声をかけるだろうが、自分の立場がありながらこうして協力してくれる大人がどれほど頼もしいことか。面倒なとこもあるが、やはり結は優しいのだ。


 そんな彼女に、ミーハーは脂汗をかきながらも応える。


「オレはイベントの当事者になんてなれないと思ってたんです。でもワタル――憧れの小説家のシナリオの1キャラクターとしてオレは今ここにいます。だから後悔したくないんです。出来ることはやってあげたいんです。こいつのためにも、天津風夜霧のためにも」


「憧れの……」


 俺がつぶやくと、耳ざとくそれを聞いていたミーハーがニヤリと笑う。


「同年代で、しかも近くにあんな笑えて泣けて感動出来る小説書ける奴がいるって聞いて、是非とも取材をしてみたいって思ってここに入学したんだぜ?」


「俺の進学先どっから漏れたんだよ……」


「ワタルの中学の同級生とオレは友達でね」


 どうやら知らないところで個人情報が抜かれていたようだった。


「あんなハラハラする恋愛書いてるやつがこんなヘタレだとは思わなかったよ」


「自キャラと自分は大抵真反対だからな」


「ま、今ならちゃんと主人公やれてると思うぜ」


「そうかい。ほら、やれるんだろ? 作業再開するぞ」


「はいよ、やってやるとも」


 俺は倒れた脚立を片付け、一回り小さい脚立を立てて固定する。

 たとえミーハーが作業に戻ったとしても怪我で効率は下がるだろうし、苦しい現状が変わるわけではないが、それでも前に進むしかない。夜霧を引っ張っていくのは俺なのだ。だから――。


「よし! お姉さんも気合い入れてやるぞー!

 どう? おっぱい揉む?」


「だからそういうのがいらねっつってんだろこのメンヘラビッチ!」


「うふふ」


 夜空の下、都市の喧騒は遥か遠く。ゴールは果てしなく遠い――いや、そもそもけれど、俺らは笑い合いながら確実に前へと歩いて行ける。


 ゆっくりと息を吐く。気合いを入れ直す。

 俺が脚立に足を掛けた、その時。


「――人が足りないなって思ったことない?


 本当に。

 現実ってのは面白い!











 

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