第四十五話 表現者の覚悟
水曜日。
学校を休んだ俺はとある場所へと来ていた。
「どうも、お久しぶりです」
充満する木と絵の具の鼻にこびりつくようなにおい。
薄暗い店内は様々な色に溢れ混沌を成しているが不思議と不快感はない。そんな乱雑でかつ統一感のある空間。
――『をとめ画材』
いつぞやのお出かけの時に夜霧と伺った画材屋である。
「おや、君一人かね」
「はい、すみません」
「君が謝ることはなにも無い。聞きたいことがあるのならば訊きなさい。私が知っていることなら答えよう」
画材屋の店主である初老の男は見透かしたように言うと、カウンターの奥にある扉を開けて俺を手招いた。
促されるまま奥に入る。
そこは八畳ほどの小さな部屋。店内よりも濃い絵の具のにおいと、額縁に入った絵が壁を埋め尽くすように掛かっていた。
「ここは僕のアトリエじゃ。狭いのは許してくれ」
このじいさん、一人称<僕>なんだな。なんだか憧れる。
彼は皺を深くして笑うと、古びて黒ずんだ椅子に座った。その前には大きなキャンバス。
なんというか、まるで絵画のような視界だった。部屋は絵や画材で溢れているのに狭さを感じない。彼が座るだけで空間が広がっていくような、そんな不思議な感覚だった。
「すまないの。絵を描いていた方がよく話せる気がしてなぁ」
彼はしゃがれた声で言った。
「お気になさらず。夜霧ので慣れてますから」
「そうか。立ったままは疲れるだろう。カウンターから椅子を持ってきなさい」
「いえ、遠慮しておきます。立っていた方が絵が良く見える気がするので」
言うと、じいさんは感心するように頷く。
「ほう……やはり表現者というものは面白いのぉ。この部屋に招き入れた人間は多いが、それに気づく者は少なかった。絵を学んでいる者でも気づかぬ奴はおる。あの
「……? この部屋に何か仕掛けが?」
俺が問うと、じいさんは少し自慢げに答える。
「そうじゃ。この部屋はアトリエであり、一つの作品でもある。今のように、僕の真後ろから君くらいの視点で見ると、僕の――正確には僕の前のキャンバスの中心に消失点が来るようになっておるんだよ」
言われて、気づく。
床の木目、よく見れば不自然に傾いて設置された絵。その縁を延長していくと、その全てがキャンバスの中心に合流する。
一点透視。空間を表現するための画法。確か美術の授業で習った覚えがある。
この部屋が全て計算づくでつくられているのだ。
「――人間は死ぬまで絵と共にある。
僕たちの生きる世界は三次元じゃが、この目が捉えると二次元の平面として表現される――つまりは絵じゃ。僕らは常に変化し続ける絵を見て生きておる。『芸術は自然を模倣する』というが、それがどうも僕には分からなくてのぉ。人が目を開けた時点で、その目に映る視界そのものが絵画なのじゃ。僕ら画家のやっていることは模倣ではなく、ただ己の見たいものを描いているだけで、<芸術>などと仰々しく分類されるようなことはしていないのじゃ。
視界は己の行動で変化する。人らはそれぞれの絵を描きながら生きておる。人は皆芸術に勤しんでおるのじゃ。
僕らは別に特別な人間ではない。
俗に芸術家呼ばれる人間は、単に<見たい欲>の強いだけの人間だと、僕は思うのじゃ」
彼は筆を進めながら、
キャンバスにはいつの間にか澄んだ空が広がっていた。
芸術の中に、芸術が産まれていく。
じいさんはやはり<芸術家>だ。そう思った。
「……ふむ。年を取ると話が長くなっていけないの。すまない」
「いえ。この話を聞けばアリストテレスも納得しますよ」
「ふぉっふぉっふぉ。そうだと良いがの」
彼は背中で笑った。
「それで、次は君の番じゃよ。何があったのじゃ」
俺は今に至るまでの話を――するつもりだった。
俺は今の夜霧のことしか知らない。それに、彼女の語った過去は主観的なもの、俺は客観的な彼女の歴史を尋ねようと思ったのだが……。
一部屋の芸術を見て、気が変わった。
あの時、彼女の微笑に芸術の――創作物の限界を感じて心が折れそうになった俺は、
「……創作物は、現実を越えられると思いますか」
夜霧が絵を描けなくなった理由。
それは単純に絵描きより楽しいことを見つけただけ、という訳では無いと思う。
絵画を愛したことは無かったと、彼女は言った。
『自分の感情を込めて、初めて作品は命を宿す。そして問題なのは、作品が生きていなくても一流になれるということだが……そこは君が助けになってあげなさい』
じいさんは確かそんなことを言っていた。当時は意味が分からなかったが、今なら分かる。
そして、夜霧も気づいたのだろう。自らに足りないものを。創作を好きである必要はないのかもしれない。けれど、自分で一度「足りない」と思ってしまえば、そのように思考は固定される。
そうして彼女は見失ったのだ。自らが歩んできたはずの道を。その先の未来を。
いくら他人に評価されようと、結局のところ自分が納得出来なければ駄作も同然。創作に全て捧げてきた人間が、その作品を自認出来なくなれば自己崩壊してしまうというのは理解出来る話だ。
彼女は自らの存在意義とも言えるものを失った。そんな現実を、俺の作品で変えられるのだろうか。
そんな問いに、彼は筆を止めることなく答える。
「君は答えを確信しているのだろう? 答える必要はなかろう」
期待通りの答えに、俺は笑う。
フィクションは現実に内包されている。
しかし、俺は知っている。
時にフィクションは、芸術は、創作物は、現実さえ変えてしまうことを。
だからこそ、創作は今の世まで続いているのだ。
「そうでしたね。ありがとうございました」
俺は深深と頭を下げる。
するとじいさんは手を止め、こちらに振り向いて言った。
「頼む――君になら出来ると信じておるよ」
水曜日
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