第四十三話 終わりのような始まり
「夜霧……」
親の仇を見るような眼差し俺を睨みながら、夜霧は涙を流していた。
気の強いお嬢様だとか、歯に衣着せぬ毒舌少女だとか、世界的画家だとか、そんな肩書なんてどうでもよくて。
――今俺の目の前に立つ天津風夜霧は、ただの女の子だった。
「……」
「…………」
言葉が、出なかった。常日頃から言語と向き合っているというのに、人の心の機微に注意を払っているはずなのに。
彼女になんという言葉をかければいいのか、分からなかった。
長い沈黙が流れる。
このまま立ち去ってしまうかと不安がっていると、彼女はふと視線を落として、
「……私には、絵しかなかった」
重々しく口を開いた。
「私には絵で食べていける才能があった。だから人生を限界まで削って、描いて、描いて、描いて、世界的に評価されるまでになった。正直画家としての地位は十分にある。フランスのサロンにも出展して、これ以上ないところまで来たのよ。
……それでも、そこまで来ても私は、幸せだなんて思ったことは一度も無かった。絵なんて自分の体の一部みたいなもので、今更好きだとかなんだとかって思う感情なんてこれっぽっちもなかった。
余命を宣告されて、それでも私は絵画こそが私の青春だって信じていた!」
ため込んでいた思いを吐き出すようにして張り上げた声が、夜の空気に呑み込まれていく。
彼女は今にも壊れてしまいそうなほど、薄弱で。
何か、声を掛けなければ。その声は確かに俺に届いていると伝えなければ。
「……俺たちは
「黙って!」
「っ……」
彼女は震えた声で、俺の言葉を拒絶した。
「私とあなたは違うのよ……、私は何かを表現したことなんて、一度もないの。私は、一度だって、絵を描くのが好きだなんて思ったことは無かった。絵画以外に何も知らないくせに、私は絵画を愛したことはなかった。だから、私はただ作っていただけ。既存の画法をなぞっていただけの、ただそれだけの画家なのよ」
「でも――」
「私が最近絵を描いていないの、知っているでしょう」
妙に落ち着いたような――。
否、もはや生気さえない諦めに満ちた穏やかな表情で、彼女は言う。
俺はその表情を見るのが辛くて、目を逸らす。
確かに彼女の言う通りで、ここ一週間、彼女は絵に向き合うことはあっても、筆を握ることは一度も無かった。
『――天津風夜霧ってさ、ここ数日全く絵を描いてないよな。
それって、ワタルのせいじゃないのか』
そんなミーハーの言葉が思い出された。
「それはね、
遂に重い黒色が
そのまま風に乗ってどこかへ消えてしまうんじゃないか。そんなありもしないことさえも今は絶対の真実みたいに思えて、咄嗟に彼女の方を見る。
数歩先。手を伸ばしても届かない彼女の、潤んだ瞳が光を宿して、色白の肌に
そして、彼女は告白する。
「――どんな絵を描くよりも、あなたと一緒にいる方が幸せだったからよ」
そう言って、
この瞬間、あらゆる芸術は意味を失くしたのだ。
いや、違う。
夜霧が、彼女自身の手によって、芸術の存在意義を奪い取ったのだ。
……だって。
今の彼女よりも美しいものなんてこの世には無いから。
所詮は芸術など現実の模倣に過ぎないと。本物たる現実に
残酷にも、芸術に全精力を傾けた彼女自身の姿によって、それを証明していた。
「おかしいわよね。たったの二週間ちょっとで、私の人生の価値観がひっくり返ったのよ」
それは今まで見たことの無いような、幸せそうな笑顔。
「キャンバスを見つめるよりも、あなたの隣を歩く方が楽しいと感じるようになった。パレットで色を混ぜるより、あなたと会話を交わす方が嬉しかった。
そんな私が、もう絵を描けるわけがないのよ」
一転、彼女の微笑は諦めの苦笑に変わる。俺は戸惑って、言葉を探す。彼女の告白に心をときめかせる余裕なんてこれっぽっちも存在していなかった。
そして、浮かんできた言葉。
――だったら俺と一緒にいればいい。絵なんて描かないで、俺と青春を送ればいい。
肯定の言葉。
そんなこと……言えるわけがない。
彼女が何と言おうと、その才能は世界で評価されるだけの超一流のもの。それを捨てさせるなんて出来ない。
なにより、それは夜霧の感情への肯定であると同時に、夜霧の人生の否定でもあり、そして何より俺の気持ちへの偽証なのだ。
だから、言葉が出ない。頭の中には数十と単語が浮かんでいるのに、一つとして外に出ない。現状に相応しく、かつ正しい答えなのかが分からない。
そんな俺を慈しむような目で見る彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
「……えぇ、分かっていたわよ。
きっと、あなたは創作者でなくなった私を許しはしないって……、安心したわ。あなたのことを理解出来ていて」
許しはしない。
彼女の言葉はほぼ正解で、一部が不正解だ。
俺が許さないのは夜霧をこんな風にした俺自身で、夜霧じゃない。
でも結果は同じだ。
「ごめん……」
だから、謝るしかなかった。ここで俺が夜霧を受け入れれば、きっと彼女はまた違うカタチの青春を手に入れるだろう。
幸福と等号で結ばれた青春を。
しかし、それは俺が否定した青春で。
ここで嘘をつくという選択肢は、無かった。
俺は選んだのだ――。
一人の少女としての天津風夜霧ではなく、創作者である天津風夜霧を。
そして今、前者として在る彼女の<死>/後者として在る彼女の<生>を。
俺が謝ると、夜霧は痛みに耐えるように唇を噛んで、そして脱力したように笑った。
「そう……あなたが、私を振れるあなたでよかったわ。ほんと、どうしようもない女ね、私は」
「……ほんとうに、もう絵は描けないのか」
「無理ね」
彼女は即答した。
「筆を持つと手が震えるのよ。まともな線も引けないわ」
彼女は白く細い手をぎゅっと握りしめた。
「……そっか」
ロクな返しも思い浮かばず、再びの沈黙。
二人でしばらく夜景を見つめて、そして。
「今日は楽しかったわ。今度は別の女と来なさい」
「そんなの無理に決まってんだろ」
「……あらそう。昔こんな女がいたんだって笑い話にできるわよ?」
「夜霧……っ!」
「そんな怖い顔も出来るのね」
さっきまでの儚げな様子とは違う、いつも通りのお嬢様みたいな雰囲気を纏った彼女は冗談めかして言った。
「私、しばらくここにいるから先に帰りなさい」
「んなこと出来るわけ――」
俺が一歩近づくと、彼女は一歩後ろに退いた。ふわりと黒髪がふくらむ。
「今の私はそんなに弱くないわ。安心なさい」
俺の目を真っ直ぐ見て言ったあと、そのまま視線を横にずらして眼下の夜景を眺める。
もう用はない。
そんな意思表示だった。
「……じゃ、気をつけてな」
「えぇ。さようなら」
――あなたのこと、好きだったわよ。
彼女は横顔でそう言った。
俺はあえて振り向かずに、広場を後にした。
*
俺は勘違いをしていたらしい。
俺の余命宣告は三年だったけれど、彼女の余命宣告について一切彼女は触れておらず、勝手に俺が俺と同じ時期に同じ期限を定められたと思い違いをしていたのだ。
週明け、天津風夜霧は入院した。欠乏症の重症化が原因で部屋で倒れた。
そしてその時に聞いた。
彼女が宣告を受けたのは昨年の四月。余命は一年。
つまり。
まさに今、彼女はその余命を使い果たそうとしている。
事態は急転直下というわけだ。
……ふむ。
一回底辺に落ちて、彼女の根本にある感情を知って。
俺がやるべき――否。
俺がやりたいことはただ一つ。
俺は選んだ。
苦しみながらも感動を創り出す彼女の方を。
その責任を、今こそ果たさねばなるまい。
考えて、書いて、改稿して。
いやはや。
最終章らしくなってきたじゃないか……!
不謹慎にも、俺の作家魂が燃え始める――。
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