第四十一話 銀河鉄道の夜

 緊張で味覚の薄れた舌で牛タンを堪能したあと、俺らは近くの本屋へと向かった。それは俺の提案であった。我がホームグラウンドで何とかメンタルをリセットしようという魂胆からだ。


 いわば『キス予約』。

 そんなものを交わしておいて平常心を保てるわけがない。

 創作でもこんなの恥ずかしくて書けない――とは思いつつ、同時に今後の描写の手助けになるかも、と考えてしまうのは俺が創作に呪われている証拠か。

 己の体験を、感動も笑いも恥も――恋情も。その全て創作物のにえにする。

 それが作家ってものだと俺は思う。


 本棚と本棚の谷間。純文学のゾーンには俺ら以外に誰もおらず、静寂と紙のにおいが充満している。それが俺は少し寂しい。意思疎通のための言葉と文字を並々ならぬ努力と才能で芸術に昇華させた偉大なる小説家と、その作品群。まさにここはそれらにとってのゴールであり、新たなスタート地点なのだ。

 そこに誰もいないというのは、やはり寂しいだろう。


「本屋での行為――マニアックな趣味してるのね」


「俺には君が何を言っているのか理解できないよ」


「AVによく出てくるじゃない」


「アニマルビデオの略だよねそうだよね!」


 と、夜霧は先ほどから俺の発言を言質に取り色々な角度からいじってくる。別に俺はそんな肉欲に溺れた人間じゃないし、そもそも俺らはまだ付き合っている訳でもないのだ。

 だから動揺するな伽藍航。余計からかわれるぞ。


 俺は精神安定剤がわりにお気に入りの小説を棚から取り出し、何度も読み返した一文をお経のように唱える。


『ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。』


「――銀河鉄道の夜なんて、ロマンチックなもの読むのね」


 夜霧が俺の肩から顔を出すようにして言った。髪が首筋に当たってくすぐったい。


 『銀河鉄道の夜』

 今ではすっかり有名な宮沢賢治が不完全なまま遺した童話的小説。ジョバンニ少年が銀河鉄道を旅する――うん、詳しくは調べてほしい。

 ちなみに『999』はつきません。


「まぁな。『ほんとうのさいわい』なんて、人類の究極の目標だろ? 幸せじゃなきゃ不幸なんだから」


 『ほんとうのさいわい』とは作中で問われる命題で、恐らくこの作品のテーマとされる言葉だ。


「あら、優柔不断どっちつかずのヘタレのあなたにしては極端な考え方ね」


「……そう言うけどさ、幸福でも不幸でもない時なんてないだろ? 過去を総じて見てどっこいどっこいってことはあるかもしれないけど。だからどう幸せになるのか、そもそも幸せとは何か、ってのは避けて通れない命題だって思うんだ」


 俺への暴言はスルーということで。返す言葉が無いなんて悔しいじゃない。


「そうね。その『しあわせ』を求める人生の道中でつまづいた私たちには耳に痛いものね」


 彼女は皮肉っぽく言った。


「まぁそうなんだけど……うーん、長らく青春の定義を追い求めている俺らだけど、『青春=幸福』ってのはどうもしっくりこないんだよな」


 幸福の追求ってのは最終目標――つまりラスボスなわけであって、それが分かったら人生ゲームをクリアしたようなものだ。青春を欠乏することなく生きている皆だけど、とてもそんな究極の問の答が出ているようには見えないのだ。


 ……少なくとも俺の青春は幸せなんかじゃなかった。


 幸福度で言えばきっとあの病室で死んでいた方が幸せだったと思う。もちろんあの時の夜霧の言葉は嬉しかったけど、それが幸せにつながるといえば、むしろ逆だ。

 これは人それぞれだけど、俺の創作にハッピーは無いと、そう断言できる。知れば知るほど、手を伸ばせば伸ばすほどそのいただきは遠くなってゆく。

 伽藍コウという若輩の作家でさえ既に原稿用紙に数百万文字と積み重ねてきた。しかし、その中に俺が真に納得できる表現をしたことは、一度も無い。もう少し叙情的に、もう少しシャープに――なんて思うけど、きっと永遠に、満足できるフレーズなんて書けないことを知っているから、次の行に進む。そして悩んで、なんとか妥協できるラインまで書き上げて、また次へ。

 だからきっと、俺の人生にハッピーエンドは無い。悔いと己の実力不足を嘆きながら、不幸を背負いながら歩いて、歩き続けて、俺は死ぬのだろう。


 ――歴史に名を遺すほどの絵師である葛飾北斎は、死の床に伏しながらこう言ったという。


『あと五年あれば、きっと本物の絵師になれた』

 と。


 あの鬼編集者にこの話を聞かされた時、俺は呆れて笑ってしまった。いつから俺はそんなマゾになってしまったのか、と。

 それでも俺はやめようとは微塵も思わなかった。そんな不幸なんてどうでもいいと思えるほど、俺は創作が好きだから。


 まぁ、一度は目的を見失ってしまって立ち止まってしまったけれど。

 夜霧のおかげで、そんな地獄の道の道端に転がる小石しあわせを見つけることが出来たから。


 俺は本を閉じる。

 絵画関係の本でも見に行こうか、そう言いだそうと夜霧の方へ向き直り、目にする。


「……っ」


 辛そうに目を伏せ薄紅の唇をきゅっと結ぶ夜霧の姿を。

 それは触れたら壊れてしまうガラス細工のようで。

 どうしてこうなっているのか分からない。

 声を掛けようとした。

 名前を呼ぼうとした。

 ……けれど、出来なかった。


 怖かった。

 見たことないほど弱弱しい彼女の姿を見て、躊躇した。

 今のまま、彼女のことを理解しないまま触れてしまったら、崩れてしまいそうだったから。

  

 ……つい先日、立場が逆だった彼女は、手を伸ばしてくれたというのに。


「……作中で答えは出ているの?」


 俺が声を出せずにいると、夜霧がそう問うた。

 いつも通りの、彼女だった。


「あ、あぁ。解釈の余地ありだけど、まぁ自己犠牲ってことになるのかな」


 引用した台詞を言った友人カムパネルラはその後、溺れた主人公の同級生を助けてそのまま死んだ(とされる)。


『おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。』

 とはつまり『ほんとうのさいわい』であるところの自己犠牲を果たし、先だつ不孝を許してくれるだろう、という意味にとれるのだ。


「お釈迦様みたいなこと言うのね」


「まぁキリスト教でも奉仕の精神ってのは言われてるし。その通りなのかもしれないな」


「でもずるいわよね。自己犠牲なんて否定しにくいことを掲げるなんて」


「堂々と否定できるやつなんて哲学者くらいだもんな」


「……八方ふさがりもいいところよね。私にどうしろというのかしらね」


 彼女は嗤った。

 その意味を尋ねようと彼女を直視したところで、黒髪をふわりと浮かせて彼女は書店の出口へと進んでしまった。


「おい、美術書とか見なくていいのか?」


「――――」


 彼女は答えることなく、本棚の陰に消えた。


 それ以降、俺らが会話することは無かった。


 

 

 

 

 


 


 


 




 

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