第三十七話 デートを許可した方の話

 ――芸術に感情は必要ない。


 私はずっとそう思ってきた。

 感情なんて不安定なものは余計だ。芸術の邪魔にしかならない。絵画の完成度こそが全て。結局鑑賞者が見るのは私ではなく絵なのだから、私の感情なんて知るわけもないし、関係のないことだ。

 関係が無いのなら、そんなもの無い方が良い。

 私はそう信じて私はひたすらに命を削ってここまでやってきた。


 努力ならば死にかけるほどした。この才能に見合う絵画を完成させるべく、青春が欠乏していると余命宣告受けながらも、三十四か月もの間ただ無心にがむしゃらに、絵を描いてきた。おかげで手からは絵の具のニオイがとれなくなった。


 でも、ダメだった。

 私が満足できる絵は一枚も描くことが出来なかった。しまいには未練がましく<青春>なんてテーマにして、結局ロクなモノを描くことは出来なかった。

 

 私は死ぬ。


 


 自分が選んで、今まで血反吐を吐きながら歩き続けてきた道。


 ――間違っていた努力みち


 青春欠乏症とはなるほど、そういうことかと納得する。何らおかしい病気ではないのだ。至極論理的で、真っ当な、真っ青な終わり。

 努力する方向を間違えた人間が辿る結末。

 彼は確かに道を誤ってはいたけれど、まだ橋がかけられる程度には逸脱していなかった。

 けれど私は離れすぎてしまった。他人を突き放すことこそが自らの努力と才能の証明だと信じていた私は、もう戻れない。先のない黒に呑み込まれて、塗りつぶされていく。


 なんて残酷な。

 私は、一体なんのために……。


 

 *



 高校の最寄り駅にほど近いマンションの一室。709号室。そこが私の住処すみか

 地方都市のどこか閑散とした空気を浴び、冷え切った手でドアノブをひねる。実家の雑多な空間とは真反対のな部屋だ。


 賃貸部屋を塗料で汚すわけにもいかないので、ここでは絵が描けない――というのは言い訳か。鉛筆でデッサンするくらいなら出来るのだけど、どうにもこの部屋では絵を描く気分になれないというのが正直な気持ちだった。


 だからこの部屋には何もない。

 ベッドと机と、必要最低限の家電製品。それ以外には何もない。


 私から絵を取ったら何も残らない。

 そんな事実をまざまざと見せつけられているようだった。


 冷凍庫から冷凍パスタを取り出してレンジに入れる。袋の裏の指示通り三分にセット。

 部屋にレンジのうなるような駆動音が響く。この部屋の壁は私の声を知らない。つまらない女と思われているだろうか。

 しかし、いくら喋っていないとはいえこの私の裸体を毎日見ているのだから文句は言わせない。

 私が肌を見せてもいいと思えるのはあなたと、それともう一人くらいなのだから。


 冷え切った身体が少し火照る。

 いけない、これでは私が痴女になってしまう。

 でも……そうね。

 覚悟はしている。

 私のキャラが崩壊してでも、日曜日は彼に楽しんでほしい。その日が私と彼にとっての思い出になって欲しいと、心の底から思う。

 

 私は知ってしまった。

 彼へのファンアートを描き終えたその時――。


 私は、絵を描くべき人間ではなくなったのだ。


 間抜けな音が鳴り、レンジが停止する。

 ドアを開けて、ナポリタンを取り出す。それをフォークと共にリビング中央にポツリと置かれたちゃぶ台に載せる。

 

「……いただきます」


 手を合わせて、フォークを麺に入れる。

 ガリッ、固い感触。まだ完全に加熱されていなかったらしい。私はそのまま麺の塊にフォークを突き刺して、口に入れる。

 案の定、冷たかった。そんなこと今まで気にしていなかったのに。

 あの食卓オムライスの温かさを知ってしまったから。誰かの手で作られた料理のぬくみを知ってしまったから。

  

 ……この空間は冷たくて暗い私の中のうろだ。

 今まで私の中で無自覚に広がり続けてきた空洞。

 それに気づかずにやってこられたのは、ひとえに私が幸運――いえ、不運だったからだろう。

 師匠を含め、絵の技術や評価で私より優れている人間はいなかった。だから何も言えなかったのだろう。否定できなかったのだろう。

 正しさなんて力の前ではいくらでも歪む。だからこそ、上に立つものは常に周りに気を配り自らの正しさをはかりにかける必要がある。


 しかし私は絵ばかりを見て、筆をどう操るかを考えて、当の私がどうなっているのかなんて知ろうとも思わなかった。

 

 そのうちに空洞は私を侵食していって、頭は痛くなるばかりで、もう取り返しのつかない場所まで来てしまっていた。


 気づくのが遅すぎたのだ。

 一人では克服できないと悟って彼に声をかけた。結果それは正解だった。必死に私についてきてくれた。

 私の隣を歩いてくれた人は、彼が初めてだった。


 ……彼は眩しかった。

 必死にもがいて、表現者としてどう他者を楽しませたらいいのかと苦悩していた。決してそれは見てて楽しいことではないし、女々しいと何度も思ったけれど、同時に羨ましいとも感じた。正しいと感じた。


 だってそれは、創作が、表現が好きだからこそ起きるから。


 そして私は知った。は悟ってしまった。

 本来この空洞に何が詰まっているはずなのかを。

 この私に足りないものを、理解してしまった。


 知らなければ、きっと地下の空洞に気付かないまま、でも終わりが来るまで苦しまずにいられただろう。

 塗り重ねてきた私の色が、きっと極彩色に見えたことだろう。

 

 ――灰色だ。

 今の私にはその全てが灰色に見える。

 

 混ざり混ざって、でも結局どれも単色で。

 鮮やかな赤色のはずのナポリタンも。公立校にしては洒落たリボンの水色も。

 全てすべてに色がい。


 それでも。

 せめて日曜日までは――。


 彼の色を見ていたいと、想う。

 

 


 

 





 



 

 


 


 

 

 




 

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