第二十九話 目覚め

 

 人間は主観でしか物事を語れない。

 そう考えると人生とは一人称の小説のようなものだ。著者は自分。読者も自分だ。

 

 一般的な一人称の小説を読んでみても分かる通り、語りの人間がそう言うのだからきっとそうなのだろうと読者が思うことは多い。

 語りが地の文で次のように語る。


『彼女は悲し気に笑った』

 

 しかしそれはあくまで主人公の主観であって、本当に彼女が『悲しくて』『笑った』のかなんて分かりやしないのだ。

 それを言ってはお終いだろうとは思うが、どうにもこれは真実なのだからしょうがない。それこそが語り部の主観で綴られた一人称の小説の基本であり、定であり、楽しみ方のひとつなのだから。


 さて、その罠にはまって楽しむのも一興ではあるのだが、その小説を研究するにおいて、その読み方をしてはいけない。その場面の状況を正確に把握するには、読者は主観で構成される文字世界のなかでも、なるだけ客観的にあらねばならない。


『彼女は何故悲し気に笑ったのか』


 ではなく。


『語り部は何故、彼女が悲し気に笑った、ように見えたのかを答えなさい』


 と、こんな問いを続けるのだ。


 そこに、躓いてしまったのが俺なのだろう。

 知らないことを知らなかった。無知の無知と言うべきか。


 物書きは、小説家は――それに限らずとも<クリエイター>と呼ばれる人たちは――やはり己の人生を見返す機会が多いように思う。だって何かを生み出すにはその下地が必要なのだから。

 

 そこで、俺は方法を誤った。

 主観が絶対的なものだと固定してしまった。

 

 創作はエゴの塊。

 なるほど。彼女の言葉が痛いほど理解できる。


 俺自身が、まさにエゴの塊だったのだから……。





「――私、あなたとウワサされて嫌だなんて思ってないわよ」


 白い病室に桜の花弁が吹き込むなか。

 妖艶に笑って、瑞々みずみずしい唇を歪ませた天津風夜霧は言葉を続ける。


「あなたはスネ夫のフリしたジャイアンなのよ。自分を八方美人だと思い込んで、その実、あなたの八方にいたのは自分が創り出した他人の虚像……もしくはコピー。あなたの知ってる他人なんて、だけでしょう?」


 まぁ、そりゃ聞いてるよな。

 あの手紙のことも。

 いやぁ、生の文字ってのは怖いんだよ、ほんとにさ。

 恩讐みたいなものを感じてしまうんだよ。

 それこそ、こっちが勝手にそう思っているだけなのかもしれないけど。


「結局あなたはあなた自身が生み出した他人モドキの言うことに従っていただけ。傍から見れば独りよがりな考えに浸ったジャイアンと同じよ」


「俺があのジャイアンか……想像つかないな」


 身勝手で、すぐに暴力を振るう音痴。

 そのうちワタルリサイタルなんて開いたりすんのかね。

 思わず苦笑いをしていると、ぽつりと彼女が呟く。


「……別にジャイアンでもいいじゃない」

 

「……え?」


「あんな犯罪者モドキでも人は付いてくるものよ。自分を押し通していれば人は勝手に群がってくるわ。街灯に集るハエみたいに、眩しいモノに惹かれて」


「……それでも寄ってこない奴だっているだろ」


「そんなの当り前じゃない。万人にウケる創作物なんてあったら気味が悪いわよ」


「それは……分かってるけどよ……」


 やはり、目についてしまうものだ。

 どうしても、そんな奴の声は大きく聞こえてしまうのだ。


「ほんっと女々しいわね。いい加減にしなさいよ」


「すまん……」


 俺の見る黒い目が鋭く細められる。まさにご立腹といった風だ。

 

 ――しかし。

 意外にも、次に彼女の口から出た言葉は外見の様子とは反対の、すぐに消え入りそうな細い声だった。


「……利用しなさいよ、頼りなさいよ――」


 桜色に色づく彼女の頬。

 それではまるで、お前が照れているみたいな……。


「え?」


 聞き返す。

 聞こえていたけれど、その言葉が、様子が、あまりにも俺の知ってる天津風夜霧のものとは違くて。

 

 そして彼女は口を開く。


「そんな女々しくて面倒で気持ち悪くてそのくせ我が強いどうしようもないような――そんな男の傍にいる馬鹿な女がいるじゃない……っ!」


「――!」


 恥じ入るように、自らの罪を告白するかのように。

 

「あなたの素性を知ってもなお付いてくる馬鹿なファンがここにいるじゃないの! なら書きなさいよ……! 批評なんて知らない、つまらないコメントなんて見もしない――私以外の読者なんていらないって! 自分のために書けないというのならいいわ。私のためだけに書きなさい。あなたが本当に私の消費豚ファンだっていうのなら、あなたが真に創作者だというのなら」



 ――見せてみなさいよ。あなたの作品青春を。



「………………」


 言葉が出なかった。

 心臓が強く拍動した。

 

 涙が流れた。


 泣いちゃったよ、泣いてるよ俺。

 女々しいにも程があるだろ……。


「な、なに泣いてるのよ……」


 天津風もあきれ果てている。

 とはいっても別にボロボロ泣いている訳じゃない。つーっと一筋の涙が伝っている程度だ。

 強がりに聞こえるか。


 やめよう。言い訳は、言葉遊びは。

 俺は今、泣いているのだ。


 恥も外聞もなく。

 美少女の前で、女々しく弱弱しく。

 それしかすることがないみたいに、ただただ涙を流してる。


 それが今までの俺。

 だから、卒業しよう。


 にやり、口角を上げて。

 深く息を吸って。

 いちにのさんで――。

 

「ふははははははははははははっ!!」


 笑い飛ばそう。

 

 顔も知らない奴の悪口を。

 春色の桜の花びらを。

 俺自身を。


 笑い飛ばそう。


「ふひはははははははははっはははははは!!」


 そうだ。

 俺は書くしかないんだ。

 どうしようもなく好きだから。

 書くのだ。創るのだ。

 俺の作品が好きだと言ってくれた人のために。


 俺は見て見ぬフリをしていたんだ。

『つまらない』

 という人と同じように。

『おもしろい』

 と言ってくれたファンの人たちを。


 優先順位をつけたっていいじゃないか。

 俺を好きだと言ってくれた人のことを好きになることの何が悪い。


 認めよう。

 認めてあげよう。


 俺は天才だ。

 気難しくてはてしなく気の強い画家の少女を虜にしてしまうくらいの。

 ――小説家だ。

 

「ごめん」


 俺は頭を下げる。

 彼女は形の良い眉をひそめる。


「この期に及んで謝るのかしら。何も学んでいないの?」


「……いや。そうじゃなくてさ。俺は、俺は褒められたのが嬉しくて小説を書き始めたんだ」


 今ではどこにいるかも分からない担任の先生に褒められたから。

 今、ここに俺はいる。


 思い出す。

 嬉しくて、楽しくてしょうがなかったんだ。


「だから、謝るよ。

 天津風には感謝してる。ほんと、どうにかしてたみたいだ。俺はそんな行儀の良い人間じゃないのにさ」


 本当に、自分勝手で。

 エゴの塊。


「――俺は、俺のために書くしか出来ないみたいだ」


 俺は笑う。

 きっと悪魔みたいに酷い顔で。

 

 

 

 

 

 

 

 




 




 

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