第二十五話 私の感想を踏まえての回想1
回想、というのは実に自由だ。と、私こと天津風夜霧は思う。
一説によれば、人間とは白紙の状態で生まれるらしい。
つまりは『white paper』であり、有名なところの『tabula rasa』である。
まぁ、この説を提唱した人の思惑(哲学でイギリス経験論というらしい)は私の理解するところではないし、どうでもいいという感想が募るのだけれど、随分と便利な単語を用意してくれたことに若干の感謝して、私はこの言葉を私の思うままに利用していこうと思う。
白紙というからには、やはり人の生をまっとうするなかで、外からの刺激、あるいは内面からの感情や思想によってその白紙はその人の色に染まっていく。具体的に文字、つまりは本をイメージしてくれてもいいとは思うけれど、前にも言った通り私は文字や言葉が嫌いなので、私の中ではその白紙には『絵画』が着色されていくイメージである。
突然、外から原色がぽつりと置かれて、それをどういじるかは自分次第で、ぼかしたり、他の色が混ざったりして、思った色が出なくて――。
そんな、印象的な着色。
まぁ、そんなことはどうでもいいのだけれど。
……要するに。
人生はいつだって読み返せるし、見返せるということを言いたいのだ。
回想と呼ばれる行為は自由なのだ。
だからこそ、不自由でもある。
まさに表裏一体。
オモテウラ、と言われると、どうにも絵描きである私にはキャンバスを想起してしまうけれど。
面倒ながら説明すると、一般的なキャンバスというものは、木枠に画布を留めたものである。だから表と裏では全然違う。裏感がコインの比にならない。The裏って感じ。
いかに絵が上手でも裏の画布の折り返しがダボダボだとすごい残念に思ってしまうのだけれど、まぁ、これもどうでもいい話ね。
どうにも、絵に集中していないときの意識が散漫としているようだ。
文字化するとそういうところまで分かってしまうのが、嫌。
よくもまぁ、こんな媒体で何かを創ろうと思えるものね。恥ずかしくてたまらないわ。
……。
本題に戻ろう。
自分の過去や経験を振り返るというのは自由である。それはつまり、触れたくない過去に触れなくてもよいということだ。
やる自由と、やらない自由。
近現代において声高に叫ばれてきた人権のひとつ。
創作に関して積極的なはずである彼ではあるが、自身の創作のことになると臆病になっている今、自ら彼が書けなくなった決定的瞬間についての回想をするとは思えない。
そこでこの私の登場というわけだ。
都合の良いように使われているというわけだ。本当に気に食わない。
彼が目を覚ましたら無駄に筋の通った鼻にワサビチューブでも突っ込んでやろうかしら。
と、思って実際に買ってきたのはいいけれど……。
ワサビチューブ。一本298円。
それを手に意気揚々と病室に入る私は――いや、考えはすまい。
それがすべきことならば。
私は黙って彼の鼻の穴にわさびを突っ込むだけだ。
とはいえ、まぁそれは八つ当たりか。
私を使った主体は彼ではなくて、あの女なのだから。
とにかく。
回想をしよう。
私のではなく、彼の。
作家人生というものを。
彼がどのようにして生き、創ってきたのか。
そして歩くのを止めたのか。
是非とも知ってあげて欲しいとは、思う。
それを知ってもなお、私が彼の病室に見舞いに来てあげようと思えるくらいには、悪くないはずだから。
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