第十七話 あなたに送る精いっぱいの


 彼女は、静かに息を吸って、言った。


「私はね、私は、興味のない人間を嫌ったりしないの。分かるわよね。『自分を踏みつけにしてもいい』なんて言っておいて、ただのクラスメートに落ち着こうとしているのなら、私――あなたを殺すわ」


 冗談なんかじゃない。彼女は――天津風は本気で言っていた。言葉を選ぶように、ゆっくりと、はっきりと。彼女は必死だった。


「…………物騒だな」


「人間が他人と話すことって、あるようでないのよ。電車の中でもそう。あの奴隷船に運ばれる人間はたくさんいるけれど、誰かと喋っている人間なんて百分の一もいないでしょう? 基本的に他人と話すのは疲れるし、面倒。人間が生まれた頃から喋れないのって、きっと人間は喋るために生まれてきたわけじゃないからよ」


「いや、そりゃ分かんないだろ。喋れはしないけど泣きはするし」


 意思を伝えるために、と。

 しかし天津風は反論する。いつになく、饒舌に。


「泣いてコミュニケーションがとれるというのなら、別に電車で泣いたっていいじゃないの。わざわざ難しい言語を使う必要は無い。言葉なんて、言語なんて思考を縛り付ける枷でしかない。便利さを得る代わりに本質的な豊かさを失っている」


 言語は思考を規定するか。

 用はそういう言語学的なことを言っているのだろう。俺にはそんな高尚なことは分からないから、適当に誤魔化すように言葉を返す。

 まぁ、僕の立場としては、言語が思考を規定し決定するならば、僕はモノを書くときに苦労はしていないと思っているのだが、それはさておくとしよう。


「そりゃ、脳内イメージをそのまま伝えられれば苦労しないだろうけど、そんなこと出来ないから文字と言葉を使うんじゃないのか」


「そこまでして意思疎通を図る理由なんてあるのかしら」


「……そりゃ、人間は社会的な生き物だって言うし、現に話が通じないと買い物出来ないし、道も聞けないし、不便じゃないか」


「それは人間にとって大切な幼児期の大半を使ってまで言語を獲得するという労力に見合っていると言えるのかしら。そういう文化にあるからという理由でそれに従っているだけで、言語を習得せずに野性的に生きるという選択肢があるのなら、そちらを選ぶ人間も多かれ少なかれ存在すると思うの」


「うん。でもそこまでいくと、結局人それぞれっていう一番在り来たりな結論に行きつくんじゃないか」


 人それぞれ。

 それは議論における便利ワード。誰も傷つけず、何も壊さず、そして何も解決できない、必殺単語。


「そうね。私だってそんなチープな単語を使いたくは無い。でも、必ずしも答えが何かを解決するわけじゃないわ」


「なんだ、どうしたんだよ急に。お前そんなキャラだっけ」


 何かを言いたいがために長々と遠回りしているような、そんな台詞回しをするようなやつじゃなかったはずなのだが。

 いや、本当にそんなやつなのか、なんてことは俺にわかるはずもないんだけど。でも、それでも、やっぱり天津風が婉曲表現を好くような奴ではないのは確かだろう。

 絵描きらしく、言いたいことはズバッと見せる。

 魅せる。

 それが彼女であるはずだ。それが俺の定義した天津風夜霧であるはずだ。


「何が言いたいんだよ」


「それを問うのなら、壁ではなく、この私を見るべきではないのかしら」


「そのお前の言葉の息が後ろ髪にかかっているような状態で振り向いたら大事故だろ」


 実はさっきからくすぐったかったりする。というかここで振り向けるような胆力があれば俺は童貞なんてやっていない。


「確かに私は疲れている。だからこうしているというのは事実だと思うわよ。でも、本当にしたくないことは、しないものよ。女って」


「やっぱり、お前変だよ」


「私が変なのは今に始まったことではないでしょう」


「それを自信満々に言えるお前は、確かに普通じゃないという確証は持てた」


「……ほんと、あなたって臆病よね。すっかり暗くなっちゃって。あなたに一体何があって、何を見たのかは知らないけれど、気弱系主人公なんて、流行りじゃないわよ――」


 彼女は言って、ベッドの上をごそごそと動き出す。

 諦めてくれたのかと、俺は瞼の裏を眺めながらほっと胸を撫で下ろす(実際にしたわけではない)。

 が、どうやら天津風は諦めたわけではなかったようで、俺のご安心は俺の肩に触れた冷たい手の感触によってどこかへと行ってしまわれた。


 ぐっと肩を押されて、無理やり仰向けにさせられる。それはさながら甲殻類の体をひっくり返すように。

 半ば脊髄反射で瞼を開ける。豆電球のうすぼんやりとしたオレンジ色の光。今まで声だけだった彼女の輪郭が浮かび上がる。

 俺の体にのしかかる女の子の重み。まつげのしなりが分かるくらいの超至近距離で俺を見下ろす真っ黒な瞳。

 垂れ下がる黒髪が頬をくすぐる。俺と同じシャンプーのにおいがした。


「なにを……」


「私のこと、見えてる……?」


「み、見えてるに決まってんだろ」


 四つん這いのようなかっこうをしているせいで、パジャマ(妹の借り物)がだぼっと垂れて、白い胸元が覗いている。

 そんなところまで、よくよく見えているとも。


「そ、ならいいの」


 こんな密着状態でも、彼女の顔色は全く変わっていない。そんなに俺、男としての魅力が無いのかな、と心配になるくらいである。

 まぁ、無いからこんなこと出来るんだろうけど。こっちは心臓バクバクいってんだから勘弁してほしい。

 お前は違うんだから。


「……」


「…………」


 無言で、互いの吐息を交換する。

 熱くて、とろけそうな。


 ――彼女の大きな、淀みの無い瞳。


「な、何がしたいんだよ」


「私がすべきことよ」


「それ、答えになってないって」


「昨日の晩御飯は魚の塩焼きだったわ」


「……この状況がそれを言いたいがための盛大でチャチなボケだとしたら俺はお前を襲いかねないぞ」


 ちゃぶ台返しならぬベッド返しも辞さぬ心構えである。


「そんな度胸ないくせに、よく言うわ」


「……優しいっていってくれよ」


「女の子を襲わないって当たり前のことでしょう……?」


 確かにその通りだった。


「うっ……分かったよ、俺は度胸無しの青春弱者ですよ」


 俺は女子にのしかかられて、一体何を言わされているんだろうか。新手のプレイ?


「ふふっ、そうね。青春を送るって言って、結局それらしいこと何もされたことないものね」


「それは悪いと思ってる……でもお前が何やって満足するかなんて……」


「それを見つけるのが主人公の役目よ。頑張って頂戴」


「なぁ……やっぱ俺じゃなくてもっと――」


 言いかけて、


「人間が他人と話すことって、あるようでないの――」


 天津風は俺の台詞を遮るように言う。


「言葉って勝手なのよ。自分が考え出したわけでもないのに、皆まるで自分の言葉みたいに、話してくる。『すごい』『うまい』『へた』『いうほどでもない』なんて。本当に上っ面で、他人事。そんなことだけ言われるのなら、言葉なんて要らないと思っていた」


 彼女はしばらく目を閉じて、


「……あなたと話せたから、そんなことないと思えた――なんてことを言うつもりは無いわ。

 今でも言葉なんて嫌いよ。

 ヒトの情報入力の八割は視覚情報なんだと叫んでやりたいわ」


 でも。

 それでもと、彼女は続ける。


 彼女の吐息が、俺の唇を撫でる。


「あなたの言葉なら聞いてあげるわ。あなたの紡いだ言葉と文字なら、許してあげる。

 だから、あなたは書くべきよ」


 言って、天津風はその左手を俺の胸にのせて、まるで心臓を握りつぶすかのように、ぎゅっと掴む。掴まれる。痛い。


「このドクドクいってる心臓が止まるまで、あなたは書き続けるのよ。

 ――あなたは、そういう人間よ」


 彼女は笑う。

 それはまるで悪魔のような。

 凄惨に、非情に、三日月型に唇を歪ませる。


 言ってしまえば。

 率直に言ってしまえば。

 真にその気持ちを理解するのはこれより後の話になるけれど。


 俺はこの時初めて。 

 誰かに惚れたんだと思う。


 

 

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