第74話「淋しかった」

 帰宅後、カレンさんからの返信を待ったが、そもそも既読にすらならなかった。


 やはり日中の今はマックでバイト中なのかもしれない……でも、ついさっき、お嬢にお昼ごはんをご馳走になったばかりなので、今からマックには行けない、もうお腹いっぱいだ……


 ナナと福原ふくばらさんは帰宅後、二人きりでどこかに出かけてしまって、俺の相手はしてくれなかったし、家に一人、退屈きわまりなかった。


 仕方がないので、本でも読んで暇を潰すことにした。


 でも、いつカレンさんからラインが来るかわからない状況では気もそぞろで、読書に集中できそうもないので、過去に何度も読んだことのある、志賀直哉しがなおやの「城の崎にて」を、畳に寝転びながら、また読んだ。


 何回読んでも、志賀直哉の簡潔的確な文体こそが俺の理想の文体だった。


 昨今は華美かびな装飾に満ちた文章がもてはやされがちだが、そんな虚飾に満ちた空疎な文章よりも、誰もが知っている平易な言葉で的確に書かれた写生文の方が、俺の目にはよっぽど魅力的に映った。


 でも最近の人たちは、自分でも書けそうな平易な文章よりも、自分では書けなさそうな過美かびな文章の方をお好みなさるらしい……そんな雅文がぶん、日本人は100年ほど前に捨てたはずなのに、平和な時代に、雅文が再び目を覚まして、写生文の領土を侵食しているというわけか……


 でも、小説の華美な装飾を好む人たちが、ヴェルレーヌやマラルメの象徴詩を読んだところで、「何言ってるかわかんない」の一語で切って捨てるのだろう。


 淋しかった。


 自分の価値観や美意識が、世の中の大半の人のそれと違うというのを思い知ることは淋しかった。


 しかし、それはいかにも……







 結局、俺は「城の崎にて」を読みながら寝落ちしていて、いつものように夕飯を作りに来たチカさんに起こされて、ようやく目覚めた。


 カレンさんからの返信は夜も遅くになってようやく届いた。


「ごめんね、今日はずっとバイトしてたから、返信遅くなっちゃった。サトシくんは今日、何してたの?」


 もう寝ようとベッドに入った時に、ようやくカレンさんからの返信が届いたのが嬉しくて、俺はライン上でカレンさんとの会話を楽しむことにした。


「母校が高校野球山口県大会の決勝に進出したので応援に行ってました。まあ、負けましたけど……」


「ちょっと待って……野球で決勝に行ったって……サトシくんってヤマダ学園の生徒だったの?」


「そうですよ。言ってませんでしたっけ?」


「すごい。イケメンな上に、頭もいいとかハイスペックすぎじゃん、サトシくん」


「別にイケメンじゃないし、成績は真ん中ぐらいなんで、頭もそんなによくはないですよ」


「それでもうちよりはいいでしょう? うちは商工高校出身だからさぁ……」


「そんなこと言ったら、全国の商工高校の人に怒られるのでは?」


「だってヤマダ学園は毎年、東大京大現役合格者を出してる超進学校でしょ? それと比べたら、商工高校なんて……そんなことより、サトシくんは明日、暇?」


「特に予定はないですね」


「だったらマックに来てよ。うち、明日もシフト入れてるからさ」


「でも……」


「別にマックだからって、絶対ハンバーガー頼まなきゃいけないわけじゃないよ。ドリンクだけ頼んで居座る人も結構いるよ。おやつの時間にでもおいでよ」


「なるほど……わかりました。じゃあ明日、伺いますね」


「うん、待ってる。じゃあ、今日はもう遅いし、この辺でね」


「はい、また明日」


 カレンさんとのライン会話はここで終わった。


 昼にガッツリ寝落ちしたのと、明日カレンさんに会えるのだという興奮とで、この日は寝つくのに苦労したし、ようやく寝てもすぐに目が覚めてしまって困った。







「うん……うん……うん……」


 夜中に目が覚めて、トイレに行こうと廊下に出たら、女性の嬌声きょうせいが聞こえた。


 また親父がデカい音でエロ動画でも見てるのかと思ったが……


「うっ……慶彦よしひこさん……」


 その嬌声が親父の名前を呼んだことによって、それを出しているのがチカさんであるということに気づき、さほど切羽詰まっていなかった俺はトイレに行くのを諦め、親父とチカさんに気づかれないよう、静かに自分の部屋に引き返した。


 そしてベッドの中に潜って、思っていた。


「俺もうまいことやれば、この夏休みの間に、カレンさんの嬌声を聞けるのではあるまいか?」と……


 そして頭の中で、果てしないエロ妄想を繰り広げながら目を閉じていると、ようやく熟睡することができた。


 もちろん寝小便などはしていない……するわけねぇ!!







「坊っちゃん。今日もお昼からお出かけになるんですか?」


「うん、暑いからね。どこかに涼みに行かないとやってられないよ」


「そうですねー。今日も暑いですね」


 山口県大会決勝の翌日、いつものようにチカさんの作ってくれた昼食をいただきながら、チカさんととりとめのない話をしていた。


 今、目の前にいるチカさんが、昨日の夜、親父に抱かれて嬌声をあげていたというのか……親父に抱かれたからと言って、チカさんはいつもと一緒で、変わったところなど何もない……俺も別に、そういう声を聞いたからとて「お父様、不潔よ。嫌い」などと、昔の女学生みたいなことを思うわけもなく、むしろ「健全でよろしいじゃありませんか」ぐらいに思っていて……


「坊っちゃん? どうかしましたか? 私の顔に何かついてますか?」


「いや、別に……」


 俺は自分の気づかないうちに、チカさんのことを見つめてしまっていたらしく、不振がられてしまった。


 それをごまかすために、俺はチカさんとの会話を打ち切って、ごはんを食べることに集中した。






 その日もいつものように、あちらこちらのお店で暇を潰してから、15時頃にマックに向かった。


 俺は普段、おこづかいの大半を本や漫画の購入費にあてていて、飲食費にあてることはまったくなかった。


 飲食は家でいくらでも自由にできるのだから、外でするのはもったいないと思っていた。


 しかし、たかが数百円の出費で、カレンさんと会って話ができるというのならば、貴重なおこづかいを飲食費に使っても惜しくはないと思った。


「いらっしゃいませー、店内でお召し上がりですかー?……って、アーニー? アーニーじゃないか、久しぶりだなぁ」


「え? ウーター先輩?」


 マックに入った俺を出迎えた店員はカレンさんではなくて、ウィメンズ・ティー・パーティーのギタリストにして、マッチの姉のウーター先輩だった。

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