第58話「春雨じゃ、濡れて参ろう」
結局、キスされたあの日からサアヤさんに出会うことも会話することもなく、わざと雨に濡れたことや、不意打ちのキスの真意を尋ねることもできないまま、クレナお嬢と広島に行く日を迎えてしまった。
もちろん親父は、俺の広島行きを反対しなかった。
前回と同じように、我が池川家の家訓であるらしい「金持ちと政治家からは、搾れるだけ搾り取れ」を理由に、もろ手をあげて賛成してくれた。
この日のクレナお嬢は朝の10時頃に迎えに来て、今回もすでにカーズのユニフォームを着ていた。
今日の試合も13時半プレーボールのデーゲームだが、今回は試合前の観光はしないのか、前回よりは遅い時間に迎えに来たので、正直、助かった。
玄関で見送る親父には「今日の宝塚記念のキタサンブラック、勝つと思う?」と問われたので、「負けたらビックリするよ」と答えてから、クレナお嬢の車に乗り込んだ。
今回もやはり、右手にクレナお嬢、左手にロバータ卿に挟まれた真ん中の席に座らされた。もちろん、クレナお嬢お付きの爺やのそごうさんは助手席に座っていた。
前回と同じように、車で徳山駅まで行って、そこからはのぞみのグリーン車で広島駅に向かったわけだが、俺にはひとつだけ懸念があった。
俺は隣の窓側の席に座っているクレナお嬢に、その懸念を伝えてみることにした。
「あのさあ、お嬢」
「なんですの? サトシ様」
「今日、試合あるかな? 朝からめっちゃ雨降ってるんだけど……」
「ホホホホホ、サトシ様、ご安心なさいませ。最近のプロ野球は安易に試合を中止にすると、秋に大変なことになるので、たとえ試合前に雨が降っていても、試合の時間にやんでいれば、試合を強行するんですのよ」
「ふーん、そうなんだ」
たしかに親父も「最近のプロ野球の試合は中止にならねえよなぁ。昔はちょっとでも雨が降れば、すぐ中止にしたのになぁ」と言っていたような気がする。
でも、スマホの天気アプリで見た、今日の広島市の降水確率、100%だったんだけど……しかも、午後から雨足が強まるとか書いてあったんだけど……
徳山から広島までは、のぞみだとたったの21分で着くので、クレナお嬢と話しているうちに、すぐ着いてしまった。
前回も思ったけど、たかが21分なのに、グリーン車に乗らずにはいられない、お金持ちって、すごいよな、ホント……
そして前回と同じように、広島駅前に現れた黒塗りの高級車に乗って、球場に行き、前回と同じ関係者出入口から、VIPルームに入ったのだが、雨足は弱まるどころか、強くなる一方だった。
「雨、やまないね……」
「いやいや、サトシ様。まだ12時にもなっていませんわよ。試合が始まるまで、まだ1時間半以上あるのですから、試合の時間までにはきっと、やみますわ」
クレナお嬢に言われて、腕時計を見てみたら、時刻は11時45分頃だった。
他にすることが何もないので、クレナお嬢やロバータ卿と談笑しつつ、注文して出してもらったコーラを飲みながら暇を潰していたが、雨は予報通りに強くなる一方で、ついに12時半頃、まさかの試合中止が発表されてしまった。
「そ、そんな……」
俺も試合中止を残念に思っていたが、俺以上にクレナお嬢の方が落胆していたものだから、慰め、励まさなければならなかった。
「ま、まあまあ……こればっかりは誰が悪いってわけでもないし……」
「でも、サトシ様に、我がカーズがバッカルーズに勝つところをお見せしようと思っていましたのに……」
「いくら、今のカーズが強くても、雨には勝てないから仕方がないよ」
俺が慰めたあと、ロバータ卿も英語で、落ち込むクレナお嬢を慰め始め、俺にはわからないその言葉が功を奏したのか、しばらくうつむいていたクレナお嬢が、ようやく前を向いた。
「たしかにこればっかりはどうしようもありませんし、今日はこれから広島観光をすることにいたしましょうか。ロバータ卿が行きたがっていた平和記念資料館にでも行きましょう。よろしいですか? サトシ様」
「あ……ああ……」
正直、俺は平和記念資料館には行きたくなかったし、何より他にもっと行きたい場所があった。
「どうかしましたか? サトシ様」
珍しく即答しない俺を不思議に思ったらしい、クレナお嬢が問いかけてきた。
「いや、俺はせっかく、広島に来たんだから、おじいちゃんおばあちゃんちに行こうかなーって思うんだけど……久しぶりに会ってみたくてさ」
「おじいさまのお宅に? たしか安佐北区(あさきたく)にあったんでしたっけ?」
「うん、よく覚えてるね」
「ならば、わたくしもご一緒いたしますわ」
「あ?」
クレナお嬢も、どっかの誰かみたいに突然、俺の予想外のことを言い出した。
「やはり未来の嫁といたしましては、今のうちからサトシ様のおじいさまおばあさまにご挨拶しておくべきかと……」
いや、勘弁してくれよ……なんで、俺の周りの女子たちはみんな思い込みや決めつけが激しいのやら……
「いや、それはちょっと……」
「お嬢様、なりませぬ」
そうは思いつつも、スキル「きっぱり断る」を搭載していない俺に助け船を出してくれたのは、まさかのそごうさんだった。
「なりませぬとはなぜですの? 十河(そごう)」
「池川様は久しぶりにおじいさまおばあさまにお会いになるのです。せっかくの家族団欒を他人が邪魔してはいけません。それにお嬢様が安佐北区に行ってしまっては、ロバータ卿が一人になってしまわれるではありませんか」
なぜか知らないが、そごうさんは俺が言いたいことをおおむね代弁してくれた。
「サトシ様。サトシ様はやはり、お一人でおじいさまのおうちへゆかれたいのですか?」
「うん、そりゃまあ、いきなり女の子を連れていったら、おじいちゃんおばあちゃんも驚くだろうし、できれば一人の方がね……」
そごうさんのおかげで力を得た俺は、自分の言いたいことをちゃんと言えた。
クレナお嬢がカノジョだったら連れていくのもやぶさかではないが、現状、ただの友達なのに連れていっても、おじいちゃんおばあちゃんになんと説明してよいのやらわからない……
「そうですか……わかりました。サトシ様がそうおっしゃるのであれば、わたくし、お邪魔はいたしませんわ。本日は大人しく、ロバータ卿と広島観光を楽しみます」
「うん、そうしてくれると助かるね……」
クレナお嬢はそごうさんのことを信頼しているのか、そごうさんの進言をあっさりと受け入れ、無茶な願いをすぐに取り下げてくれた。
VIPルームを退室する時、そごうさんは俺に向かってウインクをしてきて、俺は無意識のうちに頭を下げて、お礼をしていた。
そごうさん、あなたってやればできる人だったんですね、今までただのモブおじいさんだと思っていて、ごめんなさい……申し訳ない……
「ハルサメジャ、ヌレテマイロウ」
「いや春じゃねーし、よくそんな言葉知ってんな」
球場から広島駅まではやっぱり徒歩ではなく車で行ったのだが、広島駅に着いた時、空から降る雨を眺めていたロバータ卿が、思いもよらぬセリフを言ったから、俺はツッコまずにはいられなかった。
「ハッハッハッ、Satoshi(サトシ) Summer(サマー)ハジダイゲキ、オスキデスカー?」
「嫌いじゃないけど、マニアックすぎだろ、月形半平太(つきがたはんぺいた)って……いつの時代の、時代劇ヒーローだよ……」
「ツキガタハンペイタハ、イギリスデイエバ、トム・ジョーンズミタイナモノネ、ハッハッハッ……」
「あ? トム・ジョーンズ? よくあることサ? 恋はメキ・メキ?」
「それじゃあサトシ様、私たちはこれで。帰りは18時にここで待ち合わせということで……」
「うん」
俺がロバータ卿の言っていることを理解できずに戸惑っていると、クレナお嬢がいったんお別れの言葉を告げてきて、自ら傘をさしていたクレナお嬢とロバータ卿は、歩いて路面電車乗り場の方に消えていった。
上流階級の方々は自分で傘なんかささず、従者のそごうさんに傘を持たせるものとばかり思っていたが、クレナお嬢とロバータ卿はそうではなかった。
俺は俺で、そごうさんが貸してくれた傘を手に、広島駅の在来線乗り場にたどり着いていた。
とりあえず、まずしないといけないことは、おじいちゃんおばあちゃんちに電話をして、アポを取ることだった。
「あ、もしもし、おばあちゃん? サトシだけど……うん、久しぶり。あのね、今日、友達と広島に野球見に来たんだけどね、雨で中止になっちゃって、それで今からおばあちゃんちに行こうかなーって思って、電話かけたんだけど……うん……うん……今、広島駅にいてさ、新しくできた、あき亀山駅までは電車で行くから、そこまで車で迎えに来てくれない? うん、多分2時ぐらいに着くはずだから、うん……はい、よろしくお願いしまーす。それじゃあ、またあとで……」
無事にアポが取れたので、俺はそごうさんが「ご自由にお使いください」と言って、渡してくれたICカードを使って、自動改札を抜けた。
なんの気なしに残高を見たら、上限の2万円きっかり入っていて、「やっぱり金持ちってすげーな」と思わずにはいられなかった……まあ、その2万円を全部使い切ってやろうとか、そんな悪どいことは俺は思わないけどね……
おじいちゃんおばあちゃんちのある安佐北区へは可部線(かべせん)という路線に乗って行くので、俺は可部線が発着すると、電光掲示板に書いてある4番線ホームへと向かった。
そしてすでにホームに入っていた、あき亀山行きの普通電車に乗り込もうとした時、なくしたら大変だと思って手に持っていたICカードをうっかり落としてしまったので、あわてて立ち止まって拾ったら、俺の後ろにいて、走って電車を乗り込もうとしていた人とぶつかってしまった。
「いてててて……」
俺も痛かったが、ぶつかった女性がホームに尻餅ついていたので、俺は起こしてあげようと、手を差しのべた。
「あ……ああ……すいません、ごめんなさい、大丈夫ですか?……って、サアヤさん!?」
俺が手を差しのべた女性は、カーズの帽子を目深に被り、6月だというのにマスクを装着して、口元を隠している怪しい女性だったが、その特徴的な目元を見ればサアヤさんだということが、俺にははっきりわかった。
なんでここにサアヤさんが?
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