第56話「ファースト・キッス」
「坊っちゃん、こちらの方は?」
いつもなら8時近くにならないと帰ってこないのに、今日はなぜかいつもより早く帰ってきたチカさんが、俺の部屋にいたサアヤさんのことを見て、尋ねてきた。
「あ……ああー!! 友達がね、この雨のせいで制服濡らしちゃったらしくて、それで乾燥機使って乾かしてるんだよ、そう、友達がね! 友達が!!」
よく考えれば、おっぱいを触るのが未遂に終わったってことはつまり、やましいことなど何もないということなので、俺はチカさんに真実を述べた。
そう、真実……なんにも嘘はついていない……
もちろん、「おっぱいフレンド」のことなどチカさんに言えるはずもないし、言う必要もない……だって、触ってないんだもん!!
「友達?」
「こ、こんにちは……」
サアヤさんがまた嫉妬の炎を燃やして、チカさんに食ってかかったらどうしようかと思っていたが、大人しく挨拶してくれたので、俺は安堵した。
「ああ、なるほど……坊っちゃん、高校でイケメンの友達ができたみたいでよかったですね」
「あ? イケメン?」
俺はチカさんが何を言っているのか理解できなかったが、改めてサアヤさんの姿を確認して納得した。
どうやらチカさんは、ベリーショートのサアヤさんを見て、男子だと勘違いしてしまったらしい。
制服姿なり、もっと体にフィットした服を着ていればそんな勘違いするわけもないのだが、今のサアヤさんは俺のパジャマを着ていて、体のラインが出ていないので、勘違いするのも無理はないのかもしれない……いや、声聞きゃあわかりそうなもんだけど……挨拶だけではわからないものなのか……なぁ?
「それじゃあ、私、1階で料理してるんで、何かあったら呼んでくださいね」
「う……うん……」
俺が男友達と一緒にいると思い込んだチカさんはあっさりと1階に帰っていって、誤解を解く暇もなかった。
まあ、無理に解く必要のない誤解のような気もするので、別にいっか……
「ねえ、サトシくん。今の人、誰?」
チカさんが去るなり、サアヤさんが質問してきたが、
「誰って、親父の恋人のチカさんですよ」
俺とチカさんとの間にやましいことなど何もないので、特に動揺することもなく、普通に答えた。
「お父さんの……恋人?」
「ええ、そうです。いずれは親父と結婚して、俺の継母(ままはは)になるであろう人ですよ」
「そうなんだ、ふーん……ねえ、大丈夫? あの人、お父さんだけじゃなくて、サトシくんのことも誘惑してきたりしてない? 親子両方食っちゃおうとか、そういうエロいこと考えるような人じゃないよね?」
サアヤさんの妄想力には、ほとほとうんざりだった。
「エロ漫画じゃないんだから、そんな人、実在してるわけがないでしょう!! あんた、ホントにエロゲ脳だな!!」
「エ……エロゲノウ? 何それ? おいしいの?」
うんざりだから、ついつい強めのツッコミをしてしまったが、サアヤさんはすっとぼけるばっかりで、まったくこれっぽっちもダメージを与えることはできなかったみたいだった。
「と、とにかく、チカさんとは子供の頃からの付き合いなんで、悪く言わないでくださいよ」
ここでこれ以上ツッコんでも無意味だと思った俺は話を変えようとしたが、
「やっぱり付き合ってるんじゃん!」
どうやら言葉の選択を誤ったようだった。
「いや、そういう意味じゃなくて、子供の頃からずっと知り合いだったって意味で……」
「はあーあ、うらやましいなー、私もサトシくんと子供の頃からの知り合いでいたかったよ。もし本当にそうだったら、今頃はおっぱいフレンド以上の関係になれていただろうに……」
その「おっぱいフレンド」ってのも、サアヤさんのエロゲ脳が生み出した言葉なんだろうなぁ……と思いつつも、そんなこと口に出したら、また変なこと言われそうで嫌だから黙っていた。
「でも……そっか……私が将来サトシくんと結婚したら、あの人が私のお姑さんになるんだねー。それは仲良くしないとだよねー」
もはやツッコんだら負けのような気がしてきて、この発言も無視することにした。
「ところでサトシくんさー、どうする?」
「どうするって何がですか?」
「さっきの続き……する?」
サアヤさんが再び、パジャマを引っ張りながら、俺に迫ってきた。
「う……お……俺……ちょっとトイレに行ってきます!」
「ああ、サトシくん! 出したいんなら、私が出してあげるのに……」
「だから、あんた、エロゲ脳!!」
「エロゲノウ? 何それ? おいしいの?」
「もういいよ、そのくだり!」
俺はサアヤさんの魔の手から逃れるため、トイレに駆け込んで、心を落ち着けた。
心を落ち着けるために便座に座っただけで、別になんにも出してはいない……
本当に……
「あ、サトシくん、おかえりー。えーと……何、何? 『君のこと永遠に愛さないかもね……でも夜空に星が輝く限り、僕は君を不安にさせたりしない。どんな時でも安心させてあげるよ。君なしの僕がどうなってしまうのか、知っているのは神様だけさ……』」
「た……ただいま……って、何、勝手にノート読んでるんですか!?」
心を落ち着けてトイレから帰ってきたら、俺の部屋を家捜しでもしたらしいサアヤさんが、俺のノートを勝手に読んでいたので、あわてて奪い取ろうとしたが、ひらりとかわされて、奪い取ることはできなかった。
「ねえねえ、この詩ってサトシくんが書いたのー?」
「そ、それは自分の好きな洋楽の曲の歌詞を、自分なりに翻訳しただけで、俺の書いた詩じゃないですよ……」
「ふーん……じゃあ、こっちの『夜空の月が日に日に丸くなるように、君の胸も日に日に丸くなって、僕の心を焼け焦がす』っていうのも翻訳なのー?」
「そ……それは……その……」
「これはサトシくんが書いたやつだよねー」
「は……はい」
「やっぱり……サトシくん、詩の中でもおっぱいの話してるなんて、本当におっぱい大好きなんだねー。マジでおっぱい星人じゃーん」
お……終わった……そんな黒歴史確定ノートはもっと簡単には見つけられないところに隠しておくべきであった……
「ねえ、サトシくん。お願いがあるんだけど……」
「な……なんですか? 言っときますけど、そのノートを盾に脅しても、俺はサアヤさんのおっぱいは揉みませんからね!」
「え? おっぱい? なんの話してるの? サトシくんのエッチ! 私のことそういう目で見てたの? ひどい……私の体だけが目当てだったのね!!」
「いや、おっぱい揉めって、散々言ってきたのはあんたの方でしょうが!!」
「そんなことより、サトシくん。詩を書くんだったら、今度ぜひ私の書いた曲に詞をつけてほしいんだけど」
サアヤさんは俺が的確にツッコむと、無視して話を変えてしまう女だった。
そして、その変えた話の内容はいつだって、俺の想定をはるかに越えていた。
「え? サアヤさんの曲に、俺が詞を……」
「うん、そうだよ。二人で一緒に曲を作ってみない?」
「曲を……?」
先程までのエロ発言が嘘のように、サアヤさんは真面目な顔で話をしていた。
「うん、私ね、詞を書くセンスがないなって、自分でもわかってるの。だから詞は他の人に書いてほしいなってずっと思ってたの。でも書いてくれる人がいなくて……」
「だからって、なんで俺に? マッチとかパーラーに頼めばいいじゃないですか」
「頼んだけど、『めんどくさいからやだ』って断られたんだよー」
それは意外だ……パーラーはともかく、マッチは詩を読むのが好きだから、自分でも詩を書くのかと思っていたのだが……
マッチはいわゆる「読み専」ってやつで、自分では詩を書かないタイプの女なのだろうか?
「あっ、そうだよ、サトシくん。プレーヤーじゃなくてクリエイターとして……作詞家として軽音部に入部すればいいんじゃない?」
またまたサアヤさんは、俺が決して取れそうもないコースにボールを放り投げてきた。
「作詞家として軽音部に入部」なんてありなのか?
「え? 作詞家? 俺が? そんな……俺はただ、趣味で自分勝手な詩を書いてるだけで、人に見せられるようなものは何も書いてないのに……」
「今はそうかもしれないけど、これから私たちと一緒に勉強して、人に見せられるような詞を書けるようになればいいじゃない。ねっ、入っちゃおうよ。サトシくんなら、みんな入部を歓迎してくれるはずだよ!」
「うーん……」
今まで散々軽音部入部を渋ってきた俺だが、今日は入部してもいいかなという気持ちになっていた。
なぜならば、軽音部に入部すれば、モエピと会話できるんじゃないかと思ってしまったからだ。
教室では周りをくせ者たちに囲まれていて話すのが困難なモエピと、軽音部でならもっと気軽に話せるのではないかと……まあ、その、くせ者のうち二人は軽音部にもいるわけだけれども……さらに言えば、教室にはいない最大のくせ者が軽音部にいるのだけれども……
「が……楽器弾かなくてもいいんなら、入ってもいい……かも?」
「ホ、ホントに!? じゃあ入ろう! 明日にでも入ろう!!」
「い……いや、まだ入ると決めたわけでは……」
しかし、サアヤさんにまたしてもグイグイと迫られてしまって、俺はモエピにひかれて、少しでも態度を軟化させてしまったことを、早々に後悔した。
「もうー、おっぱいの時と言い、優柔不断だなー。早く決断しないから、結局おっぱい触れなかったんだよ。同じ失敗を繰り返すの? サトシくん!! さっさと軽音部に入っちゃいなよ!!」
「ええ……」
「坊っちゃん、お友達の服、乾きましたよー!」
「あ、はーい!」
俺がサアヤさんの圧力に押されていると、1階からチカさんの声が聞こえてきたので、俺は部屋を抜け出す口実にした。
「あ、サトシくん。服乾いたんなら、私、自分で取りに行くよ」
「いや、大丈夫です! 俺が取ってくるんで、サアヤさんは部屋にいてください」
「ええ……でも……」
俺はサアヤさんの言葉を無視して、一人で1階に降りた。
そして乾燥機の中から、サアヤさんの制服を取り出したわけだが、その時に気づいた。
乾燥機の中には、サアヤさんのブラとパンツも入っていたということを……
チカさんに、実はサアヤさんが女子であることがバレると、いろいろとまずいことになるのではないかと思って、サアヤさんを部屋に置いてきたわけだが、どうやら悪手だったようだ。
でも、もうどうしようもないので、直接触らないように、ブラウスとスカートでブラとパンツを挟み、なんとか無事、部屋に持ち帰ることに成功した。
「はい、サアヤさん。これで用は済んだでしょう。さっさと着替えて、帰ってくださいね」
俺は、1階にチカさんがいる状態で、サアヤさんにこれ以上、迫られたくなかったので、帰宅を促した。
「えー、なんか冷たくなーい? ていうか、サトシくん、私のブラとパンツになんか変なことしてないよねー?」
「してませんよ! そもそも触ってもいません!!」
「ホントにー?」
「ホントです! ていうか、もう帰った方がいいでしょう。もうすぐ7時半ですよ!」
「そっか……もうそんな時間なんだー。じゃあ、しょうがないなー」
「だから俺の前で着替えないでくださいってば!!」
サアヤさんはやっぱり、俺がいてもお構い無しに着替えようと、パジャマに手をかけ、おへそがチラリしたので、俺はあわてて部屋を出ていった。
出ていかなければ、サアヤさんのおっぱいや乳首が見られたのかなとか思いつつ……
「サトシくん、今日は本当にありがとうね。乾燥機貸してくれて助かったよ。それじゃあ、また明日ね」
「はい、また明日」
俺は、無事に制服に着替えたサアヤさんを見送るために玄関に来ていた。
「あ、よかった。もう雨やんでるー」
玄関のドアを開けたサアヤさんは、すっかり暗くなった空を見上げて、安堵の表情を浮かべていた。
「あ、そうだ。サトシくん、ちょっと……」
「な、なんですか?」
サアヤさんが手招きするものだから、俺が顔を近づけてみると……
「ん……」
サアヤさんも顔を近づけてきて、サアヤさんの唇と、俺の唇が重なった。
サアヤさんの柔らかくて甘い唇が、俺の唇とひとつになって……
ん? 唇と唇が重なってひとつになる?
これってたしか……キスっていうんだっけ?
キ!……キスだとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!
「な……な……な……なんですか、急に!!」
まったく思いもよらぬタイミングで、不意討ちにキスされてしまった俺は、サアヤさんが唇を離すなり、抗議の声をあげた。
「えー? 言ったでしょ。女の子は友達同士でも普通にキスしたりするんだよ。私とサトシくんは友達だから、別にキスぐらいしてもいっかなって思って……」
「だから俺は男だと常々申しておるのに……」
「バイバーイ」
サアヤさんは俺の抗議を聞き終えることなく、玄関のドアを閉めて、帰っていった。
なんてこったい……
ファーストキスだったのに……
初めては当然、自分からするものとばかり思って生きてきたのに、まさか女の子の方から奪われてしまうとは……
それにしても、サアヤさんの唇、柔らかかったなぁ……甘くて、プルプル……
「坊っちゃん?」
「うわぁっ!!」
サアヤさんに唇を奪われて動揺していた俺に、いつの間にか玄関に来ていたチカさんが話しかけてきたので、俺はビックリして、大声をあげてしまった。
「だ……大丈夫ですか?」
「べ……別に大丈夫だけど……チカさん……ひょっとして今の見てた?」
「え……ええ……まあ……坊っちゃんのお友達が帰られるのなら、お見送りしなければと思って来ちゃったんですけど、ごめんなさい、お邪魔だったみたいですね」
な……なんというこっちゃい……
「でも大丈夫ですよ、坊っちゃん。坊っちゃんがどんな性的指向を持っていたとしても、私は絶対、坊っちゃんの味方ですからね」
「あ?」
「同性同士の恋は困難も多いかもしれませんけど、私は応援してますよ、坊っちゃん。何かあったら、いつでも相談してくださいね」
「え? 同性?」
「安心してください、このことはお父さんには内緒にしておきますから……」
チカさんは自分の言いたいことだけ言って、キッチンへ戻っていき、俺は玄関で一人になった。
しばらくチカさんが何を言っているのか、さっぱりわからなかったが、しばらく考えているうちに、ようやく理解した。
どうやら、サアヤさんがベリーショートのイケメン女子になったせいで、チカさんに「俺が同性愛者であり、男とキスしていた」と盛大に勘違いをされてしまったようである。
制服を見れば、サアヤさんが女子だってことは一目瞭然のはずだが、俺の影になっていたせいで、チカさんにはサアヤさんが着ている服が見えなかったのかもしれない。
でもサアヤさんは「女の子同士なら云々」と言っていたはずだが、それはチカさんには聞こえなかったのだろうか? それとも、オネエ言葉でしゃべるタイプの男子だと誤解したのか?
なんにせよ、未来の継母に、俺が同性愛者だと誤解されたままなのはまずかろう……
まずかろうとは思うけれども、サアヤさんが女子であることを伝えたとしても、「またまた……私には嘘をつかなくていいんですよ」とか言われてしまいそうだし、仮に信じてもらえたとしても、それはそれで「ついに坊っちゃんにも彼女ができたんですね。我がことのように嬉しいですよ」とか言われてしまいそうである。
それはそれで誤解だ……俺とサアヤさんは付き合ってるわけじゃないからな……
だからと言って、「付き合ってもないのに、むりやり唇を奪われた」と真実を述べてしまうと、「坊っちゃんが嫌がってるのに、むりやり唇を奪うようなストーカー女は私が成敗して差し上げます」とか言いそうである、チカさんなら。
結局、俺はチカさんに何も言わずに、部屋に戻ってしまった。
それが一番、波風立てずに済む方法なのではないかと思ったからだ。
チカさんの誤解はいずれ解かなければならないが、今はその時ではないような気がした。
それに、むりやりサアヤさんに唇を奪われても、別に嫌な気分はしなかった。
余計なことを言って、サアヤさんが池川家出禁になるのは避けたいなどと思ってしまっていた。
なんだよ……結局、俺って、チョロい男じゃないか……
情けないな……
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