第54話「サトシくん、助けて……」
4月はヤマダ学園に入学していろんな人たちと出会ったし、5月はゴールデンウィークがあったから長く感じたが、6月は祝日もないし、いつも通り学校に通って、勉強に四苦八苦しているうちに、一瞬で中旬になってしまい、気がついた時にはもう梅雨入りしていた。
山口県は中国地方だが、地方気象台があるのが、ほとんど九州の下関だからか、梅雨入り発表の時は「九州北部(山口県を含む)」「中国地方(山口県を除く)」などと表記されてしまうのであるが、まあ、そんなこと、山口県民以外は気にしたこともないだろう。
でも、同じ山口県でも、ほとんど広島県の
「
不思議なもので、ナナのフォロワーが増えていくごとに、俺のナナへの恋心は薄れていった。
これはマイナーなアイドルを応援していたオタクが、そのアイドルが急にブレイクして、メジャーな存在になってしまった時に感じるという「遠くへ行ってしまった」的な感情と、似たようなものなのではないかと思っている。
たしかに今のナナは、俺にとってはもはや雲の上のような存在で、まさに「遠くへ行ってしまっ」ていた。
その上、今も忘れることのできない、ナナの描いたあの濃厚百合エッチシーン。
あれを思い出す度に、俺のナナへの恋心はどんどん霧散してしまっていた。
別に俺が処女厨で、「
ただ、百合漫画について、ネットやツイッターで調べている時にたまに出てくる「百合ップルを邪魔する男は死刑」なる言葉に洗脳されてしまっただけだ。
俺はまだ死にたくないし、濃厚百合エッチシーンに表れていたナナの欲望、ナナがそういうことしたいのは女性だけなのだという真実を思い知らされれば、さすがに諦めがついた。
だからと言って、ナナのことを避けたり、無視したりはしておらず、会えば普通に話をする。
結局は俺が告白する前の「仲のいい幼なじみ」に無事戻ることができたということだ。
そういう意味では「鯛なまこ先生」の描いた濃厚百合エッチシーンには感謝しないといけないのかもね……それにしても、ホント、ダッセェよなぁー、このペンネーム……
そんなわけで、ナナへの恋心がほとんど消えてしまった俺が、新たに意識するようになったのはモエピだった。
あの自称・天神さまに「押せばチャンスはあるんじゃない?」と言われてからなぜか、それまで普通の女と思っていたモエピのことが気になって気になってしょうがない。
しかし、モエピの席ははるか彼方。
俺の席は一番後ろの窓側、一方でモエピの席は一番前の廊下側。
なんとも思っていなかった時は、モエピの方から話しかけてきてくれたり、俺からモエピに話しかけたりしたものだが、意識するようになってからは、まったく会話ができなくなってしまっていて、ただ遠くの席にいるモエピのことを見つめるだけになってた。
相変わらず、友達がいないみたいで、休み時間はだいたい一人のモエピ。
ならば俺に話しかけてくれればいいのに……ああ、もっと近くの席だったら自然に話しかけることもできただろうに……
でも仮に、モエピの席が俺の席の近くだったとしても、クレナお嬢、パーラー、ロバータ卿、マッチに囲まれたこの席では、控えめなモエピと会話するのは至難の業なのではないかとも思う。
将棋で例えるならば、俺は穴熊にこもる玉将のようなもので、モエピ一人だけでは攻略するのは難しかろう。
ならば人知を越えた力に頼るしかないと、あの自称・天神さまが勝手につけたという「ビッグイヤー」なるスキルに期待してみたが、そのスキルはモエピの声をまったく聞き取ってはくれなかった。
自称・天神さまいわく「ビッグイヤー」は、自分にとって嬉しいことや、聞いといた方があとあと助かるようなことだけが聞こえ、どうでもいいことや自分の悪口などの不都合なことは聞こえないようになっている、便利で、得しかしないスキルであるらしい。
ということはつまり、モエピは俺が聞いて喜ぶようなことをまったく話していないということなのだろう……もしくはひそかに俺の悪口を言っているのかもしれない?
やっぱりモエピの眼中には俺なんて入っていないのだろうか……
つくづく、俺という男は叶わない恋をしたがる男なのだなと、自分で自分に呆れてしまう。
大人しく、自分のことを好きなサアヤさんかクレナお嬢のどっちかのことを好きになって付き合えば楽なのに、過去何度も「池川くんのことは好みのタイプでもなんでもない」と断言されているモエピに心が傾いてしまうなんて、本当にバカだね……
ところで、サアヤさんと言えば、俺のせいで髪を短くした結果、女子人気が急上昇してしまったらしい。
それまではバンドのボーカルという目立つポジションだったせいで、一部の女子には「ビッチ」などと汚い言葉を使われてしまうほどに嫌われていたらしいのだが、髪を短くして、イケメン女子化したとたん、その嫌っていた女子たちが、みんなてのひらを返して、サアヤさんのファンになったというのだ、パーラーいわく。
これぞまさに、怪我の功名というやつか……「鯛なまこ先生」のことと言い、本当に世の中、何がいい方に転ぶのかちっともわからなくて、困っちゃうね……
そんな6月中旬のある日、その日は夕方になってから突然、激しい雨が降り始めたので、どこにも寄り道することなく帰宅した。
いつもなら夕食の時間まで予習復習に励むのだが、その日は雨のせいで早めに帰宅したからか、やる気が起きず、居間のパソコンで気になることを調べていた。
吉永には「競輪選手になれ」と言われているが、自分の力で走らないといけない競輪選手よりも、自分の力で走らなくてもよくて、還暦過ぎても現役で活躍している人もいる、競輪以外の公営競技の選手の方が自分に向いているのではないかと思って、調べてみたくなったのだ。
まず競馬騎手。これはJRAの競馬学校か、地方競馬の騎手養成所に入らないとなれないらしいが、そのどちらも中学卒業後に入るのが一般的であり、高校卒業後に入るのは事実上、不可能であるらしい。
何より体重と視力の制限がとても厳しく、そもそも俺は受験資格を満たしてすらいなかった。受かる受からない以前に、受験することさえもできなかった。
次にボートレーサー。これは近場の福岡県柳川市にある「やまと競艇学校」というところに入ればなれるらしいが、競馬騎手と同じように体重と視力の制限が厳しく、やはり俺は受験資格を満たしていなかった。
競馬騎手と違って、高卒以上で入学する人がほとんどで、視力は回復手術を受ければ、体重に関しても今から痩せればなんとかなるかもしれないが、体重が軽い選手の方が有利なボートレース界において、一流のボートレーサーになるためには、常に体重を50キロ前後にキープしなければならないらしく、現在60キロ近い体重の俺にはとても無理そうだった。
せっかく選手になるのならやはりトップ選手になりたい、ずっと下位に沈んでいるだけの選手にはなりたくないから、ボートレーサーになるのも諦めるしかなかった。
最後にオートレーサー。これもやっぱり体重と視力に制限があるが、競馬やボートレースよりは緩く、俺はその条件をギリギリ満たしていた。
しかし、受験するためにはなんらかの運転免許証を持っていないといけないらしくて、まだ15歳の俺はもちろんなんの免許も持っていないので、やはり受験資格がなかった。
それにオートレーサーは毎年新人選手を募集している他の公営競技と違って、数年に一回しか募集が行われないため、受験の競争率が高く、また、合格者の大半はバイク競技経験者で固められているらしい。
何より、落ちたら再受験まで数年待たなければならないというリスクが大きすぎて、また、オートレース場は全国に5場しかなくて、はっきり言って先行き不透明なので、なりたいとは思えなかった。
唯一、競輪選手だけが体重も視力も制限がなく、年齢も上限がないというゆるさで、高校さえ卒業すれば、俺にも受験する資格があった。
たしかに他の公営競技ではまず見ない、プロフィール写真でメガネをかけている選手が、競輪界にはたくさんいた。
でもやっぱり、アスリートになる自信はないんだよなぁ……競輪選手は成績がふるわないと、20代でも容赦なくクビになる厳しい世界らしいし、そんな軽い気持ちで飛び込める世界ではない……
そんなことを考えていると、突然ラインが来た。
送信してきたのは、サアヤさんだった。
「サトシくん、助けて……」
いつものウザ絡みラインだったら既読スルーしてしまっていたかもしれないが、さすがにこんな物騒な文面のラインを送られては、即座に返信せざるを得なかった。
「助けてって、大丈夫ですか? いったい何があったんですか?」
「あのね……サトシくんちの近くにある本屋に買い物に行ってたんだけどね、帰る時にいきなり強い雨が降ってきてね、傘持ってなかったもんだから、ズブ濡れになっちゃったの」
「はあ……それで?」
「こんなズブ濡れ状態じゃあ、どこのお店にも入れなくて雨宿りもできないし、この近くに住んでる友達はサトシくんだけなの。ねえ、今からサトシくんちに行ってもいい?」
「まあ、いいですけど」
そう言われて断れるほど、俺は薄情ではなかった。
「ホントに? ありがとう! すぐ行くから待っててね!!」
サアヤさんは本当にすぐ、俺の家にやって来た。
まるで俺の家の近くで待ち構えていたかのように……
玄関に入ってきたサアヤさんは、本当に頭の上から足の先まで、全身ズブ濡れだった。
夏服の制服は見事に透けていて、ブラが丸見えで、目のやり場に困った。
「うう……サトシくん……寒いよ……」
「ああ、今すぐタオル持ってきますね」
俺は未使用のバスタオルを持ってきて、サアヤさんに渡した。
サアヤさんはそのバスタオルで顔や体、制服などを拭いた。
雨にぬれているということはつまり、メイクが落ちてすっぴんになっているはずなのに、サアヤさんの顔は綺麗なままだった。
メイクを落としたらブスだとか、そんなことは決してなかった。
「ねえ、サトシくん。まさかこのまま玄関にい続けろなんて言わないよね、ねえ……」
俺が、珍しくサアヤさんの顔に見とれていると、サアヤさんがジト目で話しかけてきた。
「え? ああ、すいません、気が利かなくて……どうぞ、入ってください」
「ありがとう……お邪魔します」
こうして俺は、激しい雨のせいでズブ濡れのサアヤさんを自分の家にあげることになってしまったのだった。
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