第53話「鯛(たい)なまこ先生、爆誕」

 ナナに濃厚なエッチシーンのある百合漫画を読まされた日の夜、俺は興奮してしまったのか、はたまた朝に無駄に寝てしまったからか、なかなか寝付くことができず、日付が変わって日曜日になってからも、まだ眠れずに、ベッドの上で苦しんでいた。


 目を閉じても、心のフィルムに焼きついてしまって離れない、ナナの描いた濃厚エッチシーン。


 あれってやっぱり、ナナの欲望の発露なんだろうか?


 もしくは実体験なのかも?


 これで福原ふくばらさんに対して、「おのれ、よくも俺のナナのことをけがしやがったな……許さねえ」とか思えるような手前勝手な心が俺に備わっていれば、サアヤさんやクレナお嬢に振り回されるわけはないのであった。


 むしろ、実際に思ったのはまったくの逆、「いよいよもって完全無条件降伏するしかないようだ」と思い始めていた。


 もしもナナが少しでも俺のことを異性として意識しているのであれば、自分の描いたエッチシーンありの漫画なんか見せてこないだろうし、俺の前で百合エロ漫画を見て「濡れちゃうよぉ」などとは言わないだろう。


 もしナナが俺に対して、少しでも恋愛感情を抱いているのならば、「濡れちゃうよぉ」なんて言ってしまったら、めちゃくちゃ恥ずかしがって赤面して、あたふたするのが、正しい反応だろう。


 ところが実際は、まったく恥ずかしがることもなく平然としていた。


 福原さんとすでにそういう関係になっていると告白した時は恥ずかしがっていたのに、俺に「濡れちゃうよぉ」という一人言を聞かれた時は、特になんとも思っていないみたいだった。


 もはやナナにとって俺は「異性」でもなんでもなくて、「家族」のような存在なんだろう。


 例えは悪いが、家族におならを聞かれたってなんとも思わないように、ナナは俺の前で下ネタを言っちゃってもなんとも思わないような女になってしまっているのだ……どうやら本当にナナのことは諦めざるを得ないらしい……わかっちゃいるけど、うーん……


 それにしても、みんな将来の夢がはっきりしていてすごいし、正直、とてもうらやましい。


 ナナは漫画家になろうとして行動し始めているし、モエピはアイドルになろうと思って何度もオーディション受けているらしいし、ウィメンズ・ティー・パーティーの皆さんも、ネタでもなんでもなく、本気でプロデビューと武道館を目指しているらしい。


 クレナお嬢はヤマダ自動車の社長の一人娘なので、将来はヤマダ自動車の社長になることが約束されているらしい、まあ、あれだけ頭がよければ反対する人もそうそういないだろう。


 ロバータ卿は留学経験を生かして、帰国後はイギリス外務省に入省して外交官になろうと思っているらしい、ひょっとしたら将来は駐日イギリス大使とかになっちゃうかもね、貴族の娘なんだし、なろうと思えばなれるだろ……


 そんな彼女たちと比べると、俺は特になりたい職業も、行きたい大学もなく、毎日を無為に過ごしてしまっている。


 周りの女子たちは夢や目標を持って頑張っているのに、俺には何もない。


 俺が毎日考えていることと言えば、将来のことではなく、おっぱいのことばかりだった。


 なんてこったい……これじゃあ、マッチの言う通り、本当におっぱい星人じゃないか、俺……


 だからって将来の夢ややりたいことなんて、そう簡単に見つかるわけもないし……ゴールデンウィークに会った吉永には競輪選手になれと言われたけれども、休日にグータラしてばかりの自分がアスリートになるところなんて、想像することさえもできなかった。


 小学生の頃、吉永の自伝を読んだら、「姉に初めてバッティングセンターに連れていかれた時、いきなり『ホームラン』の的に打球を当てまくって、自分に野球の才能があることを知った」と書いてあったのに触発されて、「よし、俺も吉永みたいなレジェンド野球選手になるぞ」と思って、親父にバッティングセンターに連れていってもらったが、1球たりともバットにボールを当てることができず、その後も何度か通ったが、打てたのは内野ゴロだけで、ホームランどころか、ボールを打ち上げることすらできなかった。


 打者がダメならピッチャーになるしかないと思って、親父相手にキャッチボールをし続けたものの、どんなに練習してもストレートの球速は遅く、頼みの綱の変化球もカーブやスライダーのような基本的な球種すら投げることができず、野球選手になるという、俺の最初の夢は小学生の頃にあっさりとついえた。


 そもそも俺は親父の跡を継いで「十六代目 池川新兵衛いけがわしんべえ」にならないといけない身であり、実際子供の頃から、十五代目の親父や、十四代目のおじいちゃんに稽古をつけられていたのだが、あまりの才能のなさに、「今はもう、一子相伝の時代でもないし、お前には剣術以外の道を歩ませることにする」と言われ、はやばやと十六代目にさせることを諦められてしまったような男なのだ。


 いずれ親父がチカさんと再婚して、二人の間に子供ができたら、その子が十六代目の新兵衛になるのだろう、俺が剣術道場の息子でありながら、剣術の稽古をまったくしていないのはそれがゆえなのだ。


 そんな運動神経皆無の男がどうして競輪選手のようなアスリートになれるというのだろう? 吉永も何も知らずに無茶なことを言ってくれるもんだぜ……


 ああ……そんなことより、ナナのおっぱい揉んでみたいなぁ……あのおっぱい、どんだけ重くて柔らかいんだろうか? きっと、あったかいんだろうなぁ……


 などと、バカげたことを考えているうちに、俺はいつの間にか眠ってしまっていた。






 そんなバカげた夜から一週間後の土曜日、ナナが再び、俺しかいない池川家にやって来て、一週間前と同じように居間のテーブルにおっぱいを乗せながら、話し始めた。


「やったわ、サトシ! ピクシブにあげた漫画が好評だし、サトシのアドバイス通り、プロフィールに『現役女子高生です』って書いたら、ツイッターのフォロワーが一瞬で2万人になったわ」


 ナナの表情は高揚感に満ちていた。


 もちろん先週、ナナのツイッターをフォローした俺は、ナナがピクシブに漫画をあげたことも、フォロワーが右肩上がりなことも知っていた。


 ナナがあげた漫画、インパクト勝負の作品ではないのでバズってこそいないが、いいねは1000を越えていたし、コメントも好意的なものばかりで、初投稿にしてはたしかに好評だった。


 しかし、俺にはどうしてもナナに尋ねなければいけないことがあった。


「うん、そりゃあいいんだけどさぁ……」


「何よ? 私がいきなりネットで人気者になって嫉妬してるの? 大丈夫よ、たとえ私が超有名人になったとしても、サトシとはずっと仲良くしてあげるから、安心して」


「いや、嫉妬心とかは別にないし、そんなこと不安に思ってはいないけど……いったいなんなの? この新しいアカウント名の『たいなまこ』ってのは?」


 そう、それまで「Nana♥️」だった、ナナのアカウント名が、ある日突然「鯛なまこ」という、意味不明なアカウント名に変わったのである。


「なんなのって……サトシに言われて考えたペンネームじゃない。かわいい名前でしょ」


 ナナの思わぬ言葉に、俺は戸惑いを隠せなかった。


「か……? かわいい? ダサくない?」


「そんなことないでしょ。ていうか、そんなこと言ったら、サトシのアカウント名だってダサいじゃない、なんなのよ『ミラクルサトシ』って……どこのモノマネ芸人よ?」


「いいだろう、別に。『ミラクル・メッツ』みたいでかっこいいじゃん。メッツって言っても、東京でも、札幌 華生堂かせいどうでもないぞ、ニューヨーク・メッツだぞ」


「知らないわよ、そんなの。防府ほうふ市民のくせにニューヨークにあやかったアカウント名なんかつけてるんじゃないわよ」


「う……」


「それにねサトシ、このペンネームはツイッターのフォロワーには好評なのよ。あとサトシ、先週言ってたじゃない。検索で引っかかるような名前にしろって」


「ま、まあたしかに『鯛なまこ』は検索で絶対引っかかるだろうけれども……でも、もっと現役女子高生らしいペンネームにした方がいいんじゃあ……」


「もう、この名前で活動始めちゃったんだから、今さら変えられないわよ」


「うーん……」


 俺はこれ以上話しても、ナナのペンネームを変えさせることは不可能だと悟って、黙ることにした。


 それにしても、なんで「鯛なまこ」なんだろう? ナナは「鯛なまこ」のことを「かわいい名前」って言ってたよな……


 それは常人の俺にはとても理解しがたいことだった。


 ひょっとしてナナって、俺が思っている以上に天才なのかもしれない……


「そんなことよりさぁ……」


 凡人の俺が、天才かもしれないナナに物申すのもアレなので、話題を変えることにした。


「何? まだなんか文句あんの?」


「いや、文句じゃないけど、いいの? ツイッターのプロフィールに『かわいい女の子が大好きな、現役女子高生です』って書いてあるけど……」


「それがどうかしたの?」


「いくらネットの世界でも、安易にレズだってカミングアウトするのはどうかと思うんだけど……ほら、世の中には特定厨ってのもいるらしいし……」


「『かわいい女の子が大好き』のどこがカミングアウトなのよ? 女性アイドルのことが好きな女子なんて、世の中にいっぱいいるじゃない。私もそういう人の一人だと思われてるはずで、誰も私のことをレズだなんて思ってないはずよ」


「でも描いてる漫画が百合漫画……」


「百合漫画の作者が全員レズなわけないでしょう」


「そ、そりゃあそうだろうけれども……」


「それに私、住所や名前を特定されるほど、反感を買うような発言をする気ないから。炎上しないように、下手したて下手したてに出るつもりだし、そもそもイラストと、漫画の告知以外の、言葉だけのツイートはほとんどしないつもりよ。心配してくれるのは嬉しいけど、安心して、サトシ。私はあなたみたいにしくじったりしないから」


「いや、俺、ネットでしくじったことなんて一回もないけど……」


「え? 昔、好きだったアイドルのブログに、熱い愛のコメントを投稿し続けた結果、『あいつのコメント、キモい』って、そのアイドルのファンが集う掲示板でめちゃくちゃ叩かれたことあるじゃない」


「う……」


 ナナのせいで嫌なことを思い出してしまった。


 別に詳細を書くつもりもないが、ナナの言ったようなことが本当にあって、以来俺は、ネットなのに当たり障りのない発言しかすることができなくなってしまい、やがてネットで発言すること自体が嫌になってしまって、今となってはただ見るだけの男に成り下がってしまったのである。


「私はそんなヘマなんかしないわ」


「うん、そうだね、ナナは大丈夫だよね。うん、大丈夫、大丈夫……」


 嫌なことを思い出さされてしまった俺は、居間の畳の上にあおむけに寝転んだ。


 嫌な思い出のせいで、もはや座る気力もなくなってしまったし、ナナの前でならだらしがない姿を見せても、別に構わないと思った。


「ごめんね、サトシ。嫌なこと思い出させちゃったよね、怒った?」


 そんな俺にナナが優しく声をかけてきた。


「別に怒ってなんかないよ……ただ、自分の人徳のなさにうんざりしていただけさ……」


 上手な絵をネットに投稿しただけで、2万人もの人に愛されているナナと、文字だけの投稿で、愛されるどころか、同好の士にめちゃくちゃ嫌われてしまった俺とでは、本当に月とすっぽん、まさに雲泥の差があった。


「ナナはすごいよ、ホント……何もない俺とは大違いだよ……」


「そんな……サトシだって何かあるはずだよ、神様に与えられた才能みたいなのが」


「あるかな……?」


「あるよ、きっと……」


 ナナの優しさに、俺は泣きそうになってしまったが、泣いてしまうとナナを心配させてしまうことになるので、涙は必死にこらえた。


「あ、そう言えば先週借りた漫画返すね。ありがとう」


「うん……」


 ナナが、俺から借りた百合エロ漫画を返却してきたので、俺は起き上がって受け取った。


「その漫画、すっごくよかったよ、よく買ってくれたね、ありがとう」


「俺に与えられた才能って、エロ漫画を買うことだけなのかな?」


「え? そんなそんな……そんなことないよ、サトシにもちゃんとした才能があるはずだって、まだ気づいてないだけで……」


「それに気づいた時にはもうおじいちゃんになってるかもね……」


「う……」


 結局、その日の俺はずっとネガティブなことしか言うことができず、ナナの励ましの言葉も、ちっとも効きはしなかった。


 ナナが帰ったあと、俺は相変わらず居間でゴロ寝しながら思っていた。


「俺もそろそろ真剣に将来のことを考えないといけない……でないと、マジでニートになってしまうかもしれない……ニートだけは避けたい、絶対に……」と……

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