第20話「クレオパトラの夢」

 ウィメンズ・ティー・パーティーこと、軽音部の皆さんに自宅に押しかけられた翌日の放課後。


 俺は、サアヤさんの「サトシくんが軽音部に入ってくれるまで、何度でも家に来る」という言葉を思い出して、今日もサアヤさんたちが自宅に押しかけてくるんじゃないかという恐怖から帰宅できず、学校内にとどまっていた。


 まあ、学校にいたらいたで、クレナお嬢の下校のお誘いから逃げなければならないので、学校が安息の地というわけでは、決してないのだか……


 そんなわけで、俺はクレナお嬢から逃れるため、校舎の3階に来ていた。


 いつもは自分の教室のある1階にしかいないから、3階のことはよくわからず、あてずっぽうで、あっちに行ったり、こっちに行ったりしていた。


 決して迷ったわけではない。


 そう、断じて迷子になどなっていない!


 いないけれども、3階の廊下をさ迷っていたら、階段から一番遠いところにある部屋の中から突然、ピアノの音色が聴こえてきた。


 俺が驚いたのは、部屋の中から聴こえてくるその曲が、バド・パウエルの「クレオパトラの夢」だったことだ。


 もちろんバド・パウエルみたくアドリブだらけなわけではないし、うなり声をあげながら弾いているわけでもないが、メロディーはきちんと弾けていたので、その曲が「クレオパトラの夢」だということがわかった。


「Oh(オー) Cleopatra’s(クレオパトラズ) Dream(ドリーム)」


 俺が廊下に響く突然のネイティブ英語に驚いて振り向くと、そこに立っていたのはもちろんロバータ卿だった。


 今日も金髪が美しいロバータ卿が、大きな声で言ったのは「クレオパトラの夢」の原題だった。


 さすがは貴族の娘、音楽に精通しているということか。


 ジャズに詳しい貴族、ジャズ貴族……


「Hey(ヘイ) Satoshi(サトシ) summer(サマー)」


 などと、いつものようにいらんことを考えていると、俺のことを見つけたロバータ卿が駆け寄ってきた。


「Satoshi summer」ってのはおそらく、クレナお嬢がいつも俺のことを「サトシ様」と読んでいるのをまねているのだろう。


 しかし、いくら聞いても「様」ではなく「サマー」にしか聞こえず、「いや、ロバータ卿、俺は別に夏じゃないよ」ぐらいのことは言いたかったが、俺の英会話能力ではそれを伝えるのは不可能だった。


 洋楽好きの親父の薫陶(くんとう》を受け、子供の頃から洋楽を聴かされまくっていた俺は英単語はだいたい読めるし、授業に出てくるような英文の問題はとても得意だ。


 しかし、防府市ほうふしで育ち、外国人と接することなく生きてきたので、英会話能力はほとんどない。


 だからロバータ卿が「サトシサマー」のあとにも、英語で何やらしゃべっていたが、一切聞き取ることも、理解することもできなかった。


 いくつかわかる単語はあれど、ロバータ卿の言っていることすべてを完璧に聞き取り、瞬時に日本語に変換する、通訳のような能力は俺にはなかった。


「Ah(アー) Roberta(ロバータ) I(アイ) don’t(ドント) like(ライク) mondays(マンデイズ)」


「What(ワット)?」


 いけない。伝えたいことと全然違うことを言ってしまった。


「Oh(オー) no(ノー) no(ノー) I(アイ) don’t(ドント) speak(スピーク) English(イングリッシュ)」


「oh(オー) sorry(ソーリー) ゴメンナサーイ」


 俺が英語をしゃべれないことを伝えると、ロバータ卿は残念そうに肩を落とし、なぜか合掌しながら、片言の日本語で謝罪して、いずこかへと去っていった。


 いったいロバータ卿は俺に何を伝えたかったのだろうか?


 それを理解できない自分の方こそ、ロバータ卿に謝罪しなければいけないような気がしたが、もうロバータ卿はどこか見えないところに行ってしまっていたのでできなかった。


 ああ、俺に英会話能力があれば、ロバータ卿と楽しい洋楽談義とかできたかもしれないのに……読み書きと会話って、求められるスキルが全然違うんだよな……


 ていうか、ロバータ卿はこんなところでいったい何してたんだろうか? ひょっとして、ロバータ卿も俺と一緒で迷っていて、道を尋ねたりしていたのだろうか?


 なら、なおのこと、英会話能力がないことを申し訳なく思うが……


 などと、あれこれ思ったところで、もうどうしようもないので、俺はピアノの音色がする部屋に入ってみることにした。


 いったい誰が「クレオパトラの夢」を弾いているのか気になったからだ。


 自分で言うのもなんだが、俺は好奇心旺盛な性格で、知らないことを知ってみたいという気持ちは強かった。


 だから入ってみた、ガラガラと大きな音を立てる、引き戸を開けて。


「ひいいいっ!!」


 その部屋は元は教室だったのかもしれないが、今は不要な物を置いておく場所になっているみたいで、部屋の中はガラクタだらけ、アップライトピアノもその不要品の一つらしかった。


 そんなピアノの前に座り、俺が引き戸を開けた音を聞いて、謎の絶叫をあげた女子が一人。


「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!! 私、勝手にピアノ弾いたりして!! 今すぐ帰るので許してください!!」


 なるほど、この女子は勝手にピアノを弾いていたことを、部屋に入ってきた者によって咎(とが)められると思って、絶叫していたのか。


「あ、いや、俺は別に怒りに来たわけじゃない……って、モエピ?」


「あ、い……池川くん?」


 ピアノを弾いていた女子は、あの自己紹介の時に突然歌い踊り出し、俺を創作ダンス部に勧誘してきた、アイドル志望のやべー奴、モエピこと近藤萌子こんどうもえこさんだった。


 今日もトレードマークのハーフツインが似合っていてかわいいモエピ。


「な、なんで池川くんがここにいるの?」


「いや、モエピの方こそなんで? ていうか、今ピアノ弾いてたのって、モエピなの?」


「う、うん、そうだけど……」


 創作ダンス部に勧誘してきた時は、俺が敬語で話したからか、モエピも敬語だったが、今日は俺がタメ語で話したからか、モエピもタメ語だった。


「そうなんだ。ビックリしたよ。学校でいきなり『クレオパトラの夢』が聴こえてくるんだもん」


「え? 池川くんは『クレオパトラの夢』を知ってるの?」


 モエピはピアノの椅子に座りながら、俺はその椅子の横に立って、モエピの方を向きながら、会話を続けた。


「うん、親父が持ってるんだよ、『ザ・シーン・チェンジズ』」


「そうなんだ。私もお父さんに聴かせてもらって覚えたんだ、『ジ・アメイジング・バド・パウエル・ボリューム・ファイブ』」


 なぜかなぜかモエピはメインタイトルではなく、サブタイトルの方を言った。


「ふーん。でもモエピはピアノがうまいんだね。『クレオパトラの夢』を弾けるんだからね。それにさっきの口ぶりだと耳コピしたんでしょ? 絶対音感持ってるなんてすごいよ、モエピ」


「そ、そんなことないよ。私なんて全然すごくないよ……」


 などとモエピは謙遜しているが、本当に流麗な演奏だったのだから謙遜する必要なんてないと思う。


 思うけれども、俺はモエピに対する疑問をぶつけずにはいられなかった。


「ていうか、モエピは創作ダンス部に入るんじゃなかったの? なんで、こんなところでピアノ弾いてるの?」


「あ……それは……その……」


 モエピは自己紹介時の勢いが嘘のように、おどおどし、キョドりまくっていた。


「ん?」


「あの……入ろうと思って、見学してみたんだけど……創作ダンス部って、パリピみたいな人がたくさんいて……陽キャだらけで……私には合わないなって思って、入部するのやめたんだ……」


 モエピの声は自己紹介の時が嘘のような弱々しさだった。


「え? そうなの?」


「うん、それで他に入りたい部活もないから……でも早く家に帰っても、お父さんもお母さんも働いてるから私一人で、何もすることないし、それで学校内をウロウロしてたら、この部屋にピアノがあるのを見つけて、つい弾いちゃったんだ。ほら、家だとなかなか弾けないから、今の時代……」


 モエピはずっとうつむきながら話していた。


 なんか、自己紹介の時とキャラが全然違うんですけど……


 自己紹介の時はさぞかしやべー奴なんだろう、絶対近づかないようにしようとか思っていたけど、今こうして話してみると、日本のどこにでもいそうな人見知りの……あまりこの言葉は好きではないが「陰キャ」にしか見えなかった。


「あの、モエピ」


「何?」


「モエピはアイドル目指してるんだよね?」


「うん、本気でアイドル目指してるよ」


 モエピはこの時だけ、俺の目をはっきりと見つめ、力強い声でそう言った。


 どうやらアイドルになりたいというのは本当であるらしい。


「なのに、なんで……暗いの?」


 俺はもっとうまい言葉で質問したかったが、うまい言葉など何も思い浮かばず、まったくもって身も蓋もない質問をしてしまった。


「私、暗い?」


 俺のデリカシーのない質問に、モエピはまたうつむいてしまう。


「あ、いや、暗いっていうか……自己紹介の時はあんなに明るかったもんだから、その自己紹介の時とのギャップに戸惑ってるというか、なんていうか……」


「ああ、あれね。あれはいわゆる『高校デビュー』ってのを狙ってやってみたんだけど、高校デビューどころか、あれをやったせいで男子には引かれたし、女子のグループにも入れてもらえないし、完全に失敗……」


「そ、そうなんだ」


「池川くんの思ってる通り、私って本当は人見知りで暗いの。そんな自分を変えたくて、アイドルになれば明るくなれるんじゃないかと思って、中学の時に何回かオーディション受けてみたけど、全然箸にも棒にもかからなくて……」


「ふ、ふーん……」


 ヤ、ヤバい……このままだと人見知りのグチを延々聞かされる羽目になってしまいそうだ……回避するために話題を変えねば……


「そ、そんなことよりモエピ……」


「何? 池川くん」


「モエピは人見知りっていうけど、俺とは普通に話してるよね。創作ダンス部に勧誘してきた時も、自分から俺に話しかけてきたじゃん。なんで?」


「そ、それは……池川くんって、あのお嬢様にグイグイ迫られても拒絶しないで受け入れてるから、優しい人なんだろうなぁって思って。それにね……」


「うん?」


「池川くんにはね、初めて見た時から、特別な何かを感じるんだよね」


「特別な何か?」


 なんだその、洋楽の歌詞に出てくるような言葉は……モエピはジョージ・ハリスンの生まれ変わりか何かなのか?


 それともモエピには霊感的なものがあるとでもいうのか?


 だとしたら、やだなー、怖いなー……


「うん、だから池川くんとなら、普通に話せるんだと思うよ。池川くんにはそういうオーラがあるんだよ、この人とは話しやすいみたいなオーラがね」


「そ、そうかなぁ……」


 だから俺はいろんな女子にウザ絡みされるのだろうか?


「うん、そうだよ」


 そう言ったモエピの笑顔は、とてもかわいかった。


 この笑顔だけ見れば、モエピがオーディションに落ちるなんてとても信じられないが、まあアイドルのオーディションは別にルックスだけですべてが決まるわけではないのだろう。


 なんにせよ、俺はモエピの笑顔を見た時に、ひらめいてしまった。


「ねえ、モエピ」


「何? 池川くん」


「モエピはバンドに興味ないかい?」


 俺じゃなくて、モエピを軽音部に入れてしまえばいいのだと。


 そうすれば、俺は軽音部に入らなくてすむし、軽音部は同好会に降格せずにすむし、モエピならガールズバンドのウィメンズ・ティー・パーティーに加入しても不自然じゃないし、みんな幸せだ。


「バンド? バンドって、音楽のバンド?」


「いや、ここでいきなり紙バンドとかリストバンドの話しないでしょ。ロックバンドの話に決まってるじゃん」


「池川くんはロックバンドやってるの?」


「いや、俺はやってないんだけど、この学校に軽音部があってね、新入部員が3人入らないと同好会に降格になるとかなんとかいう理由で、部員を探してるらしいんだ。俺は軽音部の先輩に頼まれて、新入部員をスカウトするように言われてるんだけど、モエピのピアノの腕前なら、軽音部に入れるんじゃないかと思って、誘ってみたんだ」


 どうしても軽音部に入りたくない俺は、息を吐くように嘘をついてしまった。


「でも私、人見知りだから、知らない人と演奏するのはちょっと……」


 やはりモエピはすぐに「わかった、入るよ」とは言ってくれなかったが、そんなことは織り込み済み。


 俺はまったくひるむことなく、スカウトを続ける。


「モエピは本当にそれでいいのかい?」


「え?」


「そうやって、自分のことを人見知り、人見知りと決めつけて、自分の殻に閉じ込もり続けて、それで本当にアイドルになれると思っているのかい!?」


 俺は知らず知らずのうちに大声になっていた。


「い、池川くん……」


「モエピが今までオーディションで受からなかったのはステージ度胸がなくて、うまいこと自己アピールできなかったからだろう? 軽音部に入ってステージをこなせば、ステージ度胸もつくはずだし、自己アピールもうまくできるようになって、アイドルオーディション合格にも近づくんじゃないのかなぁ!?」


「そ、そうかなぁ……」


 俺の説得はモエピには刺さっていないみたいだったが、引き下がるわけにはいかない。


 こういうのは勢いが大事、ここでモエピを軽音部に入部させることができなかったら、3年間、弾きたくもない楽器を弾かされる羽目になってしまう……


 俺は弾きたくない、だから引けない。


「そうだよ! なんだって、やる前にできない、うまくいくわけないって決めつけるのはよくないよ! オーディションに応募しなけりゃアイドルにはなれないだろう!? それと一緒でバンドも入ってよかったか悪かったかなんで入ってみないとわからないんだよ!!」


「え? そんなのなんだってそう……」


 俺はモエピに反論する余地を与えなかった。


 確信があった。「モエピのようなタイプの人間は絶対に押しに弱い」と……


「とりあえず入ってみようよ! あ、いや、まあ入る入らないはともかく、1度とりあえず軽音部の皆さんに会ってくれないかな? 今日、今すぐじゃなくていいから、後日でいいから、1回会うだけ会ってみようよ、ね、モエピ!?」


「う、うん……池川くんがそこまで言うなら、1回見学に行ってみようかな……」


 俺の説得に応じた……というよりは圧力に負けたらしいモエピがついに首を縦に振ってくれた。


 よし、これで一歩前進だ……


「うん、そうしてくれると助かる」


 安堵して気が緩んだ俺はつい本音を言ってしまった。


「え? 助かる?」


「あ、いや……こっちの話。それとモエピさぁ」


「何? まだ何か話があるの?」


「前から思ってたんだけど、モエピってあだ名、ダサいと思うんだよね」


 モエピを説き伏せることができて図に乗ったらしい俺は、モエピに対してあけすけにものを言うようになっていた。


「え? ダサい?」


 モエピはそんな俺のことを怪訝そうな表情で見つめた。


 が、調子に乗っていた俺は、自分の口から出てくる言葉を止めることができなかった。


「うん、だからあだ名を変えた方がいいと思うんだ。たとえばほら、モエピッピっていうのはどうだろう?」


「そ、そんな……彼ピッピみたいな……そっちの方がダサいよ……」


 モエピは明らかに不満そうな口調でそう言った。


「そう? じゃあ別にあだ名はどうでもいいけど、とにかく軽音部のことよろしくね! 軽音部の人たち、みんないい人たちだから、モエピとも仲良くしてくれるはずだよ」


「そうなの?」


「そうだよ、だから、とりあえず見学の件、よろしくね! じゃあ、今日はのところはこれでさようなら、モエピッピ」


「うん、また明日ね、池川くん……お願いだから、みんなの前でモエピッピって呼ぶのはやめてね!」


 この時のモエピはこの日一番の大声を出した。


 そんなにダメなのか、「モエピッピ」 俺はかわいいと思ったんだけどな……


 まあ、そんなことはどうでもいい。


 軽音部入部を回避するルートを見つけることができた俺は、足取りも軽く、学校をあとにした。


 結局、この日はサアヤさんたちが押しかけてくることもなく、平和に夜を迎えることができた。


 いつサアヤさんたちがやって来るのかと怯えていたせいで、まったく勉強に手がつかなかったけれども……

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