第18話「谷間の百合」

 俺が防府ほうふヤマダ学園に入学してから早1週間。


 入学してから3日目まではいろんなことがあったが、4日目以降は特筆するようなことは何もない、平穏な日々が過ぎていった。


 クレナお嬢が授業中に、俺のことをじっと見つめてくるのも、最初は困惑しかしなかったが、クレナお嬢の頭のよさは本物で、俺が授業内容を理解できずにまごまごしていたら、頼んでもいないのに授業内容をわかりやすく噛み砕いて教えてくれた。


「ここはこうやるんですのよ」とかなんとか言って。


 もちろん、俺だけではなく、ロバータ卿やパーラーにもあれこれ教えてあげていたクレナお嬢は、俺たち3人にとってはもはや家庭教師のような存在だった。


 それは俺にはとてもありがたいことだった。


 別に自分のことをバカだとは思っていないが、いかんせんヤマダ学園は超進学校で、学校全体のレベルが高い。


 普通の県立高校に行けば成績上位だったであろう俺も、この高校ではよくて中位、下手すりゃ下位なのである。


 世の中、上には上がいるもの。


 所詮は井の中の蛙に過ぎなかった俺を、大海に導こうとしてくれているクレナお嬢への好感度は確実に上がっていた。






 そんな入学式から1週間後の放課後、俺は帰宅途中に、防府駅前のイ〇ンの中にあるアニ〇イトに寄り道していた。


 皆さんがどうお思いかは知らないが、我が防府市、もちろん都会なわけはないが、だからと言って、ネタにできるほどの田舎でもないと俺は思っている。


 ありがちな田舎エピソードと言えば「車じゃないとコンビニに行けない」とか「道を歩いていたら野生動物と遭遇して死にかけた」とかだと思うが、防府市の場合、多すぎて毎年何店か閉店に追い込まれるほど、あちらこちらにコンビニがあるし、俺の住んでる都市部の道に鹿やら熊やらが現れるわけもなかった、郊外や山の近くがどうかまでは知らねども……


 コンビニだけでなく、大手外食チェーン店の店舗も防府市にはだいたいあり、食事する場所に困ることはなかった……むしろチェーン店だらけで「防府市にしか存在しない」という店の方が稀少なのであった。


 などと、ウダウダいらんことを語ってしまったが、俺が本当に言いたいことはただ一つ。


「山口県唯一のアニ〇イトがある防府市が田舎なわけはないだろう」


 しかも、そのアニ〇イトが学校からの帰り道に存在しているのだ。


 徒歩や自転車で行ける距離にアニ〇イトがある。


 ああ、こんなに幸せなことはない……


 都会に住んでいる人でも、そういう人はそうそういないのではあるまいか?


 俺は改めて、己の幸運を噛みしめながら、エスカレーターに乗ってアニ〇イトへ向かった。


 今日アニ〇イトに行く理由は他でもない、ナナのためだった。


 ナナに「私、女の子が好きなの」と告白されたあの日から、俺は女性の同性愛、すなわちレズビアンのことについて、ネットであれやこれや調べまくっていた。


 そうしたら、世の中には女性同士の同性愛を主題にした「百合漫画」というものが存在しているということを知り、その「百合漫画」専門の月刊雑誌が存在しているということを知った。


 今日はそれを買いに来たのである。


 百合漫画を読めば、ナナの気持ちが少しはわかるかもしれないとか思ってしまったのである。


 後学のために買っておきたかったのである。


 防府のアニ〇イトの漫画雑誌は、通路に面した棚に置かれていて、その中にある百合雑誌を手に取るのは少しだけ勇気がいった。


 とは申せ、平日の夕方のイ〇ン3階がそんな大混雑しているはずもなく、俺は意を決して、その百合漫画雑誌「コミックリリプリ」に手を伸ばした。


 そしたら、ほぼ同時に「コミックリリプリ」に手を伸ばした何者かの手と、俺の手が見事にぶつかってしまった。


「あ、すいません」とは言いつつも、俺は内心「こんなベタベタなことが現実にあるの?」と思わずにはいられなかった。


 恋愛漫画の本屋や図書館でよく起こることじゃあないか……


「あ、こちらこそ、すいません……って、サトシ!?」


「ナ……ナナ!?」


 なんということでしょう?


 ナナの気持ちを理解しようと思って、百合漫画雑誌を買おうとしたら、そのナナが百合漫画雑誌を買おうとしているところに出くわしてしまうなんて……


「ナ……ナナ……ヘイヘイ……キスヒム……グッバイ……」


 思いもよらぬところでナナに遭遇してしまった俺はわかりやすく動揺した。


「何わけのわかんないこと言ってるのよ、サトシ。そんなことより……」


 ナナはうつむいた。


 まずい……俺が興味本位で百合漫画を読む、よこしまな男だと思われてしまったのだろうか?


 こ、こんな公の場でめちゃくちゃ怒られるのだけは避けたい……


「あ、あの、ナナ……俺は……その……」


「まさかサトシがそうだったとはね……」


 う……やはりナナは怒っているのだろうか?


 何か釈明しようにも、俺は完全に動転してしまっていて、もはやまともにしゃべることもかなわない。


「いや……あの……」


「そっかー。そうならそうと早く言ってくれればよかったのに……」


「え?」


「サトシもリリプリ買おうとしてたんでしょ!! サトシも百合漫画が好きだったんだね!!」


「え?」


 ナナが大きな声で叫びながら、満面の笑顔を俺に向けてきたので、俺はまたしても戸惑うことになってしまった。


 どうして俺の周りにいる女子たちはみんな、俺の話を聞かず、思い込みだけで話を進めてしまうのだろうか?


「もうここまで来たら隠す必要なんてないよ! 今日はリリプリ買いに来たんでしょ!?」


「う、うん……」


 たしかにリリプリを買いに来たのは事実だから、素直にうなずくしかなかった。


「私もそうなんだ。ねえ、サトシはリリプリの中でどの漫画が好きなの?」


 ナナの目はいつになくキラキラ輝いていて、そしてとても早口だった。


 ああ、なるほど……つまり、これはあれだ……ナナは「百合漫画好きの同志を見つけた」と思っているのだろう。


 どうしたものか?


 俺は今日初めて「コミックリリプリ」を買って初めて百合漫画を読もうとしている男で、百合漫画の知識なんてこれっぽっちもないし、現時点では読んで気に入るか、好きになるかもわからない。


 でもなぜかナナは俺のことを「百合漫画愛好家」だと思い込んでいる。


 どうしたものか?


 嘘をついて話を合わせるべきか、素直に「ナナの気持ちを知りたくて、今日初めて買うのだ」と言うべきか?


「サトシ? どうしたの?」


 いつものように人前であれやこれや考えてしまう俺のことを、ナナが心配そうにのぞき込む。


「あ、いや……」


「大丈夫。私、誰にも言わないよ、サトシが『百合男子』ってことはね」


 百合男子? 百合男子とはなんぞ?


「だって、サトシも私のこと誰にも言わないでいてくれてるもんね。だから私も誰にも言わないよ。ほら素直になっちゃいなよ。私とサトシの間に隠し事なんてなしだよ」


 ああ、そうか。


 そうだよな、俺とナナの間に「嘘」なんてあってはいけないんだ……


「あの、ナナ……」


「うん、何?」


「ナナは勘違いしてるみたいだけど、俺、百合漫画読んだことないんだ」


「え? そうなの?」


 ナナは露骨なまでに残念そうな顔をした。


「だったらどうして、リリプリなんか買おうとしてたの?」


「それはその……」


 これを言ったら怒られてしまうかもしれない、ナナの機嫌を損ねてしまうかもしれない、という気持ちはあれど、俺はナナに嘘をつきたくなかったので、本当のことを言うことにした。


「それはナナがそういう人だと知ったから、そういう人たちがどういう気持ちで生きているのかを知ろうと思って、それで……」


「それで百合漫画読もうと思ったの?」


「うん……」


「アハハハハ、バカじゃないの」


 怒られるかもしれないという予想に反してナナは笑った。「バカじゃないの」と言いつつも、顔は満面の笑みだった。


「うん、そうかもね」


 俺は怒られなかった安堵から、ナナの発言を全面的に肯定した。


「でも、サトシのそういうとこ好きだよ」


「え?」


 恥ずかしい話だが、不意にナナに「好きだよ」と言われて、自分でもビックリするぐらい心臓が鼓動した。


 本当に「ドクン」だの「トゥンク」だのいう擬音が聞こえたような気がした。


「人の趣味嗜好を頭ごなしに否定したり、自分の考え方を押し付けてきたりしないところ、素敵だと思うよ」


 わかってる。「好き」って恋愛的な意味の「好き」ってことじゃないことぐらい……


「勝手に心のシャッターを閉ざして『理解できない』ってなったりせずに、ちゃんと他人のことを理解しようとしているところも素敵だね」


 それなのにどうして、ナナに「好き」と言われただけで、こんなにも嬉しいのか?


「だからって、百合漫画で私の心を知ろうっていうのは、安直だと思うけどね」


 この胸のときめきを、俺はいったいどうすればいいのだろう?


「よし、じゃあ、しょうがないから、そんなサトシのために、私が初めての人でも安心して読める百合漫画を教えてあげるよ」


 ああ、ナナの笑顔がまぶしすぎて、心が溶けてしまいそうだ……





 結局、ナナのオススメに黙って従い、「リリプリ」本誌と、義理の姉妹が恋する百合漫画2作品を買った俺はナナと一緒に帰宅して、玄関前で「また明日」と言って別れた。


 その百合漫画を読む前に、俺にはどうしてもやらなければいけないことがあった。


「ない……ない……どこにあるんだ? 谷間の百合」


 俺は、文学好きの親父が収集した多数の文庫本が保管されている書斎で、バルザックの「谷間の百合」を探していた。


 なぜかって?


 だって、ナナと言えば、パーラーも興奮するほどの爆乳の持ち主だ。


 いつも胸元はがっちりガードしているので見たことはないが、きっと立派な谷間をお持ちに違いない。


 そしてナナは百合だ。


「谷間の百合」を読めばナナのことを理解できるのではないか?


 そう思って必死になって探してみたが、どこにもなかった。


「くそっ、ゴリオ爺さんはあるのに、なんでないんだ、谷間の百合……」


 何をどうしても「谷間の百合」を見つけられなかった俺は、バルザックのように胸に手を当てて立ち尽くした。


 そんな俺の目の前に1冊の文庫本が落ちてきた。


 不精な親父が、いわゆる「どく」にしていたうちの1冊が、俺が本を探した時の振動で、ずれて落ちてきたらしい。


「ま、まさか、これが谷間の百合では……」


 そう思った俺があわてて取った文庫本はエミール・ゾラの「ナナ」だった。


「ナナ……」


 以前、タイトルが気になって読んでみようかと思って、あらすじを見たら、「ナナ」という名前の高級娼婦の話だって書いてあったから読むのをやめた本だ。


 なんでそのタイミングでこれが落ちてくるのか?


「もういいや。やっぱり谷間の百合じゃなくて、ナナのオススメ百合漫画を読もう」


 俺はゾラの「ナナ」を適当に放り投げ、自分の部屋に戻って、夕食の時間まで、勉強もせずに百合漫画を読みふけったのだった。

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