第2話「やがてあさがおとシトラス」

「サトシ! 起きなさいよ! サトシ!!」


 ふて寝していた俺を起こしたのは他ならぬ、幼なじみの国司くにしナナだった。


 そう、ついさっき、俺のことをふった女だ。


 ベタな話だが、ナナは隣の家に住んでいる同い年の女の子で、明日から同じ高校に入学することになっている。


 お隣さんだからか、はたまた地方都市だからか、ナナはいつでも好きな時に、俺の家に入ってくることができた。


 地方都市の一軒家に、家人が家の中にいるのに、玄関の鍵をかけるなんて風習はない。


 そんなことにも気がつかないで、ふて寝してしまうとは不覚であった。


 今の俺はナナと会話なんてしたくない。


 自身の過失によって、気まずい空気を造成してしまったのに、何を話してよいのやらわからなかった。


 しかし、ナナに自宅に踏み込まれてしまった以上、もはや逃げ場はない。


 このまま寝たふりを続けたところで、いいことなどは何もない。


 諦めて起きるしかない。


「なんだよ、ナナ。せっかく気持ちよく寝てたのに起こさないでくれよ……」


 俺はとりあえず、どこぞのギャルゲーだか、ラブコメ漫画の主人公のような、軽めの口調で話してみたが、


「なんだよじゃないわよ! 人に告白しといて、『ごめんなさい!』って言われた途端に、逃げ出すってどういうことよ!」


 ナナはやっぱり怒っているようで、口調はとても激しかった。


 思わず「水戸の烈公れっこう」と呼んでしまいそうなほどの激しさだった。


 でも仕方がない。


 誰がどう考えても正論を言っているのはナナの方であり、俺は何も反論することなどできない。


 大人しく罪を認めて、量刑を軽くしてもらえるように、努力するしかないだろう。


「ごめん。ふられて動揺したんだよ。ほら、あれだよ。『穴があったら入りたい』ってやつ? 穴がなかったから逃げ出しちゃった……みたいな」


 俺は努めて和やかな口調で話してみたが、


「何言ってんのよ」


 ナナの目線と口調はちっとも和やかではなかった。


「あ、すいません……」


 そんなナナを見て、俺はなぜだか謝ってしまった。


「あのねえ、サトシ。一人残される方の身にもなってみなさいよ……くどくどくどくど……」


 しかし、謝罪してもナナのお説教を回避することはできなかった。


 仕方がない。


 悪いのは自分なのだから、甘受かんじゅするより他ない。


 伊藤看寿いとうかんじゅ煙詰けむりづめの駒たちのようにどこかへ消えてしまえればよかったのだが、世の中そんなに甘くはない……


「くどくどくどくど……とにかく、話を最後まで聞いてほしいから、こうやって家に来たのよ。聞いてくれるわよね、サトシ」


 どこぞの小悪党の如く、自分にとって都合の悪いお小言を聞き流し続けた俺だが、最後の方の言葉はちゃんと聞き取れてしまった。


「うん、聞くよ」


 俺がそう言うと、ナナはなぜかキョロキョロと辺りを見回し、俺に顔を近づけて、耳元でこうささやいた。


「ちょっと、ここじゃあ話しにくいことだから、サトシの部屋に行ってもいい?」


 ここで「ダメ!」と拒否したり、「なんでだよ?」と理由を問うたりするような胆力たんりょくは、今の俺には備わっていなかった。


「あ、ああ。じゃあ二階に行こうか」


 俺はそう言って、ナナと一緒に階段を登り、二階にある自分の部屋に、ナナを招待した。


 よくある六帖のフローリングの部屋に入ったナナは、当たり前のように俺のベッドに腰かけたので、俺はテーブルの近くに置いてあった座布団の上に正座した。


「それで、部屋でないとできない話とはいったいなんなのでしょうか?」


 ベッドに座ったナナがなぜかうつむいて、なかなか話し出さないものだから、俺はナナに話をするよう促した。


 つい敬語になってしまったのは、逃げ出した負い目があるからだろう。


 しかし、俺が話を振っても、なぜかナナはうつむくばかりで、話し始めてはくれなかった。


 それにしても……


 改めて見るナナは、とても綺麗だ。


 黒くて艶やかな長い髪は腰ぐらいまである。


 顔は、今はうつむいているからよく見えないが、もちろんかわいいに決まっていた。でなければ、衝動的に告白などすまい。


 しかし、何よりナナの魅力と言えば、おっぱいである。


 とても、先月まで中学生だったとは思えない、その大きさ。


「けしからん」なんてレベルはとうに超越している、破壊的なサイズ、デスサイズ。


 ああ……


 もし、告白が成功していれば、この1メートルはあろうかという、超絶おっぱいに触れることができたのかもしれぬというのか……


 おお……


 キャロル……


「……サトシ! 話聞いてる!?」


 ナナのおっぱいを見て、いけない世界にトリップしかけていた俺を、現実世界に引き戻してくれたのは、ナナの大声だった。


「あ、ああ、聞いてる、聞いてるよ……」


「ウソ! さっきからずっと私のおっぱい見て、変なこと考えてたんでしょう! わかるんだからね、そういうの」


「あ、いや、そんな……」


 あまりにも図星を突かれたものだから、俺は意味のある言葉を言えなくなってしまっていた。


「まったく、これだから男子は……」


 そう言ったナナの表情は、憎しみの炎に燃えていた。


 これはまことによろしくない。


 このままでは、俺の数少ない友達の一人を失うことになってしまう。


「ご、ごめん。もう見ないから……ちゃんと話聞くから、許してくれよ」


「フフフッ、サトシって昔から、私が怒ったらすぐ謝るよね」


 俺が素直に謝ったら、ナナはなぜか笑い出した。


 さっきまでの憎しみの表情がウソのようだ。


「そりゃあ、数少ない友達を失いたくないものですから」


 幼なじみのナナを前に、見栄を張ったり、ウソでその場を取り繕ったりすることはできなかった。


 そうか、ナナの前ではウソをつくことができないから、つい告白してしまったというわけか。


 ながらく自分の衝動的な行動を説明することができずにいたが、ようやく合点がいった。


「アハハハハ。大丈夫。これからも友達でいてあげるから安心して」


 などと、一人で納得しているうちに、ナナの話はどんどん先に進んでいた。


「とにかく私がサトシに伝えたいのはね、サトシのことをふった理由」


 え? そんなことわざわざ伝える必要あります? ふられて傷ついた心に追い討ちをかけるだけなのでは?


 そう思ったけど、もはや俺には議論を戦わせる気力などなく、ナナの話を黙って聞くより他なかった。


「私がサトシのことをふったのは別に、サトシのことが嫌いだとか、憎いとか、そんな理由じゃないの……ただ……ただね……」


 ナナはまた言いよどんだ。


 そんなに言いにくいことを、これから話すというのか。


 これは身構えておかないと、ショックで立ち直れなくなってしまうかもしれない。


 俺は心の中でファイティングポーズを取りながら、ナナの話を傾聴することにした。


「今まで誰にも言ったことはないんだけど……サトシになら言ってもいいかなと思って言うんだけどね……」


「はあ、なんでしょうか?」


 さすがにここで黙っているのもおかしいので、相づちのようなものを入れてみた。


 これから何の話をされるのかわからない恐怖とおびえが、敬語に表れていた。


「私ね……女の子が好きなの」


 ん?


 それがどうしたというんだ?


「いや、女の子なら俺も好きだけど。それに『かわいい女の子が大好きー!』って言ってる女子なんて、今時、珍しくもなんともないと思うけど」


 俺はナナの言葉に拍子抜けし、ついタメ口に戻って、思っていることを素直にしゃべってしまった。


「違う、そうじゃなくて……」


 そうじゃなくて?


 ということはつまり、その……


「恋愛的な意味で女の子が好きなの! 女の子しか好きになれないの! 男のことは恋愛対象として見れないの!」


 ああ、やっぱり……


 ナナは何かふっ切れたかのように大声でまくし立てたが、俺はなんと返してよいのやらわからず、黙り込んでしまっていた。


 とりあえず、家に自分しかいなくてよかったとは思っていた。


 今のナナの声の大きさ、家に家族がいたら、間違いなく聞こえてしまっていたことだろう。


 デリケートな問題だ。


 俺以外の人間に聞こえてしまうというのは好ましいことではなかったことだろう。


「やっぱり……引いた?」


 俺が何も言わないからか、ナナが不安げな表情で問うてきた。


 これは大変だ。


 ここで返事を間違えたら、俺は友達を失い、明日からの高校生活が悪夢のぼっち生活になってしまう。


 同じ高校に進学する友達はナナだけだ。


 なんとしても、失うわけにはいかない。


「別に引かないよ」


 頭の中の打算とは裏腹に、俺の声は小さく、かすれていた。


「本当に?」


 そんな声では当然、ナナに疑いの目を向けられてしまう。


 俺は咳払いして、ちゃんと声が出るようにしてから、常々思っていることを口にすることにした。


「本当だよ。同性愛をどうこう言う人もいるのかもしれないけど、俺は別になんとも思わないよ。ホモサピエンスがホモサピエンスを好きになっただけで、何も悪いことをしていないんだから、どうこう言う人たちの方がどうかしてるよ。少なくとも俺は、ナナがそうだからって、別にナナのことを避けたり、嫌いになったり、そんなことは絶対にしないよ、絶対にね!!」


 俺はまるで、オタクが自分の好きなものを語る時のような早口で、まくし立てていた。


 俺の言葉を聞き終えたナナは、優しく微笑んでいた。


「やっぱり、サトシはそう言ってくれると思ってたよ。私だって、こんなに優しい幼なじみを失いたくないよ。だから、明日からは、今まで通りに、ね」


「うん、今まで通り、友達ということで」


 俺もそう言って、微笑んだ……はず。


 多分……


「ああー! これでスッキリした。言いたいことちゃんと言えたから、安心したよ」


 ナナはベッドに腰掛け、背伸びをしながら、そう言った。


「あ、そうだ。言わなくてもわかってると思うけど、私が女の子のことを好きだってことは、これだからね」


 ナナはしゃべりながら、唇の前に人差し指を当てていた。


「もちろん、誰にも言わないよ。言うわけないよ」


「信じてるからね」


「うん」


 俺がアウティングのような悪逆非道な行為をするような男に見えるのか……ぐらいのことは言おうとした俺だが、実際には「うん」しか言えなかった。


 そういう会話のリズムだった。


「それと、私にふられたからって、別にサトシが気に病むことはないからね。サトシは顔はいいんだから、きっと高校に入ったらすぐに、私なんかよりもいい女の子と付き合えると思うよ」


 いやいや、ナナさんよりもいいおっぱいをした女子高生は恐らく防府市ほうふしにはおりませんよ……いや、山口県全体を見渡してもナナさん一人だけかもしれませんね……


「うん」


 そんなことを言ってしまったら、恐らく張り倒されてしまっていただろうから、俺はまたしても「うん」としか言わなかった、言えなかった。


 古来より「口はわざわいの元」と申すではないか。


 なんでもかんでも口に出せばいいというものではない。


「さてと、それじゃあ私、そろそろ帰ろうかな。今、何時なんだろう?」


 ナナにそう言われて、反射的に机の上の置き時計を見たら、18時16分だった。


 ナナはすでに立ち上がって、俺の部屋から出ていこうとしていた。


「なあ、ナナ。最後に一つだけ聞いてもいいか?」


 俺は出ていこうとしているナナに、思わず質問してしまっていた。


「何?」


 振り向いたナナに俺は言った。


「ナナが好きな女の子って誰なの? 俺の知ってる人?」


 自分で言ってて、「俺はゴシップ大好きな女子か?」と思わずにはいられなかったが、好奇心をおさえることができなかった。


「それはいくらサトシでも教えられないな」


 俺の質問を聞いたナナの表情が暗くなったので、俺はあわてて明るく振る舞った。


「あ、そうなんだ。それじゃあいいんだ。じゃあまた明日な、ナナ」


 何度でも書く。今のところ、高校で唯一の友達であるナナを失うわけにはいかない。


 じゃあなんで告白したんだろう?


 若さゆえのリビドーの爆発か?


 時に若者というのは、常識では考えられない行動をいたすものであり……


「ごめんね……って、サトシ、聞いてる?」


「え? ああ、聞いてる、聞いてる。聞いてるよ」


 いけない。またしても自分の世界に閉じこもってしまうところだった。


「まあ別に、もう帰るだけだから、聞いてても聞いてなくてもどっちでもいいんだけど。それじゃあね、サトシ。また明日ね」


 ナナは笑顔でそう言いながら手を振って、俺の部屋を去っていった。


 この期に及んでも、俺の目はナナの胸に釘づけだったが、ナナがそれを咎(とが)めることはなかった。


 ああ、あの胸に触れることができるのは女だけ、男は決して触れることはできぬだなんて、今まで一度も思ったことはないが、生まれて初めてTSしたいと思うてしもうたではないか、よこしま……


 ゴホン……


 部屋に一人になった俺が真っ先にしたことは、さっきまでナナが座っていたベッドの蒲団(ふとん)に顔を埋(うず)めて、その匂いを嗅ぐということだった。


 田山花袋(たやまかたい)以来、自分の好きな女性が接触した蒲団の匂いを嗅ぐというのは、日本男児が絶対にやらなくてはいけないこと、そう、男のマナーなのだ。


 ……って、んなわけあるかいっ!!


 俺は心の中で自分にツッコミを入れながらも、想い人の匂いを嗅ぐのをやめることはできなかった。


 弱い心だ。


 ああ、なんてかぐわしき、女の香り……

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