一の十

 ――犬?

 犬だ、犬がしゃべってる!?

 ちっちゃい子犬がしゃべってる!?

 あは、あはは、やっぱりわたし、イっちゃったんだわ!

 だめだ、これは、だめだ。そうだ、現実逃避しよう、わたしはもう、異世界に転生トリップしよう、心だけでもっ!

 あぐりは、気を失い倒れかけた。

「きゃーーっ、気をしっかりもってっ!あぐりちゃん!」

 あぐりは、子犬のはげましのおかげで、気を失うすんでのところで、なんとか意識を現実世界へと引きもどした。

「なに、なんなの、こんどは犬?しゃべる犬!?」

「混乱するのは、わかるわ。でも落ち着いて」

 ――落ち着けといわれても……。

 などと、あぐりが子犬とたわむれて(?)いる間に、ステージ上では、広がりきった謎の黒い霧が、しだいに収縮しはじめていた。

「こまかい話は、あと。まずは、アイツをなんとかしないと」

 子犬が霧をにらみつけるように見ながらいった。

「なんとか、って言われても、どうすれば?」

「あぐりちゃん、あなた、お母さんの形見のブレスレットはもっているわね」

「うん」

 事情に詳しい雰囲気の子犬に不信をいだきながらも、あぐりはうなずいた。

「それは、ただのブレスレットじゃないの」

「…………」

「それは、変身装置なのよ!」

「へ、ん、し、ん……?」

「そうよっ。変身してヤツを倒すの。さあ、叫ぶのよっ!」

「叫ぶ!?」

「アルマイヤー・トランスポーテーションっ!」

「え?なに?なんて!?」

 いきなり変身しろと言われて、はいわかりました、と変身しようとする女子高生は、日本中さがしてもまずいないだろう、とあぐりは思う。いや、ひとりいる。

 ――ユカちゃんならするかもしれない……。

「さあ、叫んで、あぐりちゃんっ」

 変身できそうな紫は、いま体育館の端っこで気を失っている。その紫を助けるためにも、あぐりが変身しなくてはいけないのだろうか?とりあえず、叫んでみようか、とあぐりは思った。半信半疑だけど。

「ア、アルマイヤー、ト、トランしゅポーてーちょン」

「噛みすぎっ!」

「はひっ!?」

「そして声が小さいっ!」

「はひっ!?」

 ――いきなりスパルタですか!?この犬!?

 などと、さらに犬とたわむれて(?)いる間に、黒い霧は、だんだんと人の形をとりはじめていた。

 杉谷が腕を広げ、叫ぶ。

「カシン様!ボクのこの体を捧げます!そして、どうか、藤林あぐりさんを我がものにっ!」

 三メートルほどの大きさの人の形に変化した霧は、杉谷の体を後ろからつつみこむように見える。

「カシン様ーーっ!カシンさまぁぁぁぁぁっっっっっ!」

 そして、杉谷のなかへ、吸い込まれていった。いや、霧のほうから同化していった、と言うべきか。

「がーーーっ!ぐぐぐっ! !」

 杉谷は、苦痛ともとれる叫びをあげた。そして、体をのけぞらせ、じょじょに体が浮かびあがり、口や目、体の毛穴という毛穴から、漆黒の光が放たれた。

 あぐりは息をのんだ。


 体育館のエントランスホール。

 担任教師の服部が、アリーナ入り口の扉をドンドンと叩いていた。

 行方不明の楯岡紫を、校内放送で呼び出してはみたものの、やはり不安にかられ、あとの対応を他の教師にまかせて、自分は捜索に出た。

 体育館までやってきたが、どうも、このなかがあやしく感じられた。そこで、扉を開けてみようと試みたのだが、開かない。この扉は、職員室にある、特殊な鍵がなければ、ロックすることはできないはずだ。内側から、つっかえ棒でもしてあるふうでもない。

 ――なんだ?

 どうも、おかしい、と服部は扉を叩いたり、ひっぱったり、いろいろためしたが、なにをやっても無駄であった。

 ――はて、応援を呼ぼうか?

 服部が、迷っているときだった。

 首の後ろに、衝撃がはしり、それを最後に、服部は気を失ってしまった。

「すみませんのう、先生」

 服部に当身をくらわしたのは、あぐりの父、源次郎だった。

「しばらく眠っておいてください」

 倒れかけた服部を抱きとめ、源次郎は、ゆっくりと床へ寝かせた。

「さて、どうしたものか?」

 源次郎も、あぐりと同じようなブレスレットを持っている。それは、変身機能などない、ただのブレスレットだ。そこに埋め込まれている宝石は小さなものだが、あぐりのブレスレットと同じ宝石――アルマ結晶クリスタルで、このふたつのブレスレットは、簡単にいえば、つながっている、のである。つまり、あぐりに危機がおとずれれば、源次郎にも共鳴して伝わる仕組みになっている。

「この結界、まともにやると、破るのに時間がかかりそうだな」

 源次郎はだれに言うともなしに、つぶやいた。

 そう、この体育館には、いま結界が張られており、誰も中には入れないようになっている。おそらく中の音も遮断されているし、外の音も中には聞こえていないだろう。

 ――結界に隙間でもあれば、いいのだが。

 急がねばならない、と源次郎は、右手を体育館の壁にかざし、結界の隙間や、弱い部分がないか、探しはじめた。

 その反対の手は、なにが入っているのか、お気に入りのトートバッグをひとつ握りしめていた。

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