その日 後編
そのまま数十分もたったころだろうか。
ふと、なにか空気が変わった気がして、清花は顔を上げた。
アオイも何かを感じたらしく、顔を動かしてこちらを見た。
やはり、あの男は来た。
自宅から遠くはなれた山中の、小さなログハウスに身を隠す我々を、不気味なまでの執念で追ってここまで来たのだ。
清花は、残りの紅茶を飲み干すと、
「さて」
と立ち上がった。
源次郎は、それを座ったまま見つめ、ただ、こくりとうなずいた。
清花もこくりとうなずき返した。
「じゃ、ちょっといってきます」
何気なく挨拶をするように言って、出入り口のドアに向かっていく。
その背に、
「お母さん、どこいくの」
何かを感じとったのか、ふいに目を覚ました娘の声が、呼び止めるようにささやくのだった。
「うん、すぐに帰ってくるからね」
「いや」
やはり、なにかを感じとっているのだろう、悲痛な叫ぶような声であぐりは言うのだった。
「いかないで、いかないで、お母さんっ」
清花は、ちょっと首をまわして、娘をみつめた。
「お母さん、いっちゃやだっ」
立ち上がって、こちらに走り寄ろうとするあぐりを、背中から源次郎が抱きとめていた。
清花は、また出入口へと顔をもどした。
そっと、ドアを開ける。
生暖かい風のなかに、あきらかに異常な、殺気とも邪念ともつかない意思をふくんだ空気が入り混じって流れてくる。
「アルマイヤー、トランスポーテーション」
つぶやくと、清花の全身は光につつまれ、そして、その衣服が、白いレオタードのようなボディースーツに変じ、首から垂れたピンクの身の丈ほどの長さのマフラーが風に吹かれてゆらりとゆれた。
そうして、清花は、また、ちょっと首をあぐりに向けて動かして、彼女のいつもする、いたずらっぽい微笑を浮かべて、娘に言うのだった。
「お母さんに負けないくらい、すてきな大人になってね」
言って、外へ踏み出すと、未練を断ち切るように、ドアをしめた。
ウッドデッキの上にたち、彼方から静かに、にじりよるように迫ってくる男に目を向けた。
――城戸博士……。
壮年の、しかしがっしりと鍛えた体躯と、無精髭を生やした、野性味あふれる容貌を、清花は切り裂くような目つきでにらんだ。
そうして、その仇敵に向けて、歩んでいった。
山中に開けた草原の真ん中で、ふたりは、三メートルほどの距離をおいて、立ち止まった。
「城戸博士に憑依するなんて、唾棄したくなるほど汚い男ね」
清花は、憎しみを抑えることもせず、言った。
「アルマスーツというのか」
城戸博士とはあきらかに違う、低く、悪人とは思えない静かな口調でカシンは言うのだった。だがそれは、高圧的で人を嘲弄するような響きを持っていた。
「面白い趣向だが、無駄なあがきだ。おとなしく、私に娘のアルマをわたすといい」
「冗談じゃないわ。娘の将来はこれからなのよ。あんたみたいなクズに、娘の貴重な人生をささげやしないわ」
「ふん」とカシンは、心底から面白いとでもいうように、口の端をゆがめるのだった。「そんな不出来な戦闘服で私と戦うなど、無意味にひとしい。私は自分に立ち向かう者に対して容赦はせん。娘の数年のために、お前の人生をささげるのも馬鹿馬鹿しかろう」
「娘のためなら、どんな苦難でも耐えてみせるわ」
「そんなあやふやな、なんの力ももたない無意味な愛情だけで私に勝てるとでも思っているのか?」酷薄に笑ってカシンは言った。
清花はその酷薄な笑みに、相手に対する憎しみと娘に対する愛情が高まるのを感じていた。そして、目の前にいる悪辣な亡霊を、必ず打ち倒すという決意が、心を満たしていくのだった。
「あなた、四百年も生きているのに、簡単な摂理も知らないのね」
いたずらっぽく、清花はまた微笑むのだった。
「お母さんは、強いのよ」
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