閑話
その日 前編
窓から見える草原はまったくの暗闇で、まるでこのログハウスだけが世界にただひとつ、存在しているようにさえ思えた。
あぐりは、丸まって眠る黒猫のアオイにふっくらとふくらんだピンク色にそまった頬をうずめるようにして、ソファーに横たわって寝息をたてていた。
清花はその、まったく自分の運命をまだ知らない、無垢な愛娘の顔を、ただじっと見つめたのだった。
アオイが、清花の視線に気づいたように、ふと目を開き、こちらをみて目くばせするように瞳を動かすと、また目を閉じた。
清花は、この猫と最初に出会った時、人語を喋った驚きよりも、娘の運命にたいする不安と憤りを強く覚えたのだった。
四百年も生きているカシンという亡霊のような男が、あぐりのなかに眠る莫大なアルマエネルギーを狙っている。
人は大量のアルマエネルギーを奪われると、数年の間、眠りについてしまうという。
「このまま寝ていてくれると、助かるんだけどね」
清花は吐息とともに、つぶやいた。
「まあ、おもちゃ売り場でぐずられるよりは、楽だろうけどね」
と、源次郎がお盆にのせた紅茶のはいったティーカップをふたつ、ローテーブルにおいて、妻を手招きした。
清花はあぐりの眠る反対側にあるソファーにすわって、カップを手に取って、しずかに唇に運んだ。
まだ熱い紅茶を、そっと口に流し込む。
芳醇な香りと、ほどよい苦みが口の中に広がっていく。
どこのスーパーマーケットにでも売っている、ごく普通の紅茶なのに、源次郎がいれるとまったく高級な一品に変じるのだった。
夫は、料理の腕前はそうとうなものだ。天才的な味覚と手先の器用さを持ちながら、だが、生来の大雑把な性格がわざわいして、どうしても、一流料理人への一線を越えることができないでいた。
彼の言葉のはしばしからも、挙措のはしばしからも、自分が戦えないもどかしさと、妻にすべてをまかせなくてはいけない無念さが、みえかくれしていた。
アルマイヤーに変身するには、ある程度強いアルマ力を持っていなくてはいけない。源次郎は、いささか胡散臭い少林拳とそこそこの運動神経は持っていたが、アルマ力は持ち合わせてはいなかった。
「ねえ、知ってる?」
清花は、笑みをふくませて言うのだった。
「この子、最近、本家の
「なに?」源次郎が怒気をにじませて答えながら、テーブルの横の一人用ソファーに腰かけた。
「わたしね将来は泉水お兄ちゃんのお嫁さんになるの、ってしきりに言うのよ」
「冗談じゃない、あんな、人に会っても挨拶もしないような変わりもんのクソガキ」
「あら、変わり者には嫁を持たせろ、って言うじゃない」
「だからって、なんでうちの大切な、手塩にかけて一生懸命育てた、花のようにかわいい娘を嫁にやらんといかんのだ。だいたい、年が離れすぎているだろ」
「八つ違いは、苦に届かないとも言うわね」
「八つ違えば、価値観も違ってくる」
「あはは、ひとまわり年の離れた妻に言うことじゃないわ」
「な、なん……」
「わたしは好きよ、泉水君。無口だけど、心根はとっても優しいのよ。我が娘ながら、男を見る目があると思うわ」
「俺はぜったい反対だ」
「まだ四つの娘の結婚相手で喧嘩することもないわね」
「ふん」と源次郎は不愉快そうに鼻をならして、ソファーに深々と背を持たせかけたのだった。
それっきり、会話が止まってしまった。
さきほどから、風が出てきた。窓に打ちつけるようにぶつかる強風が、ガラスをミシミシときしませていた。
そんな風や窓の音が、静寂をさらに深い静寂へといざなっているようでもあった。
清花は、ずっと娘の寝顔をみつめていた。
いま、清花のなかにきざすのは、娘を守りたいという一心だった。
それは、言葉にするとなにか単調で安っぽい感情に思えるのだが、実際彼女の心を支配しているのは、言葉ではけっして言い表せない、我が子に向けた優しくて、しかし強烈なまでの愛情だった。
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