三の十六(第三章完)

 ――いつからだろう。

 小町は思う。

 私はいつからこの子を憎んでいたんだろう。

 ずっと昔から、何かの拍子にふっとあぐりのことを思い出し、ひっぱたいてやりたいと思う衝動にかられてきた。しかしそれは、一過性のもので、数分後には忘れているような、ちいさな古傷の痛みのようなものだった。

 自分と家族の人生を、まるっきり変えてしまった憎い相手。

 だが、その原因の、さらに根源には、カシンと呼ばれる亡霊がいたのを知っていた。そして、あぐりもそいつの犠牲者なのだ、と頭の中でわりきっていたはずだった。いたはずだったのに、晴明に計画をもちかけられたとき、あぐりにたいする憎しみがいっきにふくれあがった。

 あぐりさえいなければ自分の人生は違っていた、あぐりさえいなければ弟は苦しまずにすんだ、あぐりさえいなければ――、と。

 しかし、実際にあぐりをいじめて追いつめて、ケンカをしても、心にきざすのは、悲しみと自己嫌悪だけだった。

 その心の中の苦痛に気づいた瞬間、小町は、身体を流れる血が温かみをおびてきたように感じた。それは、人間ではないなにかに変化していた自分が、本当の自分に引き戻されたような感じでもあった。

 それによって、これまで憎悪のために心の奥底に押しこめられていた人のじょうというものが急激に復活してきて、今度はその情が心に満ち満ちて、反対に抑えられなくなって、心からあふれだしてきた。

「わかってた、わかってたの。あぐちゃんは悪くないって。カシンとかいう化け物がぜんぶ悪いんだって」

 小町の目からは、大粒の涙がしたたり落ちていた。

「でも、わいてくる憎しみがとめられなくて、自分でもどうしようもなくなって……」

 小町の声は、だんだん引きつりはじめる。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 涙が流れる顔を泥だらけの手でこすり、小町は謝罪する。そしてその場にすわりこみ、声をあげて泣きはじめた。ごめんなさい、ごめんなさいとくりかえしながら。

「いいの、いいのよ、こまちゃん」

 あぐりは立ちあがり、小町のそばに近づいて言った。

「あぐちゃん、いいの?ゆるしてくれるの?」

「ゆるすもなにも、友達なんて、ケンカするものよ」

 言ってあぐりは小町の前にすわり、抱きしめた。目に涙をいっぱいためて。

 小町もあぐりを抱きしめて、

「ごめんなはい、ごめんあさい」

 もはや言葉にならない謝罪をくりかえす。

 そして、あぐりも泣き出し、ふたりは抱きあって、泣きあった。

 いつのまにか雨はあがり、黒いアルマイヤーが消えているのにも気づかず、心のままにふたりは号泣しつづけた。ずっと――。

「まさに、雨降って地かたまる、ね」

 言いつつ、歩いてきたのは、子犬のアオイだった。きっとどこかでなりゆきを、こっそり見守っていたのだろう。

「アオイさん?」

 応じたのは意外にも小町だった。

「あら、小町ちゃん、やっぱり私の正体に気づいていたのね」

「ええ、気づいてた」

「え、そうなの?なんへ知ってるの?」あぐりが驚きの声をあげる。

「うん、昔、いっしょに遊んらじゃない。前は黒いネコだったへと」

「え、しょうなの?そんな昔の記憶があるのへ、こまひゃん」

「あるはひょ、しっかりあるはひょ」

「すごいわね、こまひゃん、わたひなんかむはひのきほくなんへ……」

「ああもう、なに言ってるかわかんない、ふたりとも、泣くか喋るかどっちかにして」

 あきれたように言うアオイ。

 それに応じたように、あぐりと小町はふたたび声をあげて泣き出す。泥にまみれ、汗にまみれ、涙にまみれ――。

「あ〜、女ふたりで抱き合ってなにやってんだよ」

 感涙に水をさす声とともに、今度は、紫があらわれた。傘の柄に指をつっこみ、器用にくるくる回しながら近づいてくる。

 あとであぐりが聞いた話では、紫は、アルマブレスレットが反応していたので様子を見にきたらしいが、こういうのはお互い納得いくまで殴り合ったほうがいいだろうと考えて、ずっと隠れてみていたそうだ。

「いつまでイチャイチャしてんだ、はなれろ」

「なによ、嫉妬してるの」まだ涙に顔をぬらしながらも、気色ばむ小町。

「な……、んなわけねえだろ」

「いいじゃない、仲直りの抱擁よ、ねえ、あぐちゃん」

「なにが仲直りだ。あぐりがゆるしても、あたしはゆるさん」

「はあ?べつに、あんたになんかに、ゆるしてもらうつもりはさらさらないし」言って小町はあぐりを抱く腕に力をこめ、頬を頭にこすりつける。

「あぐりが役に立つとわかったら、とっとと手のひらをかえすとか、まじありえねえ」

「手のひらをかえしたんじゃないわ、ふたりの友情が復活しただけよ。私たちの友情が復活した以上、あんたなんかもういらないわ。ねえ、あぐちゃん」

「てめえ、ぶっとばされてえのか」

「ふん、ぶっとばされるのは、どっちかしら」

「上等だ、コラ」

「いいわよ、かかってきなさいよ」

「ほえづらかくなよ、アースマイヤー」

「なにマイヤーって、なんでそこで区切るのよ、ネーミングセンスないんじゃないの、バカじゃないの」

「ああ、もうあったまきた、絶対ぶっとばす!」

「やれるもんなら、やってみろ!」

 抱き合っていたあぐりを突き飛ばすように離し、立ちあがる小町。

 傘を放りなげると、変身して殴りかかる紫。

 ふたりは、たちまち激しい殴り合いをはじめた。

「きゃあ、やめて。ふたりとも、わたしのためにケンカしないで!」

 たまらず叫ぶ、あぐり。

「「あんたのためじゃない!」」

 同時につっこむ、ふたり。

「はあ、こっちは雨が降ってそのまま泥沼ね」

 完全にあきれてアオイがいう。

「ふん、もう知らないっ」

 ぷっと頬をふくらませて言うあぐり。

 だけど、あぐりはうれしかった。小町も紫も、ケンカしながらどこか楽しそうだったから。

 ちょっとの間やんでいた雨が、また、ぽつりぽつりと落ちてきた。

 梅雨明けには、もうしばらくかかりそうだ。

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