一の一
「はやくしないと遅刻しちゃうっ!」
シャワーのハンドルを回す。だが、給湯器からそんなに早くお湯が流れてくるわけがなく、
「ぎゃぁっ」
冷水を頭からあびてしまう。
よくもまあ、毎日同じことをくりかえして、われながら飽きないものだと感心する。それは本来自分がドジなだけなのだが、意地でも自分がドジなのだとは認めたくない、絶対。
シャワーヘッドに手をあてて、お湯が流れでてくるまで、じっとかたまる。まだ五月のおわり、裸で感じる朝の空気は、まだ寒い。
かたまり続けること、数十秒、やっとお湯が流れ出てきた。
シャワーを体にあて、冷えた体を温める。
シャワーをあびていると、体の汚れや臭いも洗い流してくれるし、気持ちがリセットされる気がして、それが心地よい。年頃の女の子の身だしなみとしてはもちろん、朝にシャワーを浴びないと、なんとなく、一日がはじまらない気分になるのだ。
「おい」
浴室の外から声がする。
「おい、いつまで入ってるんだ」
これも朝の日課のようなもので、あぐりがシャワーを浴びていると、かならず父がせかしてくるのだ。
「遅刻するぞ、はやくせんか」
――ああもう、うるさいんだから、もう。
心の中でぼやきつつ、あぐりはシャワーをとめ、脱衣所へ飛び出す。
と……、
「ぎゃあっ、なにしてるのよっ」
父が脱衣所の戸から首だけだして、こちらをのぞいている。あわてて、大事なところを手で隠す。
「お前があけっぱなしにしとったんだろうが」
言いながら、父は戸を閉めた。
「だ、だったら、閉めてくれればいいでしょ」
あぐりは、バスタオルで体をふき、そのまま体に巻きつけた。
「もう、信じらんない。まったくデリカシーってものがないんだから、もう」
悪態をつきつつ、脱衣所からでる。
「まったく、時間がないなら、シャワーなんぞ浴びんでもいいだろうが」
廊下の端によって、あぐりに道をゆずりつつ、父が小言を言いはじめた。
「女の子なんですから、汗臭いまま学校に行けないんですぅ」
「能書きはいいから、早くしたくをせんかっ」
「はいはい、言われなくても、すぐにしますぅ」
廊下を踏みならして歩きながら言いつつ、あぐりは、玄関から飛び出した。
「ぎゃぁっっっ」
当然すぐに逆戻りである。
「まだ着替えてないじゃないのっ」
「しるか、お前がボケとるんだろうがっ」
「ボケてないもん、お父さんがつべこべうるさいから、混乱しただけだもん」
「言い訳しとらんと、とっとと着替えてこいっ」
「言われなくてもそうしますぅ」
言ってあぐりは、階段を駆けあがり、自室に飛びこみ、さっと制服に着がえ、ツインテールに髪を結ぶ。一連の動作をよどみなく終える。我ながら、手慣れたものである。
毎朝、出かける時間から逆算して、目覚ましをセットし、ちゃんと起きて仕度をしているはずなのに、いつも、時間ギリギリになる。あと五分だけでも、はやく行動できれば問題ないのに、その、あと五分、がはやく行動できない。なんの、あるあるネタだろう。自分の計算が甘いとは、認めたくはない、けっして。
あぐりは、まだ先日
ブレスレットを左の手首につけると、言葉では言いあらわせない、おだやかな温かさが体にしみこんでくる。これをつけていると、なぜか、母の存在を近くに感じるような、不思議な気分になるのだ。たとえ学校の教科書を忘れることがあっても、このブレスレットだけは、忘れない。
部屋を飛びだしたあぐりは、ドタドタと足音もたからかに階段をおり、玄関にきて、ローファーを履き、ドアに手をかける。
うん、大丈夫、これなら遅刻しない。
「カバンはいらんのか」
「もう、靴を履く前に教えてよ」
「お前が忘れとったんだろうがっ」
「そうやって、すぐひとのことを悪く言う」
「いや、誰がみても、どう考えても、悪いのはお前だ」
「ああもう、うるさいっ」
靴を乱暴に脱ぎ、自分の部屋まで戻る。急ぎ足。カバンをつかんで、また玄関へ戻る。駆け足。父、待ちかまえている。
「まったく、忍術の修行もしない、親の言うこともきかない。この、わがまま娘がっ」
「いい歳して、忍者のまねごとなんか、したくありません」
「お前自身のために言っとるんだ」
「さっきから、娘にむかって、お前、お前って、失礼でしょ」
「へらず口だけは、一人前だな」
「まったくもう、うるさいんだから、もう」
「もうもう、もうもう、牛さんか」
「もう、うるさいっ」
ふたたびローファーを履きかけると、玄関のベルが鳴った。あぐりがドアを開けると、クラスメイトの
「ユカちゃん、おはよー」
「おはよー」
「やあ、ユカリちゃん、おはよう」
「おやっさん、おはよう」
紫はいつも、朝から元気だ。体育会系だからか?
あぐりが外にでると、
「じゃ、行ってきます」
と父に声をかけるのは、あぐりではなくて、紫である。
「いってらっしゃい」
父の声を聞き流しつつドアを閉め、あぐりと紫は学校へ向かって歩きはじめた。
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