HarbingeR

θωΟφ

第1部

『グッドバイ・クルーエルワールド』


 これらのテキストデータ群は、私のライフログにセーブされている単なる記録の一部である。WTML(Worldwide Text Modular Language)フォーマットという文章構成に必要なコンテクストを、あとからメタデータとして追加できるものを使用している。余談だが、このWTMLは後に開発されるETMLフォーマットの始祖と言われている。これは、単なる、それ以外の目的のない、「私と"彼女"の記憶」に捧げるものであって、あくまでプライベートな目的しか含まれていない。私が愛したひとを、私が嫌ったものを、或いは私そのものを、私はここに置いていく。私が生きた、西暦2068年。企業、政府、社会規範に身体を支配されようと、人の心の在り方の変わらないことを祈って。


〈quote〉

 この人生に何を期待していたの?とわたしは自問する。皆が想像するような、如何にも幸せそうで、全てうまく行く都合良い人生?ううん、それは違う。私は最初っから、なにも期待なんてしてなかった。別に幸せになりたいなんて、少しも思っていなかった。ただ、誰かがやれと言ったわけでもないのに呼吸をして、全身に血液を送って、少ない友達と駄弁って、買い食いをして、成り行きで緩やかにお互い繋がって、欠点を肯定し合って、それで十分だった。

 それなのに、ある時から私はそれら全部を否定しはじめた、呼吸さえも。学生。東京。冷たすぎる人の波のなかで、離れようとする私の生命をつなぎ留めてくれたのは、ひとりの少女だった。

〈/quote〉


「ありがと。じゃ、お返しに私のお魚一切れあげる」

「いいの?」

「うん。いつも一緒にいてくれるお礼」

 彼女は焼き魚を箸で器用に切り分けて、そのままひょいと私の弁当箱に載っける。これが社会に対するささやかな反逆であることは、私も隣に座る玖羽ユウカも理解のうえ。だって、「厳密に栄養価が計算され、生徒一人ひとりの健全な生活を実現するための完璧な食事」だから、人目につかない使われなくなった階段でおかずを分けっこするなんて到底許されたことではない。別に不思議なことじゃなくて、社会の理想を科学が近付けた。ただそれだけ。


  私と「彼女」との一生記憶につきまとう関係の始まりは、まだ夏服に切り替わる前の昼休み。私はできるだけ静かで、誰かに邪魔されることのない、とうにメタ化した人付き合いを気にしなくていい落ち着ける場所を探していた。いろいろ試した結果、東側の使われなくなった屋上行きの階段に亡命することにした。

 「生徒立入り禁止」と雑に張り紙がされた重たい鉄の扉を開ける。踊り場のない長い階段。教室は快適で適切な明るさと温度と湿度に保たれているが、ここの明かりは小窓と非常灯が幾つかあるだけで薄暗い。

 階段の真ん中ほどに人影があった。私に気付いた様子もなく夢中で弁当を食べている。上履きの学年識別色から同学年ということが分かった。同学年にはあんまり会いたくはないから、向こうが気付く前に戻るのがいい……。

「待って」

 迂闊だった。まさか話してくるとは思わなかった。

「I組の入依さん、入依セリカ、だよね」

 同じクラスにこんな子が居たかな…。聞いたことのない声だけど、何故か心地よく響く。彼女は私がその場から立ち去るタイミングを潰して、風が吹くかのようにスカートの裾を気にかけながら私の許へと階段を駆け下りてくる。並んでみると、目線は私より少し低めで、どういう訳か彼女の左目は蒼かった。なかなかの勢いで弁当箱にがっついていたわりに痩せていて、すらりとした脚はナイキエアーに似たごつい上履きに少しミスマッチさを感じた。何となしに、白いブレザーが眩しそう。

「……ごめん、また今度でいい?」

 なんか不思議な人に絡まれた。早く離れよう。

「ねぇ、どこに行くの?」

「き、教室だけど」

「ほんとに?」

「あ…」

いろんな意味で退路を断たれた気分。そりゃ教室に居場所がないからこんなところに来るんだけど。それから彼女は私の目を覗き込んで、

「……大体初めて話す人は私の目のことを聞いてくるんだけど」

「いや、唐突すぎて、その……」

「そっか、そうだよね……」

 お互い次の言葉が見つからなくて、私は手にぶら下げた弁当箱を気にかける。スリープモードにしてある拡張現実の眼鏡が予鈴まで十五分なのを知らせた。普段と違うことをすると、妙な焦りが出る。

「えーと、私、玖羽ユウカ」

「それ、名前?」

 「くはね」の綴りが分からなかったのでオーグメントのネームタグをオンにすると、一瞬のラグの後に情報が表示される。彼女は同じクラスだった。

「ね、ねぇ、待ってよ」

本当に教室に帰ろうとして「明日からはヘッドフォンでも持ってきて外界との隔離をアピールしてればいいか」とか考え始めた私を引き留めて、

「一緒にお昼、食べたい」

 頼まれて拒否するほど誰かに冷たくできないから、私は素直にうなずいた。一瞬、彼女の左目が輝いたような気がした。

「……ここ、人が来ないから私のスポットなんだけど、フェイクアイが気配を教えてくれて、誰だろうって思ったら入依さんだって思って」

 丸い小窓からビルの明かりとか街の立体広告とかの光が入ってくる。静かで、雨音も聞こえてくる。これが私が求めていた環境、他人が居ること以外は。私は眼鏡を外して、拡張されてない現実に戻る。

「フェイクアイ、その目のこと?」

「うん」

「拡現の名前?」

「ううん、わたしの現実。視神経と直接つながってるの」

「へぇ」

 おっ、今日は卵焼きが入ってる。地味にうれしい。

「生まれつきナノマシン中毒で片目が視えなくて、それで研究員のお兄さんにヒューマノイドの部品から作ってもらったの」

「そう」

 ……にしてもリクエストした唐揚げはまだ入れてくれないのかな。

「えっと……ちょっとグロテスクでしょ?こんなの付けてるせいで、中学じゃ散々な目に遭ったし」

「綺麗だと思うけど」

「きれい……?」

 彼女は色白の頰を紅くして、私から目を逸らす。

「そう、かな……」

「そう思って、わざわざ蒼くしたんでしょ」

「う、うん。そうなの、授業中にも使えるし人の気配も教えてくれるスグレモノ」

 ユウカは振り向いてぎこちなく笑った。

「……ちょっと見せて」

「いいけど」

 瞳孔がすこし動いた。私にピントを合わせたのだろう。色が深くて、綺麗。私に反応して小刻みに動く黒目が子供の頃に遊んだおもちゃみたいで可愛かった。

「あんまり近いと、ピント調整に不具合が出るから……」

「ごめん、綺麗だから、つい」

「………っ」

 それから特に話すことも無くて、私の弁当の中身は減ってゆく。私より先に食べ始めたはずのユウカの方にちらっと目を遣ると、まだ半分くらい残っていた。

「量、多いね」

「最近、食べてる時が一番幸せなの。褐色細胞が働きすぎなのもあるけど。食べないと頭、働かないから」

 そうは言ってもどうして学校の生活コンサルタントが決めた基準をはるかに超えた量の弁当を平気で食べているのか気になったけど、そこまでパーソナルな話題に触れようとはまだ思えない。彼女は他人とちょっと違うだけ。また沈黙。私は眼鏡をかけて時計を見る。昼休みが終わるまでまだ少しある。うっかり話しすぎて授業に遅れることはなさそうだ。ユウカを見ると、彼女の横にネームタグが表示される。二年I組、間違いなく私と同じクラス。そんな彼女は突然私に視線を合わせる。

「……入縁さんは眼鏡派なんだ、オーグメント」

 拡張現実、オーグメント・リアリティ、略してオーグ。ここ最近急に流行りだした技術で、私なんかはそのヘビーユーザー。コンタクト型の、視神経に直接繋ぐやつが人気ではあるけど、私は眼鏡のアナログ感が気に入っていた。

「普段かけてない人がたまにすると可愛いよね」

「それは知らないけど……教室じゃ使うこともないし」

「そ。タグの横に罪状書かれるのはみんな嫌だから」

拡現は授業中の携帯使用より取り締まりが厳しい。私も二、三回しょっぴかれた事がある。そうなると“犯罪歴”をネームタグの横に書かれる。さっきネームタグで見たとき、彼女はクリーンだった。

「でも、さっき授業中も使えるって」

「私の眼だもん。まぁ、その、色々規制をパスしてるから。それに、ある程度プライバシーも確保してくれるの」

 そういえば、さっきタグを見たときに一瞬ラグがあったのを思い出した。まさか、タグは偽物?ネームタグの偽造は私も試した事がある。その時は見つかって、幸運にも清掃ボランティア三日程度で済んだ。

「あっ、このタグは本物だよ。普段は妨害して隠してるけど」

「そんな秘密、他人に話して大丈夫なの?」

「うん。ていうか、バレても昔と違ってデジタルに依存しすぎてるから、どうにかなるんだよね」

 得意げに話す彼女に呆れを通り越して感心する。尊敬の気持ちさえある。堂々と校則を破りながら毎日学校に来て平気な顔していられるんだから。彼女はただの不思議な人じゃない。

「それに、入依さんはそういう種類の人間だって思ってないよ」

「……」

「でしょ?」

 私はユウカの機械の方の眼に同意のエモートを送る。

 彼女は私の眼鏡にロット・オブ・ラフのエモートで返した。

 どうして隣の蒼い目の少女はここまで私に興味を持つんだろう?私からすれば、変な人に絡まれたとしか説明できない。もしかして、これが世にいう友達ってものの始まりなのかも。最初に会ったときに、特にインパクトを感じた人とまた関わりたいと思うようになるアレ。その先を考えようとして止めた。

 すぐ途切れる会話が何回かあった後、授業五分前を知らせるチャイムが2回ループして鳴った。私は反射的にオーグを切る。玖羽ユウカは、左目を前髪でささっと隠した。

「行こっか」

「……そうだね」

 廊下は広いのにユウカは私にくっついて歩いた。名前も知らない同学年の人たちとすれ違う。ネームタグをオンにしていれば、顔の横にタグが現れて所属と学年、血液型、出席日数とか諸々の情報が表示される。片っ端から女子生徒の首に巻き付いてるチョーカーも、知りたくもないような役割を果たしているに違いない。向こうがここまでするのも、非常時の生徒の保安を考えてのことらしい。技術が進歩すれば誰もが利己的になるし、もしプライバシーが有れば、無力な私を学校は守ってくれない。

 私たちは何も話すことなくそれぞれの席についた。


  * * *

 

(先生、助かったよ……)

 私は三二点の答案を渡されて安堵のため息をつく。赤点スレスレで満足できる人間は、点数が個人の市場価格とか社会適性度を表している世の中であまりに少ない。平たく言えば、ユースフルな人間とユースレスな人間がひと目で分かるってこと。

「ねぇセリカ、何点とれた?」

 休み時間の会話の中で堂々と他人の有用性に首を突っ込む少女の名前は海月アイハ。彼女も珍しく私と同じで、点数の意味とか点数でマウントを取ろうとか一切考えないで単なる好奇心から聞いている。

「よんじゅう……に」

「いいじゃん、勉強したの?」

「してない。当たり前でしょ」

「いっつも思うんだけどさ、もったいないよ。セリカ頭いいのに」

 アイハは数字で人を見ない。アナログな人付き合いができるから一緒にいて居心地がいい。拡張現実で覗かれながらのコミュニケーションなんて私はごめんだ。ただ・・・左目が蒼い人工水晶体の少女、玖羽ユウカを除いては。

 最初にあの階段で会ってから、何回か昼食を共にしたときに、ユウカは自分について「左目はアンドロイド技術の人工水晶体でできていて、もとの眼を引っこ抜いて義眼を入れたわけじゃない」ことと、「眼を造ってくれた『研究員の兄さん』の名前は『ハリー』といって(結構若いらしい)」ということを教えてくれた。

 それからは…試験が入ったせいか二週間くらい日常会話すらしてない。アイハと話すのはよく見かけるけど。アイハにとって友達の友達は友達だから。私の席から、授業が終わるなり教室を出て行くユウカの姿が見えた。彼女は私の視線には気づかなかった。私ができる自己主張なんてその程度だし、別に一人でもいいか。ユウカの背中から目線を外した三十秒後、彼女は私の席に戻ってきた。

「ねぇ……セリカ?」

「あぁ、向こうね、いいよ」

「別に、あっちじゃなくてもいいけど」

「私は特に用がある人もいないけど、違うとこがいい?」

「ううん、いつもの場所でいい」

 私たちは昼休みの定位置で話し始めた。会話の中で、彼女は私にこんな話を聞かせてくれた。


〈quote〉

 むかし、人を殺すミームを撒いて誰にも気付かれずに大陸レベルの虐殺をした人が居たんだって。小さい頃に授業で習ったとき、わたしもそのミームとやらで誰かを殺せるかなとか考えて、いろいろ実験とかしようと思ったら、それでセラピー指導をなんべんも食らった。誰かを殺しかけたのは本当だけど…。「なんで?面白そうじゃない」って言ったせいで頭に良心チップを埋められてる。社外品と暮らすのは最初は気持ち悪かったけど、もう慣れちゃった。それでも、たまに思ってることと全然違うことを勝手に喋るのは相当気持ち悪いけどね。別に、私は狂ってなんかないし、チップの方がもっと私を狂わせてる。どんなクソ野郎にもファミリーフレンドリーにしなきゃいけないなんてどうかしてる。わたしに誰かを殺させないだけでよかったのにさ。だから、昼休みくらいは良心を気にしなくていい場所に居たいの。

「それってさ、良心に反応する人としない人でどういう人か理解できたりしない?関わるべき人を選んだりとか?」

「んー……ま、まぁね?当然、基準はそれだけじゃないけど……」

 さすがに、そこまで機械任せにしないでしょ。彼女はそう言ったけど、私は、ある意味理にかなっている気がした。人間のステレオタイプがある程度存在してて、どうせ顔見知りの狭い世界だけで生きていけるんだし、そこを機械に任せたって、何も違和感はないと思う。

「別に、間違ってもない…って思うな。私は羨ましいよ。そんなのが私にあったらもっと楽に生きれたよ」

「?……そっか。そういうもんかもね」

 …もし、私があなたと関わるに値してないとしたら?関わらないほうがお互いのためだとしたら?どうして私と居てくれるんだろう。「友達」だから?私じゃなくてもアイハとかアイハの取り巻きとかもっとフレンドリーな人なんているはず、私にとっては「帰りがけにファーストフードに寄る程度の人」ですら十分なのに。

〈/quote〉


 まぁ、本当に帰りがけにファーストフードに寄ってるんだけど。アイハと、顔は見るけど名前はよくわかんない人ふたりと、アイハの後輩のミカと私とユウカで来ている。

 私が小さい頃、来客率が人間のキャパシティを超えたので、十年くらいかけて人から機械に入れ替えていったという。私がいる店も、高校に入ったときくらいからマネージメントレールに吊るされた店長コアが何から何までやっている。彼の名前はサム。人間よりフレンドリーに振る舞う。

「今日はヒマでいいねェ」

「あんた店長でしょ」

「店長ねぇ。アイハさんよ、それも形だけさ。運営システムが社会規範の一つになっちまったから、こっちがヒマでもどこかで辻褄が合うンだよ」

どうして名前割れてるの、と向かいに座るユウカに小声で話しかける。ネームタグだよ、と小声で返される。

「変な世の中ね。仕事楽しい?」

「楽しいさ。昔はもっと楽しかった。バイトの学生さんたちと仕事してた頃が一番良かった。もう人が要らなくなってから随分経つけどな」

 彼は表情豊かで、球体の身体全体で身振りっぽいことをしたり、カメラアイの一つ目を器用に動かして笑ったりしている。ロボットのくせにコミュ強だな、と思う。店長が女子高生と話すのを楽しんでる間、私は小腹を満たすのに忙しい。食べっぷりに関してはユウカの方が上だけど。こうやって時々高校生っぽいことをするのが好きだった。誰とも話さないでいると、自分が学生だってことを忘れそうになるから、私にとっての非日常だ。

 それくらい、人と関わるのは難しい。できればしないで一日過ごしたい。人と関わることは、私の中で『知り合いのシットポストにくだらないリプを送る』の次に「お互いのためにやめておいた方がいいことのリスト」に入っている。アイハと知り合ったときはどうなることかと思ってたけど、個人的なカウンセラーになってくれるお陰で、私は前より健康になってしまっている。基本的に、関わる人が増えれば増えるほど私の死に刻を逃していくわけで。後になって気づいたのは、将来を気にせずに明日死ぬようなつもりで生きているときほど今が楽しかったこと。


〈recollection〉

 私の住んでいる地域に核が落ちると聞いて、私たちは街を離れて避難した。何時間か歩いていると、急に雨が降り出した。きっと死の雨というやつなんだろう。私は傘を忘れていた。私たちが避難する場所は、強固な造りの収容所とかいう場所らしい。周りの人の話を聞く限り、前いた所より居心地は良さそうだったけど、行列の中の私に似た誰か─フードを被っていてよく見えなかったけれど──が、「嘘だ」と繰り返し呟くのが聞こえてきた、

 収容所に着くと、間抜けな顔をした軍服を着た男がなにか話していたが、ずっと人混みにいた疲れで何も聞いていなかった。それから、周りについて行くまま歩くと、私は格子がついた、冷たくて固い床の部屋に入れられた。そこには私ひとり。照明はなかったけど、通路が明るすぎるせいでそこからの光で十分だった。若干うっとうしいくらい。

 あの間抜けな顔の軍人と話すとき以外は─何を話したか覚えてないけれど─私は気を失っていて、一、二回話すと一日が終わるようだった。その短い一日が何度も始まり、終わる。感覚が麻痺してくる。いつか私は放射能に冒されて死ぬんだろう。この日々も終わる。

 でも、もしこの狂った日常が私の寿命を伸ばすためのものだとしたら?

 私から死を遠ざけて社会に戻すためだとしたら?

 私は単なる資源で施設に管理されているとしたら。

 待って、それじゃ何も変わらない。私は早く、はやくこんな世界、終わらせてしまいたい──。私は眼を閉じる。次に開けたときに見えたのは、暖色系の明かりがついた保健室の天井。ベッドが身体を包み込んでくれている。

〈/recollection〉


「セリカ、体調どう?」

「……悪くないよ。大丈夫」

 最悪だ。さっきの夢、ほとんど普段の私だった。でも、そんなことを見せられたってどうしようもない。

「うわ、次の授業遅れる。このまま永遠に寝てるとこだった」

「あんまり無理しないで、ほら、『自分を大切に』ね?」

 この標語をなんとなくふたりの間で馬鹿にしている。

「こんな所に通いながら自分を大切にするなんて無茶よ……はぁ、スカート履くからあっち向いてて」

「はーい」

 保健室を後にする。二人で明るい色の廊下を歩く。ユウカと話をする。こういう時、悔しいけど、私が学生であることが嬉しかった。

 そういえば、少し前に『セリカとふたりがいいな』なんて言われたけど、結局流れでアイハと混ざっちゃうし、昼間しか一緒に居られてない。突然ユウカが近づいてきたのは何だったんだろう。電子機器の不調かもしれない。正直、本心だったとは彼女のためにも信じたくないけど。……でも、理由は何であれ、私は嬉しい。彼女の話を聞くのが最近の私の楽しみだし、なんとなくどこかで心が通じている感覚を、勝手に持っている。教室じゃ拡現か携帯をいじってるか、アイハに絡みにいくことくらいしかすることが無くて、昼休みは私にとって癒やしだ。私がおいしい食事以外で幸せを感じたのは何年振りかわからない。

 誰かと居てしあわせだなんて、どこかおかしくなったかな、わたし。


  * * *


「わたしこれからメンテ行くけど、一緒に来る……?」

「メンテ?」

「ほら……わたし、機械とかガチャガチャ付いちゃってるじゃん、それでさ、時々整備行かなきいとあちこち、干渉?しちゃってさ」

「何かと忙しいですね」

「うるさぃ」

「それ、私もついて行っていいの?」


 地下鉄に揺られている間、いつだかゼロ年代の世界を描いた映画を見たことがある、って話をした。恐ろしいほど今を予言していたのを覚えてる。映画と違うのは、旧ソ連のプロパガンダが流れてないこと。それに、アンドロイドが夢を見ないこの国では、何をするにも人の手が必要で、結局人の手が無いと回らない社会を作ってしまった。そのくせ人をAIみたく教育するのは上手だから、妙に未来っぽい社会が生まれるんだけど。

「セリカはよく映画観るんだ」

「うん、映画館には行かないけど」

「わたしが好きなのは『アトラクション/制圧』かな。特別面白いわけじゃないけど、雰囲気が好きなの。なぜか何回も見ちゃう」

 一本地下鉄を乗り継いで、私たちはヘビーレインの降りしきる工業地区に放り出された。大雨じゃなくて、汚染物質がたくさん混ざって重くなるから、ヘビーレイン。道を知っているユウカがさっさと歩いて行ってしまうので、労働者の人混みに見失わないように拡現で彼女をトラッキングしながら後に続いた。ナビを使わずに見知らぬ土地を歩くのはやっぱり不安だからだ。

「着いた。ここだよ」

「嘘、ボロっ……」

 本当に研究員がここに?ところどころ建物にヒビが入っているコンクリートの取り壊し寸前みたいな建物。シャッターが固く閉まっていて、その上に「五月雨モータース」の看板。ここだけ何かがおかしい。絶対ここじゃない。

「あー、ボロいのはテクスチャだよ。雰囲気出てるでしょ」

 中から若い男の声がする。

「いまシャッター開けるから」 

 半分だけ開くと、ユウカが身をかがめて入っていったから、私もつづく。入ると、天井が高いのに驚いた。見たことない機材のLEDがやたらチカチカしてて、一応研究室なのは間違いなさそうだ。見た目はボロいけど、中身は最先端。この人とはシュミが合いそうな気がする。真ん中には旧いスピナーが一台停まっていて、青白い明かりが黒いメタリックカラーの車体を照らしている。

「久しぶり、クソ野郎。元気してた?」

「こっちは相変わらずよ、玖羽ユウカさん」

「今日は左眼だけでいい。それと、早くこの鬱陶しいチップを外しなさいったら」

「何回も言ってるけど、それ外れないんだって」

 そう言われるとユウカは声を荒げて、

「いい加減にしなさいよね?私の性格めちゃくちゃにしておいて」

「アレは……僕の意志じゃなかったんだってば」

 彼女はツンとそっぽを向いたまま奥の部屋に行ってしまった。

「彼女、いつもと違うだろう?この部屋は電磁パルスを流して良心回路の効きを弱くしてあるんだ。僕が彼女にできることはそれくらい」

「は、はぁ……」

 ユウカは行っちゃうし、良心の効きを弱くとか意味わかんないし、無駄に広い部屋にダフト・パンクのトーマみたいな顔面のひょろりした男性と私だけが残されて、私はどうしていいかわからない。少なくとも人の顔はしてると思ったんだけど。

「入縁セリカさんだよね?話はユウカから聞いたよ。あの子が他の誰かの話をするなんて珍しい」

 しれっと呼び捨てしているのが気になる。というか気に食わない。気に食わないけど、私より付き合いが長いみたいだから仕方ない。

「すいません、あの…玖羽さんは」

「いま、人工水晶体の調整に」

「あっ…。じゃあ、あなたがハリーさん」

「うん、ミナモトフィクスチュアで研究員をしている」

「フィクスチュア?」

「よくある話だろ、もともと車作ってたのが急に布作り出したり」

「逆だと思うけど」

 学校以外の事業にも参入しているらしく、見渡すと警察部隊の白いヘルメットが飾ってあった。

「社長が日本人びいきでさ、僕、ハーフだから待遇が良いんだよ」

「へぇ。確かに、ここ最近はそんなんで差別とか言われなくなったものね」

 遺伝子治療で出身などいくらでも偽装できる時代に、純血のもつ価値が見直されてきている、といったところか。

「しばらく働いていると、こうやって好きに使える自分の部屋がもらえてね。製品のテストとか部品の整備とかができる」

「ユウカはよくここに?」

「まぁね。彼女にとっちゃ第二のわが家みたいな感じだろうな」

 ユウカが出てったドアの向こうから、大声で「そんなことない!」と叫ぶのが聞こえた。

「その……嫌われてるの?」

 するとハリーの声が急に弱気になって、

「うん……、彼女に良心回路埋めたのは僕だし、君の学校の血流チップとか僕が開発をちょっと手伝って、管理もちょっと手伝ったし…」

「待って、学校に血流チップなんて何に使うの?」

 完全に予想外の質問を投げられたようだった。

「えっ、そりゃあ、健康状態データの送信とか、チョーカーの位置データの送信とか……だろ?あの、全部僕がやった訳じゃないんだ」

「確かに、あなたのこと嫌いになりそう」

 本当に知らないほうがよかった。当然、ユウカも怒るよ。どこまでプライバシーを奪えば気が済むんだか。

「過保護な親よりたちが悪い…」

「正直、すまないと思っている。だから、せめてユウカにはできることをしてやりたいんだ……エゴだとは思うけど」

「そう……」

 沈黙。入縁さんは気まずい空気を作るのがお上手ですね。こういう瞬間はいつもウンザリする。話したいことは用意してあるはずなのに、いざとなると口は固く閉じて動かない。咳払いをして喉をクリアにしてから、沈黙を破ろうと試みる。

「…ねぇ、その拡現知ってる。コスワース製64年式の限定版でしょ」

 と言うと、ハリーの目が輝いた、ような気がした。見えないから。

「詳しいね、お嬢さん」

「(お嬢さん?)まぁね。昔、欲しかった」

「本当かい」

 それからユウカを待つ間、ARオタク同士で語り合った。

「ハリー、終わった」

「お疲れ。もう少しゆっくりしていきなよ」

「そうね、できれば薬もらってさっさと帰りたいんだけど。あと、セリカ」

「なに?」

「ハリーの拡現(それ)、あんまり似合ってないって思うんだよね」

「そう?未来人っぽくていいと思うけどな」

「セリカがいいならいいけど……」

 確かに、白いブレザーに合わせるとシュールだとは思うけれど。

「じゃ、お茶いれてくるから。オーグ、返してもらえる?」

「待って、ヘルメットが抜けない」

「ベーコン持ってきて!」

 私がハリーに頭を返すと、階段を上がった別のドアに入っていった。

「セリカ…付き合わせてごめんね」

「誘ってくれたんじゃなかったっけ」

「そうだっけ?」

「まぁいっか。今日のユウカ、ちょっと辛口だよね」

「そうかな。まぁ、後付けの良心でもあいつに優しくしようとは思わないわ」

「ふーん、ハリー、ユウカのこと好きみたいだったけど」

「は、はぁ?冗談でもそんなこと言わないで……」

 珍しく顔を赤くして、ユウカが憤慨する。そんな彼女を、私は少し楽しんでしまっていた。そんな楽しみも、ここを出るまでの間。

「冗談だけどさ、ずっと後悔しているみたいだった。すまないと思っている、って」

「アイツ、ちゃんと分かってるじゃない……」

 ハリーに譲歩したちょうどその時、マネジメントレールに吊るされた二本指が器用にトレーを持ってハリーと戻ってきた。

「何か言った?」

「アンタに言ってない」

 こんなに分かりやすいツンデレが存在し得るだろうか、と私は思う。それから、コーヒーを一杯ブラックで飲み終わるころにはユウカのツンデレ節もなんとなく収まって、世間話をして時間を溶かした。

研究室を出てから少しの間は電磁パルスが効くから、「普段のユウカ」に戻るのは少し時間がかかる、とハリーが言っていた。

「はぁー疲れた。たくさん喋るとしんどい」

「うん、よく分かるよ」

 私も疲れた、と笑う。高校生は話を終えるタイミングを作るのが苦手だから。

「……ありがとね、セリカ」

 左目を隠さない彼女が微笑む。地下鉄に乗る頃には口数が少なくなっていた。


   * * *


 私のライフログがここで不具合を起こしていて、文脈が抜けているので加筆する。

私は得体の知れない不安とユウカの心地良さから、彼女との依存関係を楽しんでいた。今思えば、どうしようもない間違いだった。これが、その顛末。


「セリカ……セリカ、いるの……」

 聞きたかった声が私を呼んだ。しかしそれは普段と違う、かすかな、消え入るような声で、どこから聞こえてきたのかも分からなかった。

「ユウカ?」

「…………」

「無理しちゃ駄目だよ、一緒に帰る?」

 流れるように口から飛び出す都合の良い言葉。そんな言葉ばっかりで嫌ではあるけど、彼女が受け入れるから仕方ない。彼女にとって、私は価値がある存在か、知りたかった。


 私は知った。というより、"思い出した"。世界はその気になればいくらでも地獄を見せることができる。


「《愛して 愛して、私を愛して》

……っ!ごめん、違うの、違うの…今のはわたしじゃない。《嫌いにならないで》ごめんね、怖がらせちゃって……。ハリーに頼んで、良心回路、外してもらったの。そしたら、そしたら…本当のことしか言えなくなって。薬で抑えてるんだけど、これ以上飲んだら危ないって……《怖いの 怖くて、誰かと居たかったの 誰でもよかったの》違うの……《セリカじゃないと駄目なの》本当のことじゃない……」

 声帯を操られたユウカは言葉を詰まらせた。階段裏、掃除用具と一緒に彼女は居た。彼女は暗がりにしゃがみこんでいて、瞳に浮かべた涙と、白い制服の袖がまばらに赤く濡れているのに、すぐには気付けなかった。その袖で涙を拭う。

 私はそれを自分でも驚くほど冷静に見ていたのを憶えている。彼女には、分子機械が隠していた傷跡が無数にあった。それを目の当たりにした私は確かに怯んだ。それから私に湧いてきた感情といえば、あまりに冷たすぎる同情というか、哀れな少女に空虚な2つの視線が向けられているだけ。そうね。私も十分不幸だと思ってたけれど。

「どうしてわたしにこんな機械が付いてるか、セリカ知ってる……?」

「分からない」

分かりたくない。元は私自身が始めたことだけど、これ以上彼女の人生に足を突っ込みたくない。それで私の人生まで掻き回されるのも耐えられない。

「どうして?何かの実験台にされたとか?」

だけど私は訊く。まだ彼女が道ばたでくたばってても見捨てられないと思うから。彼女の地獄が「何かの実験台」で済むとは思えないけど。


〈quote〉

 セリカの予想も、一部合ってる。それだけじゃないけど。始まりは、「人道主義者の虐殺」に両親を殺されたことなの。


「もしかして……ロシア人?」


 ちょっとね。日本に連れてこられたときに、話す言語とか、肌の色とかを遺伝子治療でローカライズされてるから出身なんて意味ないけど。それで孤児になったら、ブラックマーケットの縁組で、人より良い思いをしたい中所得世帯のクソッタレに……引き取られて。私のことなんてこの二人の中に無いって子供心に解るのに時間はぜんっぜんかからなかった。仲の悪い人たちだったなぁ。母親は精神的に女子校生のままだったし、父親は兄しか眼中になかったし。わたしなんてとりあえず息してればいいほう。しょっちゅう色んなことのはけ口にされたっけ。


「兄妹だったんだ……」


 うん。名前は玖羽イサミ。でもね、あの人だけは違った。少なくとも私のことは受け入れてくれてたし、お兄ちゃんといるときだけは自分が人間だって実感できた。愛されてたのかな。高校入る前に死んじゃったけど。事故だった。乗ってたバスが空中で他のと激突。即死だった。自動車事故なんて飛行機事故より確率低いのにね。それからもっと酷くなった。当然だよね、私は兄の代わりになんてなれなかったし。でも、わたしだって何も尽くしてこなかったわけじゃないの。いくら不正規ルートでも、家族だから。

 話逸れちゃったね。機械を入れたのは、中学に入るとき。私には心が必要だった。あと、目も。親がナノマシン中毒って話は嘘。遺伝子治療の後遺症で、それまで片目だけで生きてきた。ヒトの心を操作して疑問を持つことのない世界を作るための臨床試験と、新型拡現のテストを兼ねて。私の存在意義なんてそんなものだった。……実験体としては不具合ばかりだったかもね。そう、ハリーと会ったのもこの頃。わたしから良心を外すとき、ほんとの事を言ってくれた。やっぱり感情調整が入ってたんだって。

〈/quote〉


「そしたら、わたし、壊れちゃって。」

 ユウカは苦しみなんて無かったように、事実だけを話した。

 彼女は、現実を拒絶し続けた私とはまったく対照だった。それが私には恐ろしかった。

 感情調整。ユウカは簡単に言ったけれど、ナノマシンが直接脳に薬物を届け、良心回路というプログラムの塊が、彼女をほぼ完全に作り変えてしまった。いま目の前に現れているのは、それに抗おうとするユウカの欠片。

 愛というのは厄介な代物だ。私はエゴイストな救世主にでもなったつもりで、言った。

「一緒に帰っちゃおう。今から」

「えっ、でも」

 一緒にいたいの……分かって。当然、言えなかった。物語で描かれるような素直さは誰しも持っているわけじゃない。

「一日くらい、いいじゃない」

「…そ、そうだね!」

 一瞬目を合わせたときに、彼女に嬉しさがあるのに気付く。私たちはチョーカーと社会貢献点を教室に置き去りにした。

「《セリカの家、楽しみだなー》……その、本当に大丈夫?」

「私の家、両親いないし、部屋には私と猫だけ」

「そっか。《わたし、猫苦手なんだよね》」

「アレルギー?」

「引っ掻くじゃない」

「うちのは大丈夫」

 帰り道、ユウカは私に寄りかかって、左腕をだらんと下げて、小さい歩幅で、無機質で静かな昼間の街をゆっくり歩いた。その時、もし周りから見られた私たちを想像したら、なんだか可笑しくって。誰かを愛してなければここまで自分勝手になれやしない。

「……ありがとう、大好き」

 ユウカは揺れた声で呟いた。

「どれくらい?」

「《キットカットの裏の文字書くところに好きって書いて、袋いっぱいに入れて送りつけるくらい》」

「流石に重たいったら」

「あはは、本当だよ?」

 愛が全てを救ってくれるなんて、カルト教団の盲言にすぎない。私はその狂信者でもあったんだけど。いつか、私は愛されることで何かが変わると信じてた。私は一人じゃないって思うことができる、そう思ってた。悲しみをなんとか乗り越えて、私も少しは大人になった気になってたけれど、思えばあれから何も変わっていない。ただ、悩み事が年々増えるだけで……結局、私は逃げることを選んだだけだった。

 私の部屋はアパートの四八階。共同墓地が真ん中に建っているせいで安かったからここにした。意外だったのは、夜景が綺麗ということ。共同住宅から少し遠くに見えるのが、そびえ立つ三〇〇メートル級のビル群。ネオンの輝き、ホログラムの煌めき。独りの夜に、これ以上の居場所はない。

「買い物、いってくる」

「うん……」

「すぐ帰ってくるから」

 とにかく、彼女を制服のまま部屋に置いてきてしまっている。早く済ませて戻らないと。

 素直になれないにしろ、手順がひとつふたつ飛躍してしまっているのは私の悪いところだと思う。まぁ、でも、あの状況でまともに判断しろって言ったって、何がまともかなんて分からなかったはずだから。ガーゼと包帯、私のお気に入りのエナジードリンクと彼女のお気に入りの炭酸飲料を買い物かごに詰める。そうだ、飼い猫、クリスのごはんも買っとかないと。

「こうやってガーゼ巻いてココとココをテープで止めるでしょ?それから包帯を必要な分だけ切って、はい、腕通して……おわり。お大事にどうぞ」

 彼女がずたずたに切り裂いていたのは感情調整の抑制含めた分子機械の活動を弱めた後だったから、普通は一時間もすれば治る傷は、すぐには治らない。傷跡は一生残るかも。

「あの……セリカね?心配してくれるのは、まぁ、そこそこ、嬉しいけど、これくらい一人でするし、その……」

「学校帰る?」

「うーんそうじゃなくて…まぁその、これでいいのかなー、って」

「私の良心だから」

「その言葉ずるい。でも、もう帰らなきゃ。ありがとう、好き」

「帰るって」

「家のことがあるの。わたしの昔話、聞いたでしょ……」

 もう逃げたくない。だけど、前にも進めない。

「そっか。私も駅まで付いてくよ」

 駅に着くまでの五分くらいで、私は彼女に何ができるだろう──。




『ベイビー・ノー・マネー』


 ポスト消費社会の高校生の放課後の選択肢といえば、友人に付き合って湿気たポテトをお供に夜までつるむ、何かに巻き込まれないうちに安全に家に帰る、成績のためにボランティアで社会貢献点を稼ぐ……以外に、忘れちゃいけないのが部活動。

 近代美術部。芸術の名のもとに存在し得る、外とは全く違う世界。私はここで、浮世離れし続ける勇気が自分に無いことを時々感じる。狂人たちのダンスフロアへうっかり足を踏み入れてしまった。 


〈 list:近代美術部〉

〈部員は私含めて6人〉


桐雨あかね〈2年・双子の姉、副部長〉

〈しきりに私に求愛してくるが、拒絶し続けている〉


桐雨もえか〈2年・桐雨姉妹、双子の妹〉

〈あかねが大好きだけど、いつも軽くあしらわれている〉


篠神シノ〈飛び級2年、レイシズムに取り憑かれた少女・常に右腕を抑えている〉

 〈見た目も良く、頭も切れるが潔癖症である。創作のタネは「選民思想で世界を変えられないか」〉


ルナ〈?年・近代美術部顧問〉

〈性別・女。過去に相当の未練があるらしく、肩書きは非常勤講師だが身分を偽って高校生活を送っている。本性はハッカーだとか〉


黒木ナギサ〈3年・近代美術部部長〉

〈性別・男。部長だが絵は描かない。その代わり全てを終わらせかねないシャワーソートを文章に綴っている〉


入依セリカ〈2年・うっかり変人たちの集まりに紛れ込んでしまった〉

 〈が、まんざらでもないと感じている〉

〈/list〉


〈quote〉

『誰かの一日を、一生を変える絵を。そのための対価は問わない。』

〈/quote〉


「だからって美術室でベープを吸う部長ねぇ……」

「ストレスに効くんだ。いい話が書けりゃ何したっていい」

 ナギサがくぐもった声で言った。彼が創作をするときは、白髪をいじりながら、片手にペン、片手に電子タバコで、白紙のノートと見つめ合っている。息をする度、彼のまわりを白煙が包み込み、空気清浄機が総力をあげてそれと闘っている。忘れちゃいけないのが、ここが"全ては調和されて然るべき"な学校の美術室ってことで。彼がそれを乱しているのは言うまでもない。彼の凄いところは、画材そっくりのリキッドを買い、煙と同じ全く匂いがする画材を買う徹底ぶり。見慣れた彼の白髪も、先天性ナノマシン中毒で髪を失ったのをいいことに髪を次世代合成繊維に置き換えてあり、その日の気分で色を変えている。私は見慣れてしまって何の驚きもないけど、遺伝子治療と心の機械化と精神療法でもしなければ社会復帰は二度と不可能だろう。

「ストレスになるならやんなきゃいいのに」

「いいから何か描け。退屈が新しい親友になる前にな」

 また煙を吐き出す。

 ホームルームから十分経過。部室には私と部長だけで、しばらくは白くて甘い煙を二人で堪能することになるだろう。私の次にやってきたのはシノ。咳込みながら入ってきて、「また吸ってるし」と愚痴をこぼしてから奥の部屋に消えた。年下のそれが若干堪えたのか、部長は電子タバコを胸ポケットにしまうと、爆音を上げていた空気清浄機も静かになった。

「コーヒー買ってくる。入依も来るか」

「一人で行きなさいよ、高校生じゃあるまいし」

 とは言ったものの、私は桐雨姉妹が話しながら部室に入ってくるのを確認して「私もいく」と返した。

「今日も明日も雨、雨、雨……」

ナギサが階段の小窓を見ながら呟く。雨というが、今日のは特に酷い。口を開けたまま空を見上げると、重油を口いっぱい飲み込むのと同じ効果が得られるそうだ。そして、空の暗さに負けないほど、街の明かりが眩しい。

「いつものヘビーレインね」

「雨といえば、時雨るって言葉知ってるか」

 しぐれる。雨って単語が一つも入ってないのに、どこに雨なんかと関係があるんだろうか。

「へぇ。知らない」

「そうか」

「教えてくれないの?」

「別にいいかと思ってな」

 彼は三つの候補の中から迷ったあげく、いたって普通のアイスコーヒーを選んだ。ボトルのキャップを開け、一口目を一気に飲み込む。

「不味い。水出しコーヒーはロクなもんじゃないな。こんなのお茶と変わらん」

「カフェイン中毒」

「そりゃそうとも。一番身近な向精神薬だぞ。処方されるアレは駄目だ。あんなの、人格が変わっちまう」

「ええ。よく分かる」

 それも痛いほどに。

 今頃どうしてるだろう。ユウカのこと。彼女を私の家で応急処置をしてから仕方なく帰してしまったけど、それきり学校に姿を見せていない。多少連絡は取り合ってるけど、私の問題はそこじゃない。

「買わないのか?」

「あんまり気分じゃない。ただあの病んレズ姉妹から逃げてきただけだし……」

「そうか」

 彼は胸ポケットから電子タバコを取り出す。私はあえて何も言わなかった。すると、ユウカに勧められて入れた気配インジケーターが、遠くからの人の接近を直接眼に伝える。

「人、来るよ」

 女子高生が二人、談笑しながら玄関を出ていった。大げさな話、でも事実、彼女たちだけでも今この人生を壊しかねない。彼はまたポケットに戻しはしたけど、正直他人の存在とか眼中に無さそうだ。

「皆、笑顔で、優しいのに、どうしてこう窮屈なんだろうな」

「創作を始めたからでしょ」

 部長は意表を付かれたような顔をして、待ってましたと言わんばかりに、こう返した。

「創作は呪いだよ」

 部室に戻る途中、ユウカに会った。「今日来てたの?」「今来たの。補習」「そっか。お疲れ」

話はそれだけ。足りない。けど、十分だと思うようにしてる。彼女にも彼女の世界があって、これ以上それに触れてしまわないように。


〈Startup AugmentedEve_Dorothy_v4.08.2

Copyright (C) 2062-68, Cosworth Software Inc.

 〈C:search?el=xE5dXf7IAo1y5mAX505LADw&q=時雨る&oq=〉

   ・ 時雨が降る。主に秋から冬にかけて起こる、一時的に降ったり止んだりする雨である。

    「夕方になって―・れた」「うしろすがたの―・れてゆくか/山頭火」

   ・ 涙を催す。涙を落とす。「目も見えず涙の雨の―・るれば身の濡れ衣はひるよしもなし」

〈/search〉

 

 センチメンタルな男。


「おかえりなさい、セリカ」

「その言い方、すごい不快」

 桐雨あかね、私と新婚生活を送りたくてたまらない同級生。彼女は、好きな事をしたせいで人格が変わってしまった。たぶん、私の知る過去のあかねはこんなんじゃなかった。

 好きな事というのは、もちろん創作のこと。それは、将来性をすべて無視してまで、目の前の続きを書かないとそれは成り立たないから。問題はそれを好きでやっていること。おまけに、その内容が人格にも影響してくるし……そんな人たちが集まってできたのがここ、とナギサは言う。私は、単に中学と同じ部活に入りたかったってだけで、正直なところ、私の水彩画が私の人格に作用してるとは考えにくい。その隣で、「飼い主に可愛がられて満足げな猫」みたいな顔をしているのが妹もえか。

 なんでも、私はここで時間を溶かすのが好きだ。自分と他人のコリジョンがはっきりしなくて、かといってぼんやりもしてないところが、私を集中させてくれる。やっぱり、人は一人じゃ何もできないのかも。他人の温度を感じながら、私は筆を進める。


  * * *


目に疲労を感じて作業を止め、目をぱちくりさせると、瞬きの隙間にルナが準備室に入っていくのが見えた。私はこっそり立ち上がって、なるべく談笑するシノと部長とか桐雨姉妹とかの注意を引かないようにその後をついていった。明かり一つ点いていない準備室で、窓から差し込むネオンサインの光だけが彼女を照らしていた。窓を少しだけ開けて、胸ポケットの携帯灰皿から紙巻き煙草を取り出して二本の指で挟む。その先端で指を鳴らすと、文字通り火がついたように紅くなる。ルナは窓際で夜景を物憂げに見つめていた。それがまったく制服姿に似合っていなく、私は話しかけるのを少しためらう。

「それ、煙草?」

 ルナは私に気付く。それか、わざと無視していただけかもしれない。彼女は顔だけ少しこっちに向けて、

「いいえ、ただの幻影」と言った。

「煙はただのパーティクル。でも、中身はちゃんと赤丸なの」

 彼女は偽りでいっぱいの人生を皮肉るようにホロの煙を愉しむ。吐き出す煙は現実だった。

「第一、私は子供じゃないし、もう体をいたわる必要もないから」

「どうしてこの部活にはこうも不摂生なヒトが多いんだか……」

「私と部長だけじゃない?それに、貴女は特に必要ないでしょ」

「そうだけどさ……そんなんでよく持つね、近代美術部」

「それは違うよ。所詮、あたしの隠れ蓑にしか過ぎないし」

「道理で違法なことが何でも許されるわけ」

軽く咳払いをすると、体をこちらに向けて話し始めた。

「それは違うよ、セリカ。みんな、何かの理由があってここにいる。だから、一番まともなあなたが入ってきた時は、何事かと思った」

「確かに、部員それぞれに病名をつけようと思えば無理じゃないよね……」

「ん、まあね」

私なら、さしずめ偽善恐怖症とか、利己主義症候群ってとこだろう。

「ルナは何の病気?」

「癌よ、ただの癌」

彼女は肩をすくめた。また私の悪い癖で空気を壊してしまった。

「その……ごめんなさい」

「いいよ、生きてるし。科学の力で治したら、高校生に閉じ込められちゃった」

「何でまたそんな事を」

「質問ばっかりね。どうしても死ねない理由があったの」

死ねない理由ね。私だって、昔と違って死ぬのは嫌だ。それより高校生でスタックしてる理由の方がもっと気になる。

「え……結局、正体は何なの」

「一応、セキュリティコンサル?」

「それは”前世”の話でしょ」

「私はクリスチャンだから前世とかそういうの気にしない。アーメン」

彼女は片手で十字を切った。

「ここが天国ってわけ」

「タックスヘイブンっていうより、わたしヘイブン?」

ルナがあからさまに茶化しだしたので、私はため息をつく。

「でも、真面目な話、全部生きるために必要だからさぁ、つ周りの全部を騙し続けるのは。唯一心を開ける人も含めてね」

「私、口説かれてる?」

「違うよ。少なくとも、あたしはここに残り続けるから。でも、次にセリカみたいな人に会えるのはいつになるか分からない」

「歳、取らないよね。一年の頃に会ってから変わってない」

彼女は人並みよりずっと綺麗で、部屋に入ってから私は目を合わせられていない。マスクを外したときの素顔といったら……。

「そう。あたしはずっと不思議な美少女のままで、生徒すべてがあたしが美術の講師だって気付かずに卒業してく。この社会すらも」

「でも、本当にそんなこと……」

「歳をとらなかったらどうなる、って思ったことあるでしょ。あるなら、他に同じ事を思った誰かが本気にして、その技術を研究したら、実はもう完成させてるかもしれない。ただ、公になってないだけで」

「それがルナだっていうの……」

不意に、彼女は私の手をとった。

「冷たっ」

「あたし、実は人間なの。吸血鬼でも、アンドロイドでもない。傷つかなければ老いもしない」

「へぇー。でも、死んでるみたいに冷たい」

「実際、共同墓地に埋まってることになってるし、死んでるようなもの」

また平気でそうゆう事を言う。私は次の言葉に詰まってしまう。もっと自分を大事にして、なんてとても彼女には軽々しく言えない。

「ナノマシン拒絶症ってあったでしょ。それの治療法の研究中にたまたま出来た血を使ってるの。血に機械を混ぜるんじゃなくて、機械を血にする治療法。不老不死は倫理的にもマズかったから研究は打ち切られたし、世界にも数えるくらいしか居なければ、誰かが気付くこともない」

「機械は病気にかからない、ってわけ」

「未来はそこまで来てるんだよ」

ルナは煙草の先端を指でつまむと、ホロの煙が消えた。

「どうしてこの生活を始めたの」

「あなたが一人暮らしをしてる理由と一緒みたいに、誰もが自分の未来を自分で選べるわけじゃないの」


* * *


下校時間いっぱいまで使う活動時間もそろそろ終わる頃、私は視線を後頭部に感じた。拡現の気配ゲージもそれを示していた。

「何見てるの」

「いいよな、絵を描ける奴って」

「どうしたの。今更」

「今更……傷つくなァ。こっちだってまだ諦めてないし」

「頑張って」

「聞いてくれよ。ここ最近……正確には三日前だけど、文字なんか要らないような気がしてきて」

「それが今日の部活で全然ペンが進んでなかった理由?」

彼はウンザリした様子で天井を見上げる。

「そうだよ……呪われてるんだ。俺みたいに心を切り売りして書いてるような人間には一番キツイ言葉を聞いちまった」

「また?なんか悪いものでも見たの?」


〈quote〉

「ライトノベルってあるだろ。あれが俺の脆ーい人生を壊しかけてる。あんまりよく見かけるからジャンルを調べたとき聞いた話だ。こう言ってたんだ……悪い。嫌な言葉すぎて口に出せない。要は……「自分の言葉がない」んだ。オタク共の流行りを出せばそれが売れるから。


「流行りを追うのは大事だと思うけど…」


ああ。程々にな。

もっと問題なのは出来のいい表紙絵を載っけて出せば売れるから文才なんて必要ない、って事だ。信じてくれ。「書泉ブックスカイ」で立ち読みしてきたんだ。内向的な中学三年の男子が書いたような会話文に、大人がちょっと添削してあげたような描写でさ。表紙は可愛……くもなかったな。目と胸のでかい女子は苦手なんだ。あと、これもタチが悪かったな。全部本にフィルムが掛かってて、薄っぺらい見本誌がまばらにあるだけだった。表紙とブランドで判断しろってさ。俺が下手に読書とかしてなければもっと楽しめたかもしれない。書いたやつも同じだろうからな。

…何を話してんのか自分でも混乱してきた。頭にきて仕方なかった。なぜって、俺には文才なんてものはないし、詩情豊かな表現も最初からできた訳じゃない。でも努力はしてきたし、だから面白いものを書いてやりたいし、とにかく「この程度でいいや」なんて思わないメンタルを最近やっと手に入れた気がする。そこでだ。中三の作文が「ライトノベル」なんて大層な名前を頂戴して居場所を与えられてるのがどうも気に入らない。それなら俺だって向上心を捨てて心の切り売りもやめてカネになるものだけ書くさ。上物のイラストレーターも忘れずに。


「じゃあ……辞めちゃうの?」


辞めない。セリカが読むって言ってくれたから。それだけは忘れちゃいけない。だけど……ちょっと、休みが必要かもな。独りよがりの自尊心には「物書き」なんて荷が重すぎる。

〈/quote〉

ひと通り心の内を吐き出し終わると、彼は電子タバコを思いきり吹かした。


「難しく、考えなくていいんじゃない」

「へっ?」

「そんなんで悩まれて私が読めなくなったら嫌」

 私は手に持っていた平筆をナギサの額に向かって突きつける。この仕草に…得に意味はないけど。確か、ラノベか何かの受け売り。

「何が一番嬉しいって、あんたがかわいい後輩ってとこだよな……文芸部のひどい後輩の話はしたっけ、中学の」

「聞いてないけど、今は遠慮しとく。今日はもう帰るね」

「今の会話、そのまま使ってもいいか?」

「『本当のことは描かない』じゃなかった?」

「はいはい……」

 どうも悩める作家とは縁があるらしく、前に好きになった人も、たしか物書きだった。とはいえ、部長は私を裏切らない代わりに好きにもならないから、一番居心地が良かった。

「"前に好きになった人"って、男子?女子?」

「酷い想い出を掘り返さないでくれる」

「その…ごめん。でも、気になって。」

「……私の勝手な片思いだった。相手の方がもっと勝手だったけれど。ある日突然「お前と話すのは不感症の人間とセックスしてるみたいだ」って、その好きだった人に言われて。その人が会話をセックスと同じように捉えてたのかは分からないし、不感症の人とセックスしたことがあるのかも分からないけど……」

「物書きの男の子?」

「ううん、女子。」

「あっ、そう……」

  私と話してて楽しい?と、言いかけて口を閉じた。すると、ユウカが一瞬困ったような顔をして言った。

「わたしは、セリカと話してて楽しいけどなー」

「……それが、二週間も顔を見せないで裏切られたんじゃないかって不安にさせた人の言葉?」

「裏切ったって──」

「わかってる。解ってるから何も言わないで」

「ごめんって」

 第一に、許すもなにも、あなたは悪いことを何もしてない。第二に、私にそれを責める権利はない。

「それよりさ、放課後付き合ってよ。どっかで、お茶でも」

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HarbingeR θωΟφ @neyanderethal

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