一助けするラスプーチン

増田朋美

一助けするラスプーチン

一助けをするラスプーチン

ある日のことであった。その日は、スポーツ界で大きなイベントが開催されるようで、若い人たちは、みんなそれを見に行って、多くの観光地は空っぽであった。図書館も、ショッピングモールも、みんな空っぽで、店員たちはやる気をなくしていた。そんな中、病院だけは、いつも通りに機能していて、患者達も、医者たちも、普通にはたらいていた。世間では、みんなイベントを見に行っているのに、あたしたちは、病院に仕事に行かなきゃいけないのかなあ何て、看護師たちの愚痴があちらこちらの病院から聞こえてくるのであった。本当は、それでは勿論いけないんだけど、、、。

そのイベントのある日でも、杉ちゃんたちの製鉄所では、相変わらず水穂の看病に、いろいろな

人が、動いていた。

その日の午後の事であった。一台の車が、製鉄所の前で止まった。と言っても、車というか正確にはタクシーで、しかも、介護マークまでつけられていた。つまり、介護タクシーという事だ。運転手は、がたいのいい、体育会系の人で、一人の男性客をまず降ろした。その男性は歩けるようであったが、ちょっと足をひきずっていた。それでは、すみませんと言って、男性は正門の方へ向かう。もう一人の客は女性で、かなりの美人であるが、ちょっと普通の人とは、違う感じの顔付をしている。何よりも彼女の着ている着物は、派手な紫色に、白で大きな立枠を描き、黄色い花しょうぶを大きく入れたものであった。

二人を降ろすと、タクシーの運転手は、また帰りの時に呼び出してくださいと言って、タクシーは走り去っていった。

「ごめんください。」

と、その男性は、玄関の入り口の戸を叩いた。

「はい。何でしょう。」

応答したのは由紀子である。

「あの、水穂さんと、それから、曾我理事長はいらっしゃいますでしょうか。先ほど店の方へ伺ったのですが、弟さんが、こちらにいると言っていましたので。」

と、男性が言うと、由紀子もこの人が誰なのか直ぐにわかった。

「あら、剣持さんではないですか!」

剣持といわれたその男性は、にこやかに笑って、

「いえいえ、以前は剣持と名乗っていましたが、今は、吉田と名乗ることになりました。ですから、剣持素雄ではなくて、吉田素雄と呼んでくださいませ。」

といった。それを聞いて由紀子は、腰が抜けるほどびっくりしたが、ああそういう事か、と直ぐにわかって、おめでとうございます、と言って、二人を中に入れた。その間も、派手な着物を着た女性は、いつまでもそこにたってにこにこしている。彼女は初めてこちらにやってきたのだと思われるが、彼女が、緊張していないような顔をしているのが、由紀子は馬鹿に不思議だと思った。廊下を歩いている時も、彼女は、ずっとにこやかにしていて、廊下の壁とか天井何かを、変に眺めていた。間違いなくきれいな人なので、ちょっとおかしいと思った。

由紀子が四畳半に行くと、ちょうど、水穂が布団に横になっていて、隣に座っているジョチさんと何か話していた。

「こんにちは。あの、以前理事長の所でお世話になりました剣持です。もう剣持という姓ではなくなりましたが。」

と、元剣持は、そういって、ジョチさんの隣に座った。先ほどの女性も、隣に座った。

「こんにちは、お久しぶりです。剣持さん。」

水穂は、直ぐに布団の上に座ろうとしたが、素雄は、そのままで結構ですと言った。由紀子が急いで水穂を布団に寝かせ、布団をかけてやった。

「まあ久しぶりですね。先ほども言いましたが、もう剣持という姓ではなくなって、今は吉田素雄と名乗っております。それでですね、今日は理事長に、登録している法人の名前を変更してもらおうと思って、こちらにまいりました。」


「そうですか。わかりました。」

とジョチは言った。

「まあ誰でもそういう可能性はありますからね。それで、右側に居る華美な女性は、いったい誰なのでしょうか。あなたが、看護をしている女性ですか?」

「はい、初めはそういう関係ではありました。でも、今は、看護者ではありません。妻です。妻の吉田曙子です。曙色の曙に、子どもの子と書いて、曙子です。それで、僕のほうが剣持の姓から、吉田と名乗ることになったわけで。」

素雄は静かにこたえた。まだまだ男性が結婚して改姓するのは珍しいが、彼女の家がそうさせたのではないかと由紀子は思った。

「ごらんになってわかると思いますが、彼女は重い知的障害がある女性です。彼女は、自分の名をやっとかけるようになったばかりなのです。ですから、そのような時に、無理やり名前を変えさせることは、ちょっと可哀そうだと思いましてね。日本では、夫婦別性は認められていませんから、誰かが妥協しなければなりません。ですから、僕が改姓することにしたんです。」

素雄が説明しても、曙子は、ただにこにこ笑っているだけであって、挨拶もしなければ、自己紹介することもしなかった。

「そうなんですか。それでは似たもの夫婦ということになりますな。剣持さん、あ、失礼、吉田さんでしたね。吉田さんもかなりの男前ということになりますからね。」

ジョチさんがそういってその場を盛り上げる。おそらく、二人を祝福する人は、本当にわずかしかいないだろう。だからこそ、ここでは盛り上げてやりたいと思うのだ。

「僕もこれから気を付けますよ。彼女が、混乱してしまわないようにね。とりあえず、法人名の変更は、また書類をそちらへ送らせて頂きますよ。住所などは、変更はありませんよね。」

「はい、確かにありません。僕の家は家族が一人増えましたが、以前と同じ場所に建っていますので。」

ジョチと素雄が、そういうことを話している間、水穂は心配そうな顔をして、曙子の方を見つめていたのだった。

「どうしたの水穂さん。」

由紀子が、そう聞いた。

「なぜそんなに悲しそうな顔しているのよ。」

「いえ、彼女も、僕と同じ。」

そこまで言いかけたが、また咳に邪魔されて、最後までいう事が出来なかった。由紀子は水穂さんの体を横向きにさせて、静かに背中をさすってやった。

「いいえ、水穂さん、その心配はありません。彼女は、障害こそあるのですが、同和問題に関わるということはありませんよ。ただ、呉服屋さんで偶然売っていたこの着物を、気に入って着ているだけの事ですから。」

と、素雄が説明をしたが、水穂さんは、不安そうな様子だった。

「そうですけど、しっかり説明したんですか?」

水穂の代わりに、ジョチさんがそう聞くが、

「いやあ、こういう難しい話はわからないでしょうね。彼女に聞かせても、まずわからないでしょう。彼女はそういう所の住人じゃないんです。だから、銘仙の着物をほしがっても、今の時代なら大丈夫かなあと思って、そのまま買わせています。幸い御金の価値はわかっている様ですので。彼女にとって、銘仙は可愛い着物だけなんですよ。そういう事なんです。」

と、素雄はそういった。その顔には、いくら言い聞かせてもだめだということが、はっきり出ていた。たぶん、彼も説得したのだと追われるが、それを成功させることは無理だったのだろう。確かに、こういう人を説得するのは、ロッククライミングと同じくらい、たいへんである。

「まあいいじゃないですか。確かに、可愛い着物であることは変わりありませんから。僕は、銘仙も仲間に入れていいと思いますよ。外国では、少数民族の民芸品を発売したりすることもあるんですから。それと一緒だと思えばいいと思います。」

ジョチさんはそういうことを言ってくれるが、由紀子はやはりこの事情を理解してくれる人は、本当に少ないだろうな、と、思った。大体の人は、銘仙なんていやねとか、そういう発言をする人の方が多かったからだ。

水穂さんだけが辛そうに咳き込んだ。由紀子は、また背中をさすってやった。

「これによって、水穂さんの認識も変わってくると思うんですけどね。」

「そういう事ですな。」

ジョチと素雄は、そういいあって、ちょっと苦笑いした。

「そして、これから本題に入りたいのですが、ちょっとお願いしたいことがあるんです。」

素雄は、再び真顔になって、こんなことをいった。

「実は、帯広で講演会をやることになりました。少なくとも一週間は帰ってこられません。ただ、障害者が病人を介護するという商売をしているものですから、その商売を、私たちに話してくれと、帯広の病院から依頼がありましてね。それで、まだ結婚して間もないのに申し訳ないのですが、彼女を一人にしておくわけにも行かず、そうした場合、どうしたらいいのかと、、、。」

「ああ、そうですか。それなら、ここで寝泊まりするか、僕の家で手伝って下さればいいんじゃないですか。幸い、うちの焼き肉屋は、いつも人が足りないで、困っていますから。」

素雄は随分と悩んでいたらしい。ジョチさんがサラリとそう言ってくれて、ちょっと信じられないような顔つきをした。

「ええ、構いませんよ。僕のうちでお預かりできますよ。」

と、ジョチさんが改めてそういうと、

「そうですか。じゃあ、お願いしてもいいでしょうか。」

素雄は、ちょっと曙子に目くばせしたが、そんなことも曙子はうわの空で、天井ばかり見つめているのだった。

「それでは、一週間ほどお願いします。お礼は後ほどお支払いしますので。」

「いえ、お礼なんて、結構ですよ。そういうことするから、障害者は特別だと思われるようにみえちゃうんですよ。」

「ありがとうございます。」

素雄は、申し訳ないという顔をした。若しかしたら、すでに預かり施設をわたりあるいたのかもしれない。確かに高齢者を預かる施設はよくあるが、こういう障害者に対して同じサービスは何もない。そういうところが人種差別だといえるのかもしれない。

「じゃあ、講演は三日後なんです。その日に、お宅に曙子を連れていきますので。宜しくお願いします。」

「ええ、構いませんよ。曙子さんをお預かりできますように、客室、用意させて待っておりますから。弟にも告げて置きます。」

そういう二人の会話を、曙子は理解したのかしていないのかわからない顔で、天井を見つめて笑いながら聞いている。由紀子はそれがなんとも哀れだなと思った。そして、曙子さんが、水穂さんの枕もとに、置かれている銘仙の着物に目をやったのに気が付く。女物と男物との識別ができるかどうか不明だが、似たような作りであることは、気が付いてくれたようだ。

「着物に興味持っているんですかね。」

ジョチさんがそういうと、

「ええ、曙子は着物がすきです。この着物を買ってから、何をする時も着物を着る様になりました。今はいろんな所に銘仙の着物を着て出かけているのです。コンサートにも展示会にも、食事をしに行くときも。」

と、素雄が説明する。へえ、可愛いですねと由紀子が言おうと思ったその時、

「やめてください!銘仙の着物は家の中だけにしてください!どうか、どうか、お願いします!」

と、水穂さんが急に布団の上に座り、手をついて懇願しようとして、再び咳き込んでしまうのであった。

「水穂さん、本当に考えすぎですから、もっと落ち着いて。」

ジョチさんにそういわれながら、再び布団に横になった水穂を、由紀子は、彼こそ何とかしてもらえないかと思うのだった。


ちょうどそのころ。道子は、グレゴリー・ラスプーチンとからかわれて悔しい思いをしながら、一生懸命論文を書いていた。他の医者も、最近の道子には、ちょっと引いてしまう気がして、なかなか彼女には声をかけなくなった。

「道子先生。そんなに一生懸命やるのはいいですけど、ちょっとご自身のことも考えてください。」

掃除のおばさんが、道子にそういうが、

「うるさいわね。一生懸命やっているんだから。」

と道子は、ちょっときつく言った。

「道子先生らしいわね。」

掃除のおばさんは、にこやかに言って、掃除を続ける。

「あたしらしい?」

道子は、それをいわれてちょっと、声を明るくしてそういってみた。

「もう、道子先生。一生懸命やってるのはいいですけれど、あんまり熱を上げると、また碌なことがなくなりますよ。道子さんの一助けは、患者さんにとって、ちょっと負担になることがあるでしょ。」

「そうねえ。」

道子は、掃除おばさんにいわれて、今日はここまでにするか、とペンを置いた。

「それでは、もう、帰るわ。明日また患者さんと、ちょっと話してみるから。」

実は、道子も今回の実験に行き詰っていた。被験者である患者さんが、新薬実験を渋り始めたのだ。道子にしてみれば、病気が治るためのチャンスなのに、なぜ患者さんは、わかってくれないのだろうという感じだ。だけど、患者さんは、渋ってばかり。それを他の先生は、道子先生は、余計なお節介ばかりしている、そういう風にみていた。道子にしてみれば、一助けをやっているだけなのだが、どうして皆、わかってくれないのだろうか。

「ちゃんと話してみればわかってくれるはずなのに、どうして、そういうことをわかってくれないのかしら。そんなに危ない橋をわたる事でもないのにね。」

掃除のおばさんは、黙ったまま掃除を続けていた。道子先生が気が付くためには、そういう所をなおしてもらわないとだめだということを知っていたのだ。道子先生、気が付くことは、まだまだありますよ。それが若いっていう事なんですから。道子先生。少しずつ、気が付いて行ってください。掃除のおばさんはそんなことを考えながら、道子を見送った。

道子が道路を歩いていると、酷く腹が減っているのに気が付いた。道子は、どこかにコンビニでも有ればいいかなあと思って探していると、まだ営業している店を一軒発見した。焼き肉屋ジンギスカアンと看板に書かれている。また、明日も、私にとっては力仕事するんだし、ちょっとエネルギー補給のつもりで、食べていくか、と、道子は、その店に入った。

「いらっしゃいませ。」

女給がちょっとたどたどしくあいさつして、道子を、テーブル席に案内する。

「ご注文は何ですか?」

ちょっと彼女は、言語に障害でもあるのだろうか。発音が不明瞭だった。

「じゃあ、それではとりあえず、カルビと冷麺を。」

と、道子がそういうと、女給は、わかりましたと言って、厨房にもどっていった。暫くして、別の女給が、カルビの乗った皿をもってやってきたのだが、彼女の着ているものを見て、道子はおどろいてしまう。

「あら!あなたも銘仙の着物がすきなの?」

道子は思わずそう声をかけてしまった。彼女が着ているものは、水穂さんの着ている着物にそっくりだったのだ。それでは、と、道子は次の事を類推する。

「ねえ、あなた、どうして銘仙の着物着てるの?何か、訳があるの?それとも、単なる銘仙の着物がすきなだけ?」

ところが、その女給は、目の前に立っているだけで何もこたえなかった。それでは、肯定しているのか、否定しているのかわからない。

「単なるすきなだけなのかしら?」

道子は、そう聞いてみたが、その女給はやっぱりこたえなかった。

「ほら、曙子さん、いわれちゃったじゃないですか。こういう風にね、銘仙の着物の事を、良いと思ってくれない人だっているんだから。もう、銘仙何か着用するのは、よしましょうよ。」

別の女給が、彼女にそう言ったが、いわれた女給は、にこやかに言った女給の方を見て、笑うだけだった。

「ほら、お客さんの前に、お肉を置いて。」

そういわれて銘仙の女給は、道子の前に肉の入った皿を置く。

「なるほど。単に銘仙がすきでああして着ているのか。」

道子は、ちょっと溜息をついたが、直ぐにあることを思いつく。普段、一助けの出来ない医者とか、厄介なお節介をする医者としか思われていない自分も、一助けができるかもしれない。

そう思うと、次の休みの日が、待ち遠しくなった。

そして迎えた次の休みの日。道子は製鉄所に言った。製鉄所の人たちは、またお節介な医者がやってきたと、ちょっと敬遠するような顔をして道子を見ていた。

道子はまっすぐに、四畳半に向かった。水穂さんは、一人で寝ていた。もう、ご飯も食べ終えたのか、布団をかけて静かに寝ている。

「水穂さん。」

ちょっと声をかけて見ると、水穂さんは目を覚ました。

「ねえ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど。」

道子は、できるだけ明るく話してみることにした。

「昨日、偶然入った焼肉屋さんで、可愛い感じの女給さんが、銘仙の着物で接客をしていたのを見たわよ。確かに他の人に注意されてはいたけれど、別に差別的に扱われるとか、そういうことをされていることはなかったわ。」

直ぐに本題を話した方がいいと思って、道子はそう切り出した。

「だから、水穂さんだって、気にしないでいいのよ。堂々と、銘仙の着物で生きていけばいいじゃないの。今は、普通の人が、そういうことをする時代なのよ。もう、銘仙の着物を着ても、小さくなって、恥ずかしがるようなことをする必要はないのよ!」

水穂さんは本当に、悲しそうな顔をしていた。それは、本当に悲しい気持ちであったのだと、直ぐにわかる顔つきであった。きれいな人であるから、そういう所はすぐわかる。

「必要ないって。」

水穂は、静かに涙をこぼしながら言った。

「でも、僕は、まだ銘仙の着物のせいで、損ばかりをしている。」

水穂さんははっきりといった。

「今は、違うでしょ。時代が違うのよ。そういう事でしょう。」

「ううん。」

水穂さんは首を横に振る。

「変わっていませんよ。変わったのはただ、表面的な事だけですよ。」

道子は、そうなのねとはどうしても言えなかった。どうしても、道子は、彼の持っている間違いを是正してやりたいと思ったのだが、、、。

「いいえ、無理なものは無理ですよ。」

道子は、そうなのかとは言えなかったけど、何となく、そういうことは出来ないんだなという気持ちがわいてきた。

そうなると、患者さんの気持ちを助けるということは、ほんとうに難しい事なんだなと思った。それでは、私にできる一助け何て、何なのだろうか。

きっと、偉い人たちにできるような一助けは、非常に難しいものなんだろうなという事だろうか。






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一助けするラスプーチン 増田朋美 @masubuchi4996

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