第11話 高校生4
ここで当時のK高生活について大まかに羅列してみる。
元々男子校だったため男女比は7:3くらいであった。
昔はヤンキー高だったようで、隣接する県立工業高校とは犬猿の仲だったそうだ。
そのせいかやたら校則は厳しかった。
頭髪検査にいたっては毎月1回、運動場に集められ1人1人点検するという有り様。
前髪が眉毛にかかったら再検査である。
わざわざ1人1人「櫛」で前髪をおろして検査するという何とも意地悪な検査であった。
特に格好つけようとするつもりもないのだが、この検査は憂鬱でしかなかった。
冬に学生服の上から着るコートやマフラーは現物を生徒指導室に持参し許可証を受領しなければ着られない。
女子はストッキング許可だが靴下は必ず着用というセンスの欠片もない・・・
勿論男女交際、アルバイト、免許は禁止。
俺が入学して1学期が過ぎた頃、K高創設以来の快挙と言われたのが
「入学して1学期で中退者がゼロというのは開校以来初めてのこと」
ということだった・・・
これはとんでもない高校に入ったなと思ったものである。
また全校生徒の割に運動場が十分な広さではなく、体育祭は隣駅にある附属大学まで徒歩移動して練習が行われるという有り様。
何故か俺が2年の時にこれが時間の無駄とわかったのか、体育祭そのものが開催されなくなった。
なお、当時としては珍しく女子の体育服装はブルマではなくハーフパンツであった。
文化祭は開催されていたが、特進クラスはボイコットするのが慣習となっており、文化祭当日は登校するもののほとんどが教室で読書や勉強して過ごすという異様な光景もあった。
部活動は盛んな方であり
剣道、バスケが県強豪と言われており
男子ソフトボール部は県内敵なし、水泳部に至っては九州大会10連覇以上で当時も継続中であった。
故にプールは屋内温水プールであり季節に関係なく水泳の授業は行われていた。
なお俺が卒業して直ぐに野球部が春の甲子園に初出場、この試合は甲子園まで出掛けて観戦した。
デザイン科も有名らしく、漫画甲子園にも出場していたようだ。
進学面においては3割程度が附属大学に進学、就職組は決して少なくなかった。
国立大や難関私立には毎年10名合格すれば良い方だった。
その程度であったため、毎年附属大学からは「もっと優秀な学生を受験させてくれ」と懇願されていたようだ。
実際俺も2年になる前に
「これだけ成績が良ければ附属大学推薦でいけませんか?」
と担任に聞いたが
「もっと上を目指せ」
と首を横に振るだけであった。
新校舎最上階の6階には6教室あり、それぞれ各学年の特進クラスが配置され、進路指導部も同階にあることで我々は下のクラスを「下界」と呼んでいた。
クラスも若干の編入降格を除き基本的に生徒の入れ替えはないため、高校時代の友人は特進クラス以外にはいなかった。
また特進クラスは部活動も原則禁止であり、俺の学年は2クラス中で1人だけマネージャーがいるだけであった。
そもそも朝補習(0時限目)から始まり正規授業が1~7時限、放課後補習が8~9時限目で終わる時間は18時であった。
塾のない日はそのまま20時過ぎまで居残り勉強していた。
最後の1人が下校するまで特進フロアだけはエアコンを稼働させていたため、環境としては非常に恵まれていた。
他のクラスは50名編成だったが特進クラスだけは40名未満であったため、教室も広々としており、机の両脇下に箱を作って参考書や辞書を入れられるほどであった。
こんな環境にいると学内無敵と勘違いするのも無理はなかったし、ますます意識を持って勉強していた。
そうしてそのまま3年生となり受験を迎えることとなる。
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