第5話


 周囲の騒がしさが一瞬だけ、水の膜を挟んだように遠くなった。

 俺たちのシートにだけ、しんと重たい沈黙がおりる。


 見れば父さんはぎゅっと唇を噛みしめて俯いている。

 俺はなんとかして洋介に言葉を掛けてやろうとあれこれと考えた。でも無理だった。

 なんたって俺自身が、ちょっとでも何か言った途端に変な声が出てしまいそうで、うまくしゃべる自信がなかったんだ。鼻の奥がきつんとして、喉の奥がぎゅうっと締まって。絶対に変なことしか言えそうになかった。しかも泣き声みたいなカッコ悪い声で。

 洋介は帽子のつばをきゅっと下ろしてうつむき、自分の顔を隠すようにして黙ってる。ちいさな拳が体操服の半ズボンの端をかたく握りしめている。見てるだけでも痛そうなほどだ。


「……よ、すけ」


 俺がどうにかこうにかそんな声を絞り出したときだった。

 すっと佐竹が立ち上がった。


「ちょっと行こうか。洋介」


 さっさと自分の靴を履き、手を差し出している。

 そのまま洋介の手を取って立たせ、あっという間に片腕に抱き上げてしまった。もう片方の手には、すでに洋介の運動靴がある。


「少し暑さにやられたんだろう。ちょっと日陰で休ませてくる」


 周囲に聞こえるぐらいの声でそう言うのは、もちろんわざとだろう。真摯な瞳が「構いませんか」と父さんに伺いを立てている。父さんはしばらく、ぽかんと口を開けて佐竹を見上げるようにしていた。でも、すぐに「あ、うん」と頷いた。


「よろしく頼むよ。佐竹君」


 佐竹はひとつ頷き返すと、洋介を抱いたまま歩き出した。びっちりと詰めて敷かれたレジャーシートの隙間を器用に縫って、さっさと行ってしまう。俺は慌てて立ち上がった。


「お、俺も! 父さん、ここお願いね」

「あ、ああ」


 父さんが頷くのを確認して、俺は佐竹が去っていった方を目指してまっすぐに歩いていった。





 思った通り、佐竹は保健室には向かわなかった。保護者と親族がいっぱい来てるとは言え、学校は広い。運動場とその近辺以外なら、意外とひと目につかない場所はある。

 たとえばここ、中校舎と北校舎の中庭とかね。

 大きな木じゃないけど、いちおう植え込みなんかもあって、うまくやれば誰にも見られずに立っていられる場所もある。

 佐竹は洋介を抱いたまま、あの長い足でほとんど音もたてずにそっちへ歩いていく。それでもって、けっこう速い。

 なんだろうなあ。どういう足さばきをすればあんな風に歩けるんだろ。俺はあいつを見失わないように一生懸命追いかけた。


 中庭の隅に植わっている桜の木と植え込みの間あたりで、佐竹はやっと洋介をおろした。俺は無意識に渡り廊下の柱のひとつに隠れて、そうっとそっちを窺った。

 佐竹は洋介の前で、地面に片膝をついている。ちょっと俯いて手を動かしているのは、靴を履かせているかららしい。

 やがて、いつも通りの低くて落ち着いた声が聞こえてきた。


「少しは落ち着いたか」


 洋介は鼻をぐすぐすいわせて、うん、ともううん、とも聞こえるような返事をした。うつむいて、顔の所で手をごそごそやっている。必死に涙をぬぐっているんだろう。

 俺はもうそれだけで、胸の真ん中がきりきり痛んだ。

 なんで俺、こんなこと佐竹に任せてるんだ。俺、兄貴なのに。


(それに……佐竹だってさ)


 実は佐竹だって、お父さんを亡くしてる。

 かなり特殊な状況でだけど、それだって相当つらい経験だったはずなのに。

 そんなあいつに、洋介を慰める役を任せるなんて。

 と、佐竹の声がまた聞こえた。


「無理しなくていいんだぞ。なんならこのまま本当に保健室に行くか」


 こういうときのあいつの声、ちょっと不思議なぐらいに優しい。なんかさ、ずるいんだよな。普段はあんな硬質でちょっと怖い雰囲気なのに。

 洋介の声はくぐもっていてよく聞こえない。でも、はっきり首を横にふっているのは見えた。


「……って、思ったの。さたけさ、くる、なら……だいじょぶ、って」


 しゃくりあげながら、必死で言いたいことを伝えようと頑張っている。

 佐竹がそこで、ちょっと沈黙したようだった。


「すまない。大した励みにもならなくて」


 その声は、本当に申し訳なさそうに聞こえた。


(そんな!)


 思わず飛び出しそうになった。だけど「そんなことないっ!」っていう洋介の声で、俺はどうにか踏みとどまった。


 ちがうんだ。

 さたけさんのせいじゃない。兄ちゃんのせいじゃない。

 父さんだって悪くない。

 ぜったい、泣いたりしないんだと思ってた。

 きっとガマンできると思ってた。

 だって、始まるまでは平気だった。昨日まで、クラスで友達が「ママがくるんだ」とかしゃべってるのを聞いていても。「お弁当楽しみ~」なんて、さわいでるのを聞いてても。

 別になんとも思わなかった。

 「平気。だいじょうぶ」って思ってた。

 今日だって、途中までだったら平気だったんだ。

 なのに。

 どうしてだか、さっきのお母さんを見たらダメになっちゃった──。


 洋介は両手でめちゃくちゃに顔をぬぐってぐすぐすやりながら、そんなことを一生懸命佐竹に訴えているようだった。


(……そんなの、無理だよ)


 もしも、俺が洋介と同じ立場だったら。

 そんなの、もっともっと手前のとこで大泣きしちまってるに決まってるもん。

 なんでそれで、「我慢できる」とか思っちゃうんだよ。無理だってばよ。


 洋介と佐竹の姿が、熱くぼやけて見えなくなる。

 足元にぼとぼと落ちてるのは、俺の目から溢れたものだった。

 漏れ出てしまいそうになる嗚咽を手でおさえこんで目を上げると、佐竹が泣きじゃくっている洋介をぎゅっと抱きしめて、その頭をぽすぽすやっているのが見えた。


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