第5話
周囲の騒がしさが一瞬だけ、水の膜を挟んだように遠くなった。
俺たちのシートにだけ、しんと重たい沈黙がおりる。
見れば父さんはぎゅっと唇を噛みしめて俯いている。
俺はなんとかして洋介に言葉を掛けてやろうとあれこれと考えた。でも無理だった。
なんたって俺自身が、ちょっとでも何か言った途端に変な声が出てしまいそうで、うまくしゃべる自信がなかったんだ。鼻の奥がきつんとして、喉の奥がぎゅうっと締まって。絶対に変なことしか言えそうになかった。しかも泣き声みたいなカッコ悪い声で。
洋介は帽子のつばをきゅっと下ろしてうつむき、自分の顔を隠すようにして黙ってる。ちいさな拳が体操服の半ズボンの端をかたく握りしめている。見てるだけでも痛そうなほどだ。
「……よ、すけ」
俺がどうにかこうにかそんな声を絞り出したときだった。
すっと佐竹が立ち上がった。
「ちょっと行こうか。洋介」
さっさと自分の靴を履き、手を差し出している。
そのまま洋介の手を取って立たせ、あっという間に片腕に抱き上げてしまった。もう片方の手には、すでに洋介の運動靴がある。
「少し暑さにやられたんだろう。ちょっと日陰で休ませてくる」
周囲に聞こえるぐらいの声でそう言うのは、もちろんわざとだろう。真摯な瞳が「構いませんか」と父さんに伺いを立てている。父さんはしばらく、ぽかんと口を開けて佐竹を見上げるようにしていた。でも、すぐに「あ、うん」と頷いた。
「よろしく頼むよ。佐竹君」
佐竹はひとつ頷き返すと、洋介を抱いたまま歩き出した。びっちりと詰めて敷かれたレジャーシートの隙間を器用に縫って、さっさと行ってしまう。俺は慌てて立ち上がった。
「お、俺も! 父さん、ここお願いね」
「あ、ああ」
父さんが頷くのを確認して、俺は佐竹が去っていった方を目指してまっすぐに歩いていった。
◆
思った通り、佐竹は保健室には向かわなかった。保護者と親族がいっぱい来てるとは言え、学校は広い。運動場とその近辺以外なら、意外とひと目につかない場所はある。
たとえばここ、中校舎と北校舎の中庭とかね。
大きな木じゃないけど、いちおう植え込みなんかもあって、うまくやれば誰にも見られずに立っていられる場所もある。
佐竹は洋介を抱いたまま、あの長い足でほとんど音もたてずにそっちへ歩いていく。それでもって、けっこう速い。
なんだろうなあ。どういう足さばきをすればあんな風に歩けるんだろ。俺はあいつを見失わないように一生懸命追いかけた。
中庭の隅に植わっている桜の木と植え込みの間あたりで、佐竹はやっと洋介をおろした。俺は無意識に渡り廊下の柱のひとつに隠れて、そうっとそっちを窺った。
佐竹は洋介の前で、地面に片膝をついている。ちょっと俯いて手を動かしているのは、靴を履かせているかららしい。
やがて、いつも通りの低くて落ち着いた声が聞こえてきた。
「少しは落ち着いたか」
洋介は鼻をぐすぐすいわせて、うん、ともううん、とも聞こえるような返事をした。うつむいて、顔の所で手をごそごそやっている。必死に涙をぬぐっているんだろう。
俺はもうそれだけで、胸の真ん中がきりきり痛んだ。
なんで俺、こんなこと佐竹に任せてるんだ。俺、兄貴なのに。
(それに……佐竹だってさ)
実は佐竹だって、お父さんを亡くしてる。
かなり特殊な状況でだけど、それだって相当つらい経験だったはずなのに。
そんなあいつに、洋介を慰める役を任せるなんて。
と、佐竹の声がまた聞こえた。
「無理しなくていいんだぞ。なんならこのまま本当に保健室に行くか」
こういうときのあいつの声、ちょっと不思議なぐらいに優しい。なんかさ、ずるいんだよな。普段はあんな硬質でちょっと怖い雰囲気なのに。
洋介の声はくぐもっていてよく聞こえない。でも、はっきり首を横にふっているのは見えた。
「……って、思ったの。さたけさ、くる、なら……だいじょぶ、って」
しゃくりあげながら、必死で言いたいことを伝えようと頑張っている。
佐竹がそこで、ちょっと沈黙したようだった。
「すまない。大した励みにもならなくて」
その声は、本当に申し訳なさそうに聞こえた。
(そんな!)
思わず飛び出しそうになった。だけど「そんなことないっ!」っていう洋介の声で、俺はどうにか踏みとどまった。
ちがうんだ。
さたけさんのせいじゃない。兄ちゃんのせいじゃない。
父さんだって悪くない。
ぜったい、泣いたりしないんだと思ってた。
きっとガマンできると思ってた。
だって、始まるまでは平気だった。昨日まで、クラスで友達が「ママがくるんだ」とかしゃべってるのを聞いていても。「お弁当楽しみ~」なんて、さわいでるのを聞いてても。
別になんとも思わなかった。
「平気。だいじょうぶ」って思ってた。
今日だって、途中までだったら平気だったんだ。
なのに。
どうしてだか、さっきのお母さんを見たらダメになっちゃった──。
洋介は両手でめちゃくちゃに顔をぬぐってぐすぐすやりながら、そんなことを一生懸命佐竹に訴えているようだった。
(……そんなの、無理だよ)
もしも、俺が洋介と同じ立場だったら。
そんなの、もっともっと手前のとこで大泣きしちまってるに決まってるもん。
なんでそれで、「我慢できる」とか思っちゃうんだよ。無理だってばよ。
洋介と佐竹の姿が、熱くぼやけて見えなくなる。
足元にぼとぼと落ちてるのは、俺の目から溢れたものだった。
漏れ出てしまいそうになる嗚咽を手でおさえこんで目を上げると、佐竹が泣きじゃくっている洋介をぎゅっと抱きしめて、その頭をぽすぽすやっているのが見えた。
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