第2話 朝露に濡れた夢

 カスミの日常に変化が起きたのは、例のヘアオイルの使用に慣れて来た頃だった。相変わらずユメコさんの香りに包まれて眠り、夢に先輩が現れることもなかった。それでも別に気にすることなく日常を送っていたある日の休み時間、トイレから出ると、鏡の前でユメコさんが身だしなみを整えていた。

 カスミは、激しい高鳴りを覚えた。トイレには二人きり。目の前ではユメコさんが綺麗な髪の毛を櫛でとかしている。カスミは何て声を掛ければいいのかわからなくて、固まっていると鏡越しにこちらに気付いたユメコさんが「ごめんなさい。邪魔かしら」と柔らかく微笑んでポーチを掴み、横にずれた。

「あっ、気を使わせてしまいごめんなさい!そんなつもりじゃなくて」

 カスミは慌てて謝った。鏡のついた手洗い場は全部で三つ。その真ん中をユメコさんは使用していた。カスミの言葉にニコリと微笑むと横にズレたままの位置で前髪を直した。

 彼女の左隣の手洗い場で、蛇口を捻る。冷たい水が心地良い。緊張しているのが馬鹿みたいだが、正直こんな近くで彼女を見たのは初めてだったから仕方ない。

 ユメコさんがため息を着いた姿に思わず顔を上げる。それに気づいたユメコさんがカスミの方を見た。ユメコさんはリップを塗っている途中で、その姿はとても同じ歳の女の子とは思えない程色っぽかった。

「最近、空気が乾燥して来たじゃない? 髪の毛も唇もすぐパサついちゃって嫌になっちゃう」

 ため息の理由を鏡越しに話してくれた。カスミはドキドキする気持ちを押さえながら答えた。

「で、でもユメコさんはいつも可愛いから羨ましいわ」

「そんなことないよ。乾燥肌だし、ちょっと気を抜くと静電気で髪も絡んじゃうし」

 塗り終えたリップをポーチの中に戻した後、今度はハンドクリームを取り出した。

「わ、私も手がすぐガサガサしちゃうんだ……。もし良かったら、おススメのハンドクリームとか…… 教えてもらえるかな」

 言ってから「しまった」と思った。大して仲が良い訳でもないのにずうずうしいかもって後悔したが、ユメコさんは「手出して」と笑った。そして、差し出した手に自分が塗っていたものと同じハンドクリームを出すとゆっくりマッサージしながらカスミの手に塗り込んだ。

「これね、ユンちゃん…… あ、ユズ先輩が進めてくれたハンドクリームなの。香りも良いし、保湿効果も高いんだって。でね、塗るときにこうしてマッサージしてあげると肌に浸透しやすいみたい」

「そ、そう、そうなんだ」

 ユメコさんの綺麗な白い指が、カスミの手をマッサージしてくれている。そう思うだけで激しい動機を覚えた。心臓が口から飛び出しそうだった。

「はい、できた」

 ユメコさんの手が離れさわってみるとしっとり柔らかくなっていた。心なしか血色も良く見える。微かだがベリー系の可愛い香りが鼻先をくすぐった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 微笑みながらポーチを閉じて手に持った。

カスミはドアの方へ身体を向けたユメコさんを慌てて呼び止めた。

「良かったら、商品名教えてくれない? 」

 ユメコさんはもう一度ポーチからハンドクリームを取り出すと商品を見せながら教えてくれた。ついでに、ドラッグストアで買えるよと購入できる場所まで教えてくれた。自分のお気に入りとかは教えたがらない子が結構多いのに、ユメコさんは嫌な顔一つせず教えてくれた。彼女が居なくなった後のトイレは静かで、自分も教室に戻ろうとしたとき、大声で笑いながら話をする二人組が入って来た。ユメコさんとのやりとりのあとのせいか、なんだか酷く下品に見えて、自分もそうならないようにしようと軽く髪の毛を押えた。


「ユンちゃんって呼んでた」

 ベッドに横になりながら買って来たばかりのハンドクリームを手に塗り込み、呟いた。銘柄は、勿論今日教えて貰ったもの。あんなに沢山ユメコさんと会話したのも初めてだった。

 思い出しては、今日何度目かわからないため息をつく。

(帰り際、挨拶してくれた)

 しかも、ユメコさんから。傍にいた友人は当然驚いた顔をしていた。そんな風に今日一日を振り返るだけで頭の中はパンクしそうだった。

 あんな短時間の会話なのに、ユメコさんの人柄を感じることが出来た。容姿だけじゃない。勉強が出来るだけじゃない。品行方正なだけじゃない。それらを兼ねそろえたうえで、にじみ出る性格の良さや穏やかさが彼女の人気の秘密だと思った。

(私も)

 彼女の様になれるだろうか。

「…… なんてね」

ヘアオイルとハンドクリームの香りが眠気を誘う。うとうとしながら、カスミはゆっくり眠りに着いた。

 その日の夜、夢を見た。以前見た景色と同じ、白昼夢の様な花園で名前を呼ばれて振り返った。カスミの髪型はいつの間にかユメコさんの様に綺麗に波を打ち、振り向きざまに頬に当たった髪の毛は、とても柔らかかった。

 名前を呼んだのは、勿論、ユズ先輩。先輩は優し気な笑顔を浮かべて佇んでいる。カスミは慣れた足取りで駆け寄ると、相手はそれが当然のようにカスミの身体を抱きしめた。

 ユズ先輩の腕の中に自分が居る…… そう思うだけで眩暈がするような感覚に、視界がぼやけて行く。思わず目を閉じた。そして、次に目を開けた時、飛び込んで来たのは見慣れた天井。夢とわかっていながらも胸のドキドキは収まらない。いや、むしろ夢とわかっているからこそ、自分に都合の良い展開が望めるのだ。

(私は彼女達とは違う)

 胸に手を当てて気持ちを落ち着けながら、呪文のように心で呟いた。

 ユメコさんの様になりたいわけではない。

 ユズ先輩に想いを募らせている訳でもない。

(ただ、単純に)

 そう、単純に。

 スターの気持ちを覗き見るような好奇心でしかないのだ。


 それ以降、ユメコさんとも特別進展はなかった。彼女も声をかけてくるわけでもなく、カスミも近寄ることはしなかった。

 何事もなく、平和に毎日は過ぎて行った。その日も全ての授業を終え、清掃も終えて担当清掃先の音楽室の鍵を職員室へ返しに行く途中、中庭の人影に気付いた。

 ユメコさんとユズ先輩が何かを話しながら楽し気に歩いていた。ユメコさんは躊躇することなくユズ先輩の腕に絡みつき、先輩はそれを払うこともしない。きっと、ずっとあんな風に過ごして来たのだろう。

 カスミはブレザーのポケットから何気なく携帯電話を取り出し、二人の姿を撮影した。距離もあるうえ、自分たちの世界に入り込んでいるせいか、シャッター音がしても、全然気づかれなかった。それでも、盗撮の二文字がカスミに罪悪感を感じさせ、すぐさま携帯電話をポケットにしまった。

 撮影したことに深い意味はなかった。強いて言うなら何となく。後で消せば良いや程度の考えで撮影しただけ。


 ――― 今思い返せば、この時が始まりだったのかも知れない。いや、正確にはもっと前からくすぶっていたものに、この行為が火をつけたのかも知れない。


  一度灯された火は、そう簡単には消せやしないと気づいたのは、もっとずっと後のことだった。

 

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