8.脱獄の決意 8-1

 布由は夢を見た。

深い沼の上で月を眺めている夢だった。

静謐せいひつな水の中では布由に干渉してくるものは誰もいない。

それは孤独であったが、心地よくもあった。

目を閉じてゆっくりと息を吐く。

布由は肺の中を冷たい水で満たして、そのまま月の光も届かない水の底へ沈んでしまいたかった。


 それなのに誰かが彼女の腕を引き止めた。

見れば一匹の銀色の狼である。

悲しそうな顔をした狼が布由の腕を咥えていた。


(離しなさい、このままではお前も水の底に落ちてしまう)


 思いを視線に込めて首を振るが、オオカミは言うことを聞かない。

悲しそうにうなりながら、なんとか布由を岸へ引きずり上げようともがいている。

そのひたむきさに布由は胸を打たれ、これまでに経験のない心の痛みを感じた。


 このオオカミなら信じられる……。

布由は空気を求めて大きく水を蹴った。

岸辺に倒れこみ大きく肩で息をすると、オオカミは嬉しそうに月に向かって吠えた。


「夢……?」


 気が付くと布由は監獄の中だった。

小さな窓さえないいつもの監獄。

ここからでは月さえも見られない。


あの夢は何だったのだろう? 


いろいろな気持ちがごちゃ混ぜになって、布由は目覚めた後でもう一度泣いた。


 少し落ち着くと、布由は少しだけ文句を言いたい気分になっていた。

こんな夢を見た原因を思い出したからだ。

それもこれも全部バートンのせいなのだ。

思い出すだけで顔が赤くなり、胸がドキドキする。

それはジェーンが死んだ二日後のことだった。


「フユさん、私は看守を辞めようと思うのです」


 掃除を終わらせたバートンが思いつめたような顔つきで話しかけてきた。


「突然にどうしたのだ?」

「自分はアルバン監獄がほとほと嫌になってしまいました」


 布由が真っ先に思ったのは、バートンと二度と会えないかもしれないという恐怖だった。


「それは、ジェーンという狼殿の友が亡くなったことに原因があるのか?」


 バートンはゆっくりと首を振った。


「それだけではありません。この場所の全てが私には向いていないのです。犯罪、レイプ、暴力など人間の負の感情がここにはおりのようにたまっています。そんな環境に私はこれ以上耐えられそうもありません」


 布由は何も答えられなかった。

自分を残してここを去らないでほしいという願いは強かったが、バートンのためを思えばそれを無理強むりじいすることもできない。

布由は自分の幸福のためにバートンの未来を犠牲にできるような人間ではない。

それに、もう布由は本気でバートンを愛し始めていたから、バートンの幸福こそが布由の望みにもなっていた。


「フユさん、私はすぐにでもアルバン監獄を出ていきたいのです」

「そうか。それは仕方のないことだ」


 悲しい気持ちを隠しながら、布由は淡々たんたんと答えた。


「ですが、それは無理なのです」

「無理? 続けられそうもないというのなら辞めればいいだけではないか。金銭的な心配をしているのか? それなら私が監獄に預けている金を持っていけばいい。私には不要なものだ。喜んで狼殿に差し上げよう」


 預け金は30万ギール以上になっていたはずだ。

それだけあれば当座の暮らしには困らないと思う。

檻の中にいる自分ができることなどそれくらいだと、布由は本気で思った。

だが、バートンは続けて思いもよらない言葉を発していた。


「フユさん、私は貴方を愛してしまいました」


 布由は全身の血が一気に引いて、それから逆流してくるような感覚を覚えた。


「貴女をここに置いて、一人でアルバン監獄を去ることができません。だから……」


 布由は続く言葉を震えながら待った。


「だから、俺と一緒に、ここを脱獄してもらえませんか?」

「あ、あう……」


 相良布由は本当に「あう」と言った。

感情が暴走してしまって、自分の気持ちをうまく言語化ができなかったのだ。


「私の……私にそのような価値があるのだろうか?」


 少しだけ落ち着いた布由が問いかける。


「もちろんです」

「ど、どこに?」


 ストレートな質問に、今度はバートンが困惑する番だった。


「えーと、文章にして提出という形でよろしいでしょうか?」

「それは……」

「手紙という形式を取らせていただければ、私の気持ちをより正確にお伝えできるかもしれません」

「そ、そうか。では……そのように取り計らってくれ。あの……そうしてもらえると私も嬉しい。あっ、いや、直接気持ちを伝えられた時も嬉しかったのだが。えと、確認するようで申し訳ないのだが……それは……その……恋文というものと考えて間違いないのだろうか?」

「そ、そう受け取っていただいて結構です!」


 不器用な二人のやり取りを見守っていたキンバリーが肩をすくめた。


「やれやれだぜ……」


 冬にしては温かな日だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る