6-6

「クチュン」


 相良布由の可愛らしいクシャミが地下特別監房に響いた。

季節は冬へ移らんとしている。

今日はロンディアン市に初雪が舞った。

勇者が閉じ込められている地下特別監房は一年を通じて気温はあまり変わらないのだが、それでも石壁はいつもより冷たく感じる。


「勇者様、お風邪をひかれたのですか?」

「たいしたことはないよ」


 無頓着を装ってそう答えたものの、このクシャミは布由にとっても意外なものだった。

この世界に召喚されたばかりの頃だったら、布由の力はこの世のことわりの外にあった。

魔王の攻撃さえもほとんど受け付けず、風邪の原因となるウィルスだって、その体を蝕むことはできなかったのだ。

 魔王を倒すと同時に力の大部分は失われたが、それでも健康を損ねるようなことはこれまで一度もなかった。

だが召喚されて四年も経つと、勇者の能力も劣化が始まるらしい。


「少しずつ力が衰えているようだ」

「勇者様……」


 まるで危篤の病人を見るような顔をしているバートンが可笑しくて、布由は小さく笑った。


「いきなり死んでしまうわけではない。そんなに心配そうな顔をしないでくれ」


 自分は嘘をついていると布由は思った。

本当はいっぱい心配してもらって、いつでもバートンに自分のことを気にかけてほしかったのだ。

自覚はなかったが、布由は生まれて初めて他者に甘える喜びを感じ始めている。


「何か欲しい物はありませんか?」


 いつものようにバートンが聞いてきて、真っ先に思い浮かんだのはオムレツだった。

バートンが作った歪な形をしたホカホカのオムレツ。

布由はもう一度それが食べたかった。


「特にない」


 食べたかったのだが、素直に言える布由ではない。


「そうですか? でも、やっぱり毛布は買いましょうよ。勇者様のお体が心配です。どうしてもお嫌というのなら私が買って――」

「それはダメだ!」


 気にかけてはもらいたいのだが、迷惑をかけるのは布由の本意ではない。


「わかった……私の預け金で毛布を買ってきてくれ」


 安心した表情を見せるバートンを見て、布由の心も満たされていく。

だがその様子を妖精のキンバリーはじれったい気持ちで見ていた。


「なんだかなぁ……。もう少し打ち解けられないのかい? 君たちは」

「打ち解けるってなんだよ?」

「まずは、その呼び方よ。なんだい勇者様って? オイラみたいにフユさんって呼べばいいんだよ、バートンも」

「おいおい、勇者様は救国の英雄だよ。国中のみんなが勇者様って呼んでいるんだ。そんな恐れ多い……」


 バートンは失礼じゃないかと心配したが、布由は内心で喜んでいた。

皆が自分を勇者様と呼んでいたが、そのことに関心はない。

どうでもいいことだと思っていた。

けれども最近になって、バートンにだけは名前で呼んでもらいたいと思い始めている。

考えてみれば、戦闘以外のことをこんなにたくさん話す相手は初めてだ。

圧倒的な力を誇る故、戦うときも常に一人であり、布由には戦友さえいない。

布由の中にボヤッとした、よくわからない感情が芽生え始めていた。


「そ、それもそうだな。ウルフ看守も、よければ布由と呼んでくれ」


 内心の動揺を悟られないように布由は提案してみた。

同性異性を合わせて友人と呼べる人間はこれまでただの一人もいなかった布由にとって、非常に緊張する一言だった。

ある意味、魔王と対峙した時よりも緊張していた。


「勇者様をフユさんですか? いいのかな?」

「もちろん構わない。私もその方がいいと……思う……」

「そうこなくっちゃな。でもよう、フユさん。そのウルフ看守っていうのはいただけないな。バートンがフユさんを名前で呼ぶんだから、フユさんだってそうしなきゃ。フユさんもオイラみたく、バートンって呼べばいいんだよ」

「バ、バ、バ、バートン?」

「そうそう。言いにくいかい? だったら囚人みたいに監獄狼かんごくウルフでもいいと思うぜ」

「バッ!?」


 バートンとしては、そんなあだ名を布由に知られるのは嫌だったのだが、少しだけ遅かったようだ。

布由はさっそく興味を持ってしまった。


「なんだいそれは?」


 頭を抱えたバートンの横で、キンバリーは嬉々としてこれまでの顛末を話してやるのだった。


 結局二人は、フユさんと狼殿おおかみどのと呼び合うようになった。

布由にとってファーストネームを呼ぶのはどうしても恥ずかしかったのだ。

狼殿なら恥ずかしくないのだろうかとバートンは疑問に思ったが、どうでもいいようなことにも思えた。

それよりも二人の距離が縮まったことが嬉しかった。

狼殿なら監獄狼かんごくウルフよりはずっといいような気がしたのだ。

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