5-11
小走りに階段を下りていくと、誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。
やけに高音で神経質そうな男の声だ。
見れば職務質問されたビンクスが大声をあげていた。
ビンクスはアパートの壁を背にして立っており、警官たちに周りを固められている。ああなったら逃走は不可能だろう。
「警部、そいつがビンクスです!」
俺の証言にさっそく捕縛しようと手を伸ばした警官が突如苦痛のうめき声を上げた。
毛の生えたごつごつとした手からは血が
ビンクスが隠し持っていたナイフを振り抜いたのだ。
「うああ!」
ビンクスは奇声を発し、ナイフを大きく振り上げて更なる抵抗の素振りを見せていた。
このまま血路を開き逃走を図るのかと思ったのだが、次の瞬間に奴は思いがけない行動にでていた。
何と、右手に持ったナイフで、大きな包みを抱えた自分の左の手の甲を刺したのだ。
「我、我が血をもって汝を召するものなり 果ての果て 際の際 闇の奥の闇より来りて 我が願いを――」
こいつ悪魔を呼び出す気だ!
「警部、悪魔が来ます!」
異様なまでの早口で唱えられた呪文はすぐに完結し、包みの奥から発せられた闇の波動で最前列にいた警官たちが後方へ吹き飛んだ。
そして、本の中から漆黒の流体が流れ出してきて、俺たちの目の前で一体の悪魔へと形を変えていく。
現れた悪魔は、小さく、頭はハエにそっくりで、体は真っ白な人間の裸体だった。
ただし性別は判然としない。
背中には虫の
ぱっと見はコミカルでもあり、よく見ればグロテスクでもあった。
「ギギギッ……俺……レゴイル。何を望む?」
「こ、こいつらを全員始末してくれっ!」
ビンクスの叫びを聞いて、レゴイルは嬉しそうに口をカタカタと鳴らした。
もっとも虫の表情なんてわからないから、そんな気がしただけかもしれない。
とにかく危険な状況だった。
下級とはいえ悪魔は強いのだ。
その辺のモンスターとは比べ物にならないと聞いている。
突然、レゴイルの手が伸びて、倒れていた警官の頭を掴んで引き寄せた。
何をするかと思ったら、そのまま頭にかぶりつこうとするではないか。
ガキン‼
いち早く動いたジャガー警部の剣戟をレゴイルは素手で受け止めていた。
だが、おかげでつかまった警官は頭を齧られずに済んだようだ。
さすがは冷静沈着、ロンディアン市警一の切れ者と評判のジャガー警部だ。
その場にいた全員が固まったように動けなくなっていたのだが、この人だけはしっかりと状況に即応していた。
「全員、剣を抜け! 悪魔は殺してもかまわん!」
警部の命令に体を強張らせていた警官たちが一斉に抜刀した。
だが、レゴイルは恐れる様子もなく、口をカタカタと鳴らしている。
じりじりと距離を詰めてくる警官たちを、どこを見ているかわからないハエの眼で睨んでいた。
「うおお!」
威勢の良い声をあげて大柄な警官が切りかかったが、レゴイルの背中から伸びた黒い影のような触手がそれを跳ね返す。
それだけではない。
触手は10本以上も伸びて、取り囲む警官たちを攻撃しだしたのだ。
うねうねと鞭のように動いているのだが、先端は硬くなっているようで、警官たちは次々と腕や腿を貫かれて負傷していく。
狭い裏路地は阿鼻叫喚の地獄絵図で、辺りには血の匂いが立ち込めた。
ジャガー警部は攻撃を躱して何本かの触手を切り落としていたけど、悪魔に致命傷を与えるまでには至っていない。
一人、また一人と戦闘可能な人員が減っていった。
俺だって管轄外だからと傍観しているわけにはいかない。
やるからには最初から全力でことにあたるべし、そう考えてポケットの中の身体強化魔法スクロールを発動させた。
途端に体が軽くなった気がした。
力もスピードも普段の1.5倍は出ていそうな感じだ。
目の前でジャガー警部を貫こうとしていた触手を一刀のもとに切り落とすことができた。
「ウルフ君!」
「助成します。何とか悪魔本体に攻撃を!」
「承知した」
まだ戦える警官たちと協力してレゴイルの触手に対処したが、俺たちの攻撃をあざ笑うかのように触手は次から次へと生えてくる。
しかも、時間と共に身体強化魔法が効力を失ってくるのが感じられた。
だが、焦りは禁物だ。
こういう時こそ冷静になって敵の隙を窺わなければならない。
剣を真横に倒した構えで、俺はレゴイルの姿をよく見た。
レゴイルはアパートの壁を背にして、後ろにいるビンクスを守るように戦っている。
そこで俺はあることに気がついた。
ビンクスの抱えている本から黒い粘液のようなものが地上を這い、レゴイルの体と繋がっていたのだ。
ひょっとすると本を何とかすればレゴイルは消滅するかもしれない。
俺は警部に体を寄せて囁いた。
「奴の注意をひきつけてもらえませんか。考えがあります」
「わかった」
少しずつ目立たないように、俺は集団の一番右側に回った。
警部が目で合図をしてきたので、頷きながらポケットの中のマジックスクロールを用意する。
「動ける者は一斉攻撃を仕掛けるぞ!」
警部の命令に皆は同時に切りかかった。
俺もレゴイルに攻撃をするふりをして隙を窺う。
俺の方に伸びてきた触手を躱して、地上を転がりながらビンクスの抱える『ゾーマの約定』へ向けて火炎魔法を放った。
「ウガガッ……ガガッ……ガッ‼」
燃え盛る火炎は音を立てて禁書を包み、業火となって路地裏を照らし出す。
同時に耳障りな断末魔を上げながら、レゴイルはドロドロのコールタールのように溶けていく。
鼻を刺すような瘴気が立ち込めて、皆が袖で口元を覆った。
薬剤で何かを溶かしたかのように、道の上で真っ黒な悪魔の残骸が泡を立てていた。
目がツンと痛み、呼吸をするのも少し苦しいくらいだ。
「シンプソン、聖堂騎士団へ行って浄化魔法を使える人を大至急呼んでくるんだ。他の者は一帯を封鎖しろ。一般人をこの場所に近づけるな」
命令を受けた警官たちはすぐにその場を離れていった。
「警部、お怪我はありませんか?」
「ありがとう、大丈夫だ。しかしウルフ君、君には毎度助けられてばかりだな。まさか火炎魔法の使い手とは知らなかったよ」
「そうではなく、たまたま火炎魔法のマジックスクロールを持っていただけです」
「それは、大事なものを使わせてしまってすまなかったね。補填ができるようにこちらで取り計らうことにするよ」
本当は身体強化魔法のマジックスクロールも使っているのだが、あれこれと詮索されてもおもしろくない。
火炎魔法の分だけでも貰えるのならばありがたいと思っておこう。
「それにしても、君」
「なんでしょうか?」
「看守なんてやめてロンディアン市警に来ないか? すぐにでも私の下で働いてもらいたいのだが」
一週間前なら喜んでその提案に飛びついただろう。
だけど……。
頭の中に俺を待つ勇者様の姿がよぎった。
しまった! また、勇者様の夕飯のことを忘れていたではないか。
前回ほどではないにしろ、今日も夕食をお持ちするのが遅くなってしまいそうだ。
「警部、お誘いいただきありがとうございます。ですが、私には特別な事情がございまして、今は看守を辞めるわけにはいかないのです。大事な用を思い出したので、今日はこれで失礼します!」
暗くなりつつある街をアルバン監獄に向かって駆け出した。
そして、監獄の門に着く頃になってようやく俺は思い出す。
ポーの奥さんから3300ギールを徴収することをすっかり失念していたのだ。
天上語でこれを何と言ったっけ?
そうだ、「骨折り損のくたびれ儲け」とか言うんだったな……。
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