3-5
普段に比べると、今日のバートン・ウルフは極端に口数が少なく、そのことが相良布由を落ち着かない気持ちにさせていた。
仕事の手は休めていないのだが、しきりと首をひねりながら、何かを考えているようだ。
先日、バートンが持ってきてくれた薔薇は、蕾がやや開いた状態のものだったが、今では花弁をすっかり広げて瑞々(みずみず)しいピンク色に輝いている。
香りも強く爽やかだった。
本当は花のお礼を言いたかったのだが、未だに布由は話しかける取っ掛かりを見いだせずにいる。
今日こそはバートンの話に相づちでもうって、自然に話しかけようと思っていたのだが、当のバートンが寡黙(かもく)になってしまっていた。
(なぜ、いつものように喋らぬ。昨日まではうるさいくらいに無駄口を叩いていたというのに……。これでは、礼が言えぬではないか)
歯ぎしりする布由のこめかみがピクピクと震えていたが、バートンはいっこうに気が付かずにいた。
(思い切ってこちらから話しかけてみるか……。でも、何と言って話しかけたらいいのだ? わ、わからぬ……)
元勇者は軽いコミュ障だった。
幼い頃から武術の鍛錬に明け暮れ、同年の者との交わりさえなかったために、会話における絶対的な経験値が足りていなかったのだ。
(くっ、このままでは埒が明かん……)
諦めかけた布由だったが、ようやくモップをかけ終えたバートンが鉄格子の近くまでやってきた。
『清掃はこれで終了しました。次は夕食のときにまた来ますが、何か必要な物はございますか?』
習慣のようになってしまった質問をバートンが繰り返してきた。
まさに千載一遇(せんざいいちぐう)の機会が到来とばかりに布由は勇(いさ)んだ。
「にゃいっ……」
沈黙が地下特別監房を支配した。
不思議そうに見つめるバートンの視線を受けて、耳まで真っ赤にした布由がそっぽを向いた。
(不覚……。一年ぶりに声を出したから、うまく話すことができずに猫のような返事になってしまった。『ない』と言いたかっただけなのに……。恰好をつけてブリテニア語で答えようとしたのが失敗だったか)
だが、布由の羞恥を知ってか知らずか、バートンは何事もなかったかのように受け流した。
「さようですか。では、また後ほど」
横を向いていたので、布由はバートンがどれほど嬉しそうな笑顔をしていたかを見逃してしまった。
扉が閉まる音を聞いて布由は肩の力を抜いたが、未だに顔の火照りはとれていなかった。
「あ~、あ~」
珍しく地下牢にバートン以外の声が響いている。
次こそはうまくやろうと意気込む、布由の発声練習だった。
♢
勇者様の声は想像していたよりもずっと可愛らしかった。
気の滅入るような監獄の仕事をしていても、その声を思い出しただけで幸せな気持ちになれるから不思議だ。
たった一言「にゃい」って返事を聞いただけなのにな。
それにしても「にゃい」って……。
あれは天上語ってわけじゃないよな?
そんな単語は聞いたことがない。
きっと、普通に噛んでしまっただけなのだろう。
うなじまで真っ赤にしていたよな……。
午後の巡回中はずっと、笑いがこみ上げないように気をつけていなければならなかった。
だけど、そんな気持ちでいられたのも106番が収容されている監房へ来るまでだった。
106番ことラボスは、テムリス川にたまった土砂を掻きだす強制労働に出されていて、監房の中は空っぽだった。
あれからいろいろ考えたのだが、ひょっとするとマリアンという女は、ラボスに弱みをにぎられているのではないだろうか。
たとえば、自分との過去を現在の恋人にばらすとかそういった類の脅しだ。
囚人だから監獄の外に出ることはできないけど、俺に依頼したように、手紙を看守に頼めばことは足りる。
それでマリアンは怯えて面会にやってきたのかもしれない。
だとしたら、ギール銀貨に釣られてメッセンジャー役を引き受けてしまった俺にも、少しは責任があるような気がした。
くよくよと悩んでいるのは性分に合わないので、マリアンに事情を確かめることにした。
ラボスに脅かされているのなら力を貸してもいいと思っている。
都合のいいことに今日は夜間巡回の当番日だ。
当番看守は火の4刻(15時くらい)から地の4刻(21時くらい)まで中休みがもらえる。
勇者様に夕飯を出す地の1刻(18時ころ)までには戻ってこないといけないけど、サンクチェ通りまでなら余裕で往復できる距離だった。
前回のことから学んで、目立たないように看守の制服から私服へと着替えた。
用心のために剣の携帯も忘れない。
最近では数年ぶりに剣術の稽古を再開している。
監獄ではたまに囚人が暴れたり、小規模な暴動なども起こるそうだ。
それを鎮圧するのも俺たち看守の仕事なわけだから、少しは鍛え直しておこうと考えたのだ。
既に一度通ったことのある道だったので、マリアンのアパート近くまでは迷うことなく行くことができた。
表通りには仕事から帰る人々が溢れかえっていて、非常に混雑している。
そんな雑踏の中で、俺はマリアンがこちらに歩いてくるのを見つけて建物の陰に身を潜めた。
反射的に隠れたのはマリアンが男連れだったからだ。
しかも男の顔に見覚えがあった。
名前は忘れてしまったが、未決囚として2週間アルバン監獄にいた囚人だった。
たしか泥棒の容疑者として逮捕されたけど、証拠不十分で釈放されたはずだ。
あれがマリアンの恋人なのだろうか?
二人は庶民としてはまともな服装をしており、やがて少しだけ高級そうなレストランへと入っていった。
悪くない生活をしているようだが、マリアンはただの通い女中だ。
こんな店で外食をする余裕はないはずである。
だったら、男の方が裕福なのだろうか?
見張っていても何もわからないので、アルバン監獄に戻って男のファイルを調べることにした。
未決囚とはいえ、アルバンの囚人だったのなら資料は残っているのだ。
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