3-4

 靴下に穴が空いた。

だからといって、おいそれと新品を買うようなことはない。

そんなことができるのは死んだ親父殿のような貴族くらいのものだ。

穴が空けば針と糸で繕うのが、一般的な六等官の正しいありようだろう。

ところがだ、どうしても欲しい本があって、昨日は大枚をはたいて購入してしまった。

だから財布には300ギールしか残っていないというていたらくだ。

だが「レンガル東方紀行記」はずっと欲しかった本だったので、購入したことには一片の後悔もない。

革表紙の立派な装丁を撫でているだけで、財布の軽さも忘れられるというものだ。

その代り針と糸を買うお金をなんとか稼がなくてはならないのだけど。

サリバンズ家の屋敷を追い出されて何が悲しかったかと言えば、あそこの図書室を使えなくなってしまったことだ。

親父殿は読みもしないくせに、せっせと本を収集していた。

彼にとってはステータスの証明みたいなところがあったようだけど、おかげで好きな本を好きなだけ読めるという恩恵を俺は受けられたのだ。


 過ぎ去りし過去の栄華を思い出しながら靴下を履いていたら、親指がぴょこりと飛び出して、侘しさが一層募った。

今は金もうけに邁進しなければならないな。

ここは頑張ってタバコの販売に精を出すしかないだろう。

普段は自分から声をかけることはないが、今日はこちらから売り込んでみることにした。



 囚人には週に何回か運動の時間というのが割り当てられている。

といっても石壁に囲まれた10メーラー四方のスペースでぶらぶら過ごすだけのことで、体操や球技を楽しむわけではない。

それでも、その時間だけは何かを強制されることはないので、囚人たちにとっては楽しみの時間になっている。

中庭ではタバコを吸うことも認められていた。



「やあ、374番。タバコは足りているかい?」


 俺にとっては常連の客である374番に声をかけた。

374番はケチなコソ泥を繰り返しては、娑婆と監獄を行き来するような生活をしている四十男だ。

盗むものは少額の酒やタバコなどだから、一カ月の強制労働くらいの刑罰で済む犯罪ばかりである。

上前歯の抜けた口はしまりがなく、小柄な体つきをしていて、大のタバコ好きだった。

他の囚人と取引して、自分のパンとタバコを取り換えてしまうくらいの中毒者なのだ。


「ああ、ウルフの旦那。今日はこの通り」


 374番は胸ポケットから大事そうに数本のタバコを取り出して見せてくれた。


「随分と羽振りがいいんだな」

「へへっ、実は同房の友だちから分けてもらったんでさぁ」

「お前の房に、そんなお大尽だいじんがいたっけ?」


 収監されている暗黒街の顔役なんかが、部下に大盤振る舞いすることはあるけど、そんなことは稀だ。

そういう奴は搾取の方が専門だったりする。

だいたい、374番の監房にそんな大物はいないはずだった。


「へへっ、ラボスの奴ですよ。あいつ、面会の差し入れで色々貰ったみたいで上機嫌なんです。それで同じ房の囚人にも分け前をくれまして」


 その話を聞いて真っ先に思い出したのは、ラボスからの手紙を渡したマリアンという女のことだった。

タバコを持ってきたのは奥さんかもしれなかったが、貧(ひん)にやつれた感じのあの奥さんに、大量のタバコを買えるだけの余裕があるとは思えなかった。

では、やっぱり面会に来たのはマリアンだろうか? 

これについても疑問が残る。

娼婦を買った経験なんてないから詳しいことはわからないけど、いくら上客だったとはいえ、娼婦が客だった囚人の面会に来るとは考えにくい。

しかもたくさんの差し入れを持ってだなんて、おかしな話だと思う。

ひょっとしたらマリアンが俺に嘘をついただけで、本当はやっぱり愛人関係なのかもしれないけど、妙な不自然さを感じた。


 気になった俺は昼休みを使って、面会の受付名簿を調べた。

すると、ラボスの面会が昨日だったということがわかった。

さらに、面会者の名前はエミリア・クラムベリーという女で、奥さんでもマリアンでもないことも判明した。

住所もマリアンが住むサンクチェ通り裏ではなく、レボルス通り裏となっている。

面会の監視人は同僚のエベントだったので話を聞いてみることにした。


 食堂へ戻るとエベントはのんびりとタバコをふかしている最中だった。


「エベント、ちょっと教えてもらいたいんだけど」

「ん? なにか問題でも起きたか?」

「そうじゃないよ。きのう106番の面会を担当しただろう?」

「106番?」

「ほら、元ワイン樽職人で、置き引きでつかまった男だよ」

「ああ、思い出した。確かに俺が担当したよ」

「エミリア・クラムベリーって女が面会に来たと思うんだけど」

「いや、名前までは覚えてない。ちょっといい女だった気がするけど」


 そう言ってエベントは唇の端を舐めた。

最近わかってきたが、エベントがこれをやるときは大抵いやらしいことを考えているときだ。


「どんな女か憶えていないか?」

「どんなって……、えーと……目つきのきつい女だったな。まあ、ああいうのがいい声で鳴くとたまんねぇんだけどな」


 目つきのきつい……。


「その女は亜麻色の髪をしてなかった? 身長はこれくらいで」


 手でマリアンの身長を作ってやると、エベントはこくこくと頷いた。


「そうそう、たしかそんな感じの女だったぜ。その辺の奥さんにしちゃあ、やけに色気のある女だった」

「ありがとう」


 どうやらエミリア・クラムベリーというのはマリアン・ベイクとみて間違いなさそうだ。

でも、どうして偽名を使ったのだ? 

不倫関係を知られたくなかったとしても、役所の名簿に偽名を書くのは大袈裟(おおげさ)だ。

要は奥さんと面会がかち合わなければいいだけなのだから。

それに、マリアンのラボスに対する態度はそっけなかったと思う。

手紙を読み終わったときだって、すごく迷惑そうにしていた。

それなのに面会に来るとはどういうわけだ?


「なあ、あの女がどうしたんだ?」

「いや、たいしたことじゃないんだ」


 エベントが探るようにこちらを見つめてきたけど、適当に言葉を濁して食堂を後にした。

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