2-2
厳重に施錠された扉や鉄格子をいくつも抜け、建物の奥へ行くにつれて空気は
どこか甘ったるいような、酸っぱいような、吐き気を催す腐敗臭が強くなってくる。
たどり着いた監房は、鉄格子の嵌められた小さな部屋が12も並ぶ場所だった。
一つの部屋は横幅が2メーラー(2メートルくらい)ほど、奥行きも4メーラーくらい
しかなさそうだ。
この部屋にだいたい六人もの囚人が詰め込まれていた。
本日護送されてきたのは人族だけだったが、部屋の中には獣人やホビット、ドワーフなどの異種族もいた。
床の上には
囚人のほとんどが皮膚病や監獄熱といった病気にかかっており、健康そうな者はどこにもいない。
囚人は沈黙が基本的なルールであり、余計なおしゃべりをしている者は即座に罰せられる。
俺たちが入っていったときにも監獄の中はシンと静まり返っていたが、どこかで何かを囁くような声も聞こえた気がした。
囚人は暗闇に隠れ、他者には聞き取れないような音量で囁き合うものと教えられた。
俺も囚人同士の会話を見つけたら、すぐに警棒で制裁を加えるように命令されている。
生まれてこの方、軍事訓練以外で人を殴ったことなど一度もない。
腹違いの兄たちの欲求不満のはけ口として殴られたことがあるだけだ。
頼むから俺の目の前で会話などしないでくれと心の底から願っている。
やっぱり、こんなところに就職したのは間違っていたのかもしれない。
今からでも遅くないから、ブラックベリー所長に辞退を申し込もうかという考えが頭をよぎった。
しかし、財布の中身は3980ギールを残すばかりとなっている。
今さらどこにも行けないし、仕事を
まとまった金が貯まるまでは我慢するしかないだろう。
鉄格子の間に乳房をめり込ませ、黄色い歯を見せながら女囚が俺に色目を使ってきた。
首筋の爛れた皮膚と、やや薄くなった頭髪が目立つ。
医者ではないが、梅毒にかかっていることはすぐに分かった。
頑張って貯金に励もう。
そして、この地獄のような場所から脱出するのだ、そう心に誓った。
囚人を監房に入れた後は巡回ルートを一通り教えてもらった。
「思っていた以上に広いんだね」
「主要な場所を覚えるところからはじめるといいさ。食堂、肥溜め、洗濯場、礼拝所、面会室、まずはこれくらいかな。後はビップルームとかも覚えておいた方がいいぜ。あそこは金のなる木だ」
ビップルームとは富裕な囚人が入る監房だ。
ここでだって、金銭に余裕のある囚人は広くて清潔な部屋を買い求め、美味いものを食い、酒を浴び、女を抱くことだってできるのだ。
場合によっては刑罰を免除してもらうこともできる。
それらの売り上げは全て所長の懐に入った。
所長の身分は三等官でしかないけど、収入は二等官を超えると言われていた。
「ブラウンさん、判事からの通達で貴方には鞭打ち20回の刑が下されましたよ」
「所長殿、なんとかなりませんかな? むち打ち一回につき4万ギールまでなら出せるのですが……」
「ふむ、全部で80万ギールですか……。いいでしょう、貴方は信仰心の篤い模範囚でもある。特別に今回は免除ということにしておきましょう」
こんな会話が当たり前のようにされるというのが監獄というところなのだ。
気が滅入るだろう?
正義ってどこにあるのかな?
ブリテニア王国ではあんまり見かけない。
労働の監督をして午前中は過ぎていった。
アルバン監獄では回転式の汲み上げ機で地下水を汲み出しているのだが、機械を回すのも囚人たちの仕事だ。
一組八人の囚人が四時間ずつ回していくのだが、途中で休憩をとることは許されない。
ぐずぐずしているようなら警棒で小突いて一定の速度を保たせるのが俺たちの役目だった。
エベントは熱心に監督することはなく、大きな石の上に腰かけて、鼻毛などを抜いて過ごしていた。
囚人たちも明らかにホッとした顔をしている。
どこにでも怠け者はいるわけで、厳しい看守と、そうでない者がいるようだ。
「舐められないようにしているだけでいいのさ。ことさら恨みを買うこともない。囚人と看守は持ちつ持たれつだぜ」
それがエベント流の処世術のようだ。
俺も警棒は振るわず、時折言葉で注意するにとどめておいた。
汲み上げ機のある部屋に一人の下役が入ってきた。
気のよさそうな顔をしていて、まだ20代前半くらいの年齢のように見える。
「こちらにウルフ様はいらっしゃいますか?」
「ウルフは私だが」
「ブラックベリー所長がお呼びです。私にご同道ください」
ちらりとエベントを見ると、鼻毛を抜き終わり、今度は耳毛をブチブチやっている最中だった。
「ちょっと外すよ」
「ああ、あと15分もすれば交代だ。俺は休憩室にいってるよ。あそこの紅茶は馬の小便なみにクソ不味いけどな」
廊下にでると下役の青年は丁寧に挨拶をしてきた。
「私はピーター・バニーと申します。このたびウルフ様の補佐として働くことになりました」
「そうだったんだ。まだ、右も左もわからない新参者(しんざんもの)だからよろしく頼むよ」
監獄役人には下役が補佐につく。
エベントにもローンという補佐がついていたが、無口で酷薄(こくはく)そうな顔をしていた。
女囚だって平気な顔で殴りつけるような奴だ。
ピーターの方がずっと付き合いやすそうで、俺としては嬉しかった。
「ところで所長は俺に何の用かな?」
「自分は何も聞いていないです。ただウルフ様を呼んで来いと」
「まあ、行ってみればわかるか……」
ピーターは元気に先導しだした。
「ウルフ様の補佐になれてよかったです。自分は半月以上も黄金部隊だったんですよ」
「黄金部隊?」
「一時保管場所に溜まったクソやションベンを回収業者の馬車へ積み込む作業の監督です。アルバン監獄で一番嫌われている仕事でもあります」
きつそうな仕事だ。
「医者の被っているペストマスクが欲しくなりますよ」
ペストマスクとはカラスみたいに大きな嘴(くちばし)のついたマスクだ。
長い嘴の部分にハーブや香水などを入れて、臭気を緩和しているそうだ。
ペストやコレラに感染する病人は圧倒的に貧乏人が多く、そうした人が住む場所は不衛生で、とてもひどい悪臭が漂っている。
だからペストマスクは医者にとって必携(ひっけい)のアイテムだった。
それに比べて回復魔法を使う治癒士はこんなマスクは被らない。
治癒士は貧乏人の家には行かないので、臭い思いをすることは少ないからだろう。
一つ言えるのは、高い対価を支払う回復魔法は確実に効く。
その一方で、それなりの対価を必要とするのに医者の薬はほとんど効かない。
それでも人々は医者に金を払う。
たとえ自分の全財産を渡してでも、希望に縋(すが)りたいのだ。
悲しいのは、こうした人々が全財産を払っても、治癒士の魔法をかけてもらうにはまるで金が足りないという事実だった。
部屋に着くと、ブラックベリー所長は秘書さんとピーターに席を外すように命じた。
「ミセス・アボット、私とバートン君はすぐに出かけるからお茶はいらないぞ」
色気ムンムンの秘書さんはアボットというのか。
アボットさんが扉を閉めると、所長はにこやかに話しかけてきた。
「どうだね、アルバン監獄は?」
「なかなか大変そうな仕事です」
所長が重々しく頷き二十顎が揺れた。
「私から一つアドバイスできるとしたら、とにかく、囚人に対しては毅然とした態度で臨むことだよ。決して舐められてはならん。また囚人に深入りすることも厳禁だ。適切な距離を保ちたまえ」
「ご訓示、肝に銘じます」
「ところでな、君に特別な任務に就いてもらいたいのだが……」
どうにも煮え切らない、少しだけ警戒した様子が見られる。
そもそも、着任したばかりの俺に特別任務とはどういうことだろうか。
「ベテランではなく、私にというのは何か理由があるのでしょうか?」
「うむ、少し特殊な囚人を抱えていてな……、君なら育ちがいいから、前任者のように囚人に不埒な真似をしないだろうという理由からだ」
「はあ……」
「実はある囚人の面倒を君にみてもらいたいのだが、このことは他言無用で頼むぞ」
「どういった囚人なのですか?」
「うむ……0番と呼ばれている囚人なのだが……。実際に見てもらった方が早いだろう」
ブラックベリー所長は
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